元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

投稿総則

                  記

一、底本は〔清〕張廷玉撰『明史』中華書局点校本、2003年を使用する。
 
二、原文及び訓読文は掲載せず、邦訳及び校勘記並びに訳者注釈のみ掲載する。

三、漢字は新字体に変換する。(例:與→与)

四、掲載文の全部又は一部の転載及び引用は閲覧者の裁量に委ねるものとする。

五、前条に付、学術及び私的利用に関する限りこれを認め、商業利用は厳禁とする。

六、閲覧者に如何なる不利益が生じても訳者は責を負わないものとする。

 平成28年7月21日

                                    以上
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# by su_shan | 2017-12-31 23:59 | 投稿総則 | Comments(0)

張良弼附 弟良臣附

『元季伏莽志』巻九、盗臣伝、李思斉・張良弼附・弟良臣附の後半部分。
本稿は番外編になります。

 張良弼、字を思道、陝西の人。李世賢の起義に従った人物である。挙兵当初、元朝は宣慰使の官位を授け、至正十八年四月には察罕帖木児(チャガンテムル)・李思斉と共に鞏昌府に於いて李喜喜を討った。李喜喜は敗北すると蜀へ逃れたので、張良弼は兵を秦州に留め、後に李思斉と共に拝帖木児(バイテムル)を謀殺し、各々がその兵を吸収した。(至正)二十一年十一月、察罕帖木児・李思斉は兵を派遣して鹿台を包囲し、張良弼を攻撃したが、詔によって和解した。(至正)二十二年、朝廷は李思斉・張良弼の不和を鑑みて、李思斉に対して張良弼討伐の詔を発した。三月、李思斉の兵は武功県に到達したが、張良弼は伏兵を用いてこれを撃破した。(至正)二十六年二月、拡廓帖木児(ココテムル)は各地の兵馬を徴発したが、張良弼は率先して命令を拒み、更に李思斉らと兵を合流させた。七月、拡廓帖木児は関保・虎林赤(フリンチ)を派遣して兵を合わせて黄河を渡り、竹貞・商暠と合流し、李思斉と協約して張良弼を攻撃した。張良弼は李思斉に子弟を人質として差し出し、援助を求めた。李思斉は詔を要請して和解した。(至正)二十七年正月、張良弼は李思斉・脱列伯(トレバイ)と含元殿跡地に会合し、李思斉を盟主に推戴して共同して拡廓帖木児に抵抗した。七月、李思斉は張良弼らを派遣して兵を華陰県に駐屯させた。八月、皇太子が全国の兵馬を総制すると、張良弼に対して禿魯(トルク)・孔興・脱列伯らと共に襄樊地方を奪取するよう命じた。十二月、張良弼らに詔して各軍の兵馬を総括し、軍勢を合流させて東進し、協調して王事に勤めるよう命じたが、張良弼らはみな命に従わなかった。本年十月丙辰、明朝の太祖(朱元璋)は書状を用いて張良弼を諭した。その内容は李思斉伝に記載されている。(至正)二十八年二月、元朝は張良弼らに詔して拡廓帖木児を討伐するよう命じた。この時、明軍が河南府に到達した。これを受けて撤兵して西方へ退き、櫟陽に留まった。三月、明軍が河南府を奪取すると、張良弼の陣営を焼き払った。当時、張良弼は潼関で李思斉の兵と合流していたが、共に鄜城へ逃げ去った。洪武二年(※1)、李思斉が明朝に投降した後、張良弼は慶陽府を退去して寧夏路へ向かい、弟の張良臣と平章政事姚暉に命じて慶陽府を守らせ、自らは金牌張と共に拡廓帖木児に帰順した。徐達は平涼を陥落させると、慶陽府攻略を計画し、まず湯和の部将謝三を派遣してこれを説得し、また薛顕を派遣して兵を率いて慶陽府へ向かわせた。張良臣は降伏を装いながら街道の付近に伏兵を置いた。日没後、張良臣は兵を率いてその陣営を襲撃すると、明軍は潰走し、薛顕は負傷して逃れた。張良臣は勇敢で戦上手であり、軍中では小平章と呼ばれていた。慶陽城は高険であり、籠城すれば守り切る事が出来ると考えた。その兵卒もまた精悍であり、七人の養子は全員が戦上手で、軍中では「金牌張を恐れざるも、ただ七本槍を恐るべし」と言われたものである。またその兄と王保保の来援を頼り、賀宗哲(※2)・韓扎児(韓ジャル)を羽翼とし、姚暉・曽行の軍を尖兵としていた。これによって、再び慶陽城に立て籠もって叛いたのであった。徐達はその一党が混乱を煽る事を恐れ、まず兵を派遣してその連絡を遮断し、再び軍を東原に駐屯させ、諸将を分遣して城を包囲した。張良臣は竹苛を寧夏路へ派遣して救援を求めたが、環州に差し掛かった所で捕縛された。七月、王保保(拡廓帖木児)の部将韓扎児が原州を打ち破ると、また涇州を陥落させ、慶陽城に来援しようとした。馮宗異は駅馬関から兵を率いて迎え撃ち、韓扎児を敗走させた。八月、張良弼は右丞王譲らを派遣して張良臣に白衣を与えて誠意を示し、更に王保保は既に永昌路へ発った事を伝え、城を挙げて降伏させようとしたが、我が軍(明軍)に捕縛された。張良臣は何度も出撃したが戦況は好転せず、内外の連絡は途絶し、食糧が底を尽くと、死体を煮て作った汁を泥の様に丸めて口に入れる者も現れた。姚暉らは城を挙げて降伏し、張良臣父子は共に井戸へ身を投げたが、引き摺り出されて斬殺された。張良弼もまた王保保の軍中で最期を迎えたのであった。

【注釈】
(※1)洪武二年、原文は「思洪武三年」であった。『太祖実録』巻四十一、洪武二年夏四月丁丑条「右副将軍馮宗異の軍が臨洮に到達すると、李思斉は降伏した(右副将軍馮宗異師至臨洮、李思斉降)」に基づき改めた。
(※2)賀宗哲、原文は「賀宗」であった。『太祖実録』巻四十四、洪武二年八月癸未条「賀宗哲・韓扎児らを羽翼とし(賀宗哲・韓扎児等為羽翼)」に基づき改めた。

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# by su_shan | 2017-04-29 10:49 | 『元季伏莽志』巻九 | Comments(0)

繆大亨 武徳

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二


 繆大亨、定遠県の人。当初、義兵を糾合して元朝の為に濠州を攻撃したものの、果たせず、元軍が壊滅すると、繆大亨はただ二万の軍を率いて張知院と共に横澗山に布陣し、一月余り堅守した。太祖(朱元璋)は計略を用いてその陣営を夜襲し、これを打ち破ると、繆大亨は子と共に逃走した。翌朝、再び離散した兵卒を集めると、陣を構えて待ち受けた。太祖は叔父の繆貞を送って降伏するよう説得させ、部隊を率いて遠征に従軍するよう命じ、しばしば功績を挙げ、元帥に抜擢された。軍を率いて揚州路を攻略し、これに勝利した。青軍元帥張明鑑を降伏させた。
 当初、張明鑑は淮西地方の兵を集め、青色の布を目印にして「青軍」と自称し、また長鎗に巧みであった事から「長鎗軍」とも自称した。含山県から転じて揚州路を掠めたが、元朝の鎮南王孛羅普化(ボロトブカ)の招撫によって帰順し、濠泗義兵元帥となった。翌年、食糧が底を尽いたので、鎮南王を擁して叛乱を企てた。鎮南王は逃走先の淮安府で殺害されたので、遂に張明鑑は揚州城を拠点とし、住民を虐殺して飢えを凌いだ。繆大亨が太祖に告げた所によると、賊は飢餓に陥り、仮に四方へ掠奪に奔ればその統制は困難なれど、猛禽としては利用する価値が有るので、敢えて他人に獲得させる事は無い、というものであった。太祖は繆大亨に急襲を命じると、張明鑑は降伏し、数万の軍と馬二千頭余りを接収し、その将校らの妻子は全て応天府へ護送させた。淮海翼元帥府が江南分枢密院に改組されると、繆大亨は枢密院同僉となり、揚州府・鎮江府を総制した。
 繆大亨には治世の手腕が有り、寛容にして妄動しない一方で、厳粛に軍を統制し、暴虐を禁じて残虐を除いたので、民衆は非常に喜んだものである。しばらくして死没した。太祖は鎮江府に差し掛かると、悲嘆して言った。「繆将軍の一生は公明正大で、ただ一度の失敗も無かった。二度と見えぬ事が惜しいものである。」こうして使者を派遣してその墓を祀ったのであった。

 武徳、安豊県の人。元朝の至正年間に義兵千戸となった。元朝の崩壊が間近に迫っている事を悟ると、上官の張鑑に告げた。「我々の武勇は万夫に冠絶し、今や東西を挫いておりますが、時勢を鑑みるに、速やかに拠るべき所を選ぶに越した事はございません。」張鑑はその進言を聞き入れ、共に太祖に帰順した。李文忠に従い、池州路攻撃に従軍し、奮戦の最中に右股に流れ矢を受けたが、これを引き抜くと何事も無かったかの様に戦い続けた。於潜県・昌化県の攻略、厳州の勝利に寄与し、万戸に昇進した。苗軍元帥楊完者(楊オルジェイ)が烏竜嶺に布陣すると、武徳は言った。「襲撃を加えて奪取すべきです。」李文忠は根拠を尋ねた。武徳は答えた。「高所に登って観察致しますと、その部隊は落ち着きを見せず、騒々しい音を立てております。」李文忠は言った。「良いだろう。」こうして楊完者を襲撃し、その陣営を壊滅させた。蘭渓州を奪取し、諸曁州に勝利し、紹興路を攻撃し、その何れにも先頭を切って敵陣を粉砕し、右肘を負傷しても顧みる事は無かった。李文忠は感嘆して言った。「この様な武人を率いておれば、負け戦など有り得ぬ。」
 蔣英・賀仁徳が叛くと、浙東地方は大いに震撼した。李文忠に従って金華府を平定し、また処州府攻撃に従軍し、劉山で賀仁徳と遭遇すると、右股に戈を受けた。武徳は佩刀を抜いて戈を断ち切ると、これを追撃した。賀仁徳は再び戦い、また敗走し、最後は部下に殺害された。武徳は軍を帰還させて厳州府を鎮守した。二年後、官制が整備されると、管軍百戸に改められた。李文忠に従って諸曁州の戦いで張士誠の兵を破り、諸将と共に浦城県を救援し、道中の山寨は全て降伏させた。また李文忠に従って建寧・延安・汀州三路を陥落させ、全ての閩渓諸寨を平定し、管軍千戸に昇進し、衢州府の鎮守に移り、世襲を許された。最後は靖海侯呉禎に従って海上を巡視した。呉禎は武徳の才能を認め、平陽県を守らせた。在任八年にして引退した。雲南遠征に際して、洪武帝(朱元璋)は武徳が宿将である事から、諸軍に随行するよう命じたのであった。
 張鑑は、別名を張明鑑と言って、淮西地方の人である。太祖に帰順すると、遠征に際しては必ず武徳を伴い、武徳に先んじて他界した。官位は江淮行枢密院副使に昇った。


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# by su_shan | 2017-04-18 12:42 | 『明史』列伝第二十二 | Comments(0)

葉旺 馬雲

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 葉旺、六安県の人。合肥県の馬雲と共に長鎗軍の謝再興に従い千戸となった。謝再興が叛くと、二人は自ら離脱して帰順した。しばしば遠征に従軍し、功績を重ねてどちらも指揮僉事を授かった。洪武四年には共に遼東を鎮守した。元朝の国主が北方へ逃走した当初、遼陽行中書省参知政事劉益は蓋州に駐屯する事で平章政事高家奴と互いに連携し、金県・復州等の地域を維持していた。洪武帝(朱元璋)は断事官黄儔に詔書を持たせて劉益に降伏を勧告させた。劉益は管内の兵馬・銭糧・輿地の数々を書物に記して帰順した。こうして遼陽指揮使司(※1)が設立されると、劉益は指揮同知となった。しばらくして、元朝の平章政事洪保保・馬彦翬が共謀して劉益を殺害した。右丞張良佐・左丞商暠が馬彦翬を捕らえて殺害すると、洪保保は黄儔を連行して納哈出(ナガチュ)の陣営へ向かった。張良佐は衛指揮使司に関する権限を掌握していた事から事態を報告し、重ねて申し立てた。「遼東の僻地は海沿いに在り、肘腋の地は全て敵と境界を接しております。平章政事高家奴は遼陽の山寨を守り、知院哈剌章(カラジャン)は瀋陽の古城に駐屯し、開元路は即ち右丞也先不花(エセンブカ)の、金山は即ち太尉納哈出の支配する所でございまして、彼らは互いに支援し合い、時として来寇を企んでおります。今や洪保保は逃げ去りましたが、必ずや紛糾が生じるでしょうから、断事官呉立殿を当地に留めて軍民を鎮撫させるよう要請致します。また捕縛致しました平章政事八丹(バダン)・知院僧孺らは拘束して京師へ護送致します。」洪武帝は呉立・張良佐・商暠を共に蓋州衛指揮僉事に命じた。更に遼陽の地を重鎮と見做し、都指揮使司を設置して各衛を統括させ、葉旺及び馬雲を都指揮使として赴任させた。次いで、黄儔が殺害された事が伝わり、納哈出の侵入が迫ると、葉旺らに勅を発して戦備を整えさせた。
 しばらくして納哈出は軍を率いて来襲したものの、強固な防御体制を目にすると敢えて攻撃せず、蓋州を無視して金州へ向かった。金州城は戦備が整っておらず、指揮使韋富・王勝らは兵卒を率いて各城門の守備を分担した。乃剌吾(ナイラウ)という人物は敵軍の猛将であり、精鋭数百騎を引き連れて城下で戦闘を挑んだが、潜ませていた弩が命中して落馬し、我が方の捕虜となった。敵軍は戦意を喪失した。韋富らが反撃に転じると敵は撤退したが、敢えて元の経路を取らず、蓋州城の南方十里を流れる柞河に沿って遁走した。葉旺は先んじて兵を配置し、柞河を抑えた。連雲島から窟駝寨までの十数里は、河岸に氷塊を積み上げて防壁を作り、その上から水を注ぐと、一夜にして城壁の様に凝結した。砂の中には釘を打ち付けた板を敷き、その傍らには落とし穴を設け、兵を伏せて待機した。馬雲及び指揮使周鶚・呉立らは城内に巨大な旗幟を掲げ、兵の移動を厳禁し、誰も居ないかの様な静穏を演出した。次いで、敵軍が蓋州城の南方に差し掛かると、四方から伏兵が現れ、両軍の旗幟が空を覆い、矢石が雨の様に降り注いだ。納哈出は恐慌に陥って連雲島へ向かったものの、氷壁に阻止されたので並走したが、従った者は全て落とし穴に落ち、遂に敵軍は壊滅したのであった。馬雲は城内から出撃し、兵を合流させて将軍山・畢栗河まで追撃すると捕殺及び凍死した者は数え切れず、勝勢に乗じて更に追撃し、猪児峪に到達した。納哈出は辛うじて単騎で脱出した。功績が評価され、葉旺・馬雲は共に都督僉事に昇進した。時に洪武八年の出来事である。
 (洪武)十二年、馬雲は大寧遠征を命じられた。勝報が届くと褒賞を受け、召還されて京師へ帰還した。その数年後に死没した。葉旺は依然として任地に留まった。たまたま高麗の使節が書状と礼物を携えて来訪し、竜州の鄭白らが朝廷への口添えを願い出た。葉旺は報告した。洪武帝は、臣下に外交権限は無く、これは間諜の欺瞞であるとして、軽々しく信用してはならず、彼らが我が方に対して殊更に弱味を示す事で辺境防備の不備を窺おうとしているので、これを送り返してしまえば、付け入る隙を与えずに済むと指示した。翌年、葉旺は再び周誼という高麗の使節を送って入京させた。洪武帝は高麗の国主弑逆と、国朝の使者を謀殺した事を理由に、その反覆振りを信用出来ず、葉旺らを叱責して断交させ、周誼を拘留して返さなかった。(洪武)十九年、葉旺は召還されて後軍都督府都督僉事となった。三ヶ月後、遼東から急報が届くと、再び任地へ戻るよう命じられた。(洪武)二十一年三月に死没した。
 葉旺と馬雲が遼東を鎮守した有様は、まるで茨の棘を刈る様なもので、軍府を設立し、軍民を按撫し、一万頃余りの田地を開墾した事は、結果として長年に及ぶ恩恵となった。葉旺は最も在任期間が長く、前後凡そ十七年であった。遼東の人々はこれに感謝したものである。嘉靖初年、遼東に於ける二人の功績が評価されると、役所に命じて祠堂が建立され、一年を通して祀られたのであった。

【注釈】
(※1)遼陽指揮使司、原文には「遼陽指揮使司」とあるが、正しくは「遼東衛指揮使司」である。『太祖実録』巻六十一、洪武四年二月壬午条には「主上は文章に目を通すとその誠実を称え、詔を発して遼東衛指揮使司を設置し、劉益を指揮同知とした(上覧表嘉其誠、詔置遼東衛指揮使司、以益為指揮同知)」とある。また同書巻六十五、洪武四年五月丙寅条には「旧元朝の平章政事洪保保・馬彥翬・八丹等らが叛き、遼東衛指揮同知劉益を殺害した(故元平章洪保保・馬彥翬・八丹等叛、殺遼東衛指揮同知劉益)」とあり、遼東衛指揮使司であった事は明らかである。


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# by su_shan | 2017-04-11 20:35 | 『明史』列伝第二十二 | Comments(0)

何文輝 徐司馬

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 何文輝、字を徳明、滁州の人。太祖(朱元璋)が滁州を陥落させると、当時十四歳の何文輝を見出し、自らの養子として朱姓を与えた。太祖は挙兵当初、数多くの養子を抱えた。それらが成長すると、諸将と共に諸路を分担して鎮守するよう命じた。周舎は鎮江を守り、道舎は寧国を守り、馬児は婺州を守り、柴舎・真童は処州を守り、金剛奴は衢州を守ったが、全て養子である。金剛奴に関しては考証する術が無い。周舎とは沐英の事であり、軍中では沐舎と呼ばれていた。柴舎とは朱文剛の事であり、耿再成と共に処州府の変事に殉じた。また朱文遜は史籍が小字を伝えていないが、同様に養子となって太平府で殺害された。沐英以外で最も著名な人物は道舎・馬児であり、馬児とは徐司馬の事であり、道舎とは何文輝の事である。
 何文輝は天寧翼元帥として寧国府を鎮守し、江西行中書省参知政事に昇進した。しばしば江西地方の未だに帰順していない州県を攻撃し、新淦州の鄧仲廉を討伐し、斬殺した。安福州を救援し、饒鼎臣を敗走させ、山尖寨を平定した。徐達に従って淮東地方を攻略し、また従軍して平江路を陥落させた。文綺を賜り、江西行中書省左丞に昇進し、元の何姓へ戻した。征南副将軍として平章政事胡美と共に江西から福建を奪取し、杉関を越え、光沢県へ侵攻し、邵武県・建陽県を制圧し、建寧路を直撃した。元朝の同僉達里麻(タリマ)・参知政事陳子琦は門を閉ざして堅守した。何文輝は胡美と共にこれを包囲して攻撃した。十日間の攻防の後、達里麻は防ぎ切れず、夜になって密かに何文輝の陣営を訪れ、降伏を申し出た。翌朝、総管翟也先不花(翟エセンブカ)もまた軍を率いて何文輝に降伏した。胡美は両名が自分の陣営へ顔を出さなかった事に激怒し、城内の人間を皆殺しにしようとした。何文輝は胡美に告げた。「貴公と共に王命を賜わってこの地に参じたのは、百姓を安んじる為ではありませんか。最早降伏は成ったと言うのに、どうして私怨によって人を殺すのですか。」胡美は断念した。軍が入城しても、一人として狼藉を働いた者は居なかった。汀州路・泉州路の諸州県はそれを聞くと、相次いで帰順した。太祖の車駕が汴梁路に行幸した際には、何文輝を召還して扈従させ、河南衛指揮使に命じ、汝州の残党を鎮定させた。大将軍(徐達)に従って陝西地方を奪取し、潼関の留守を預かった。洪武三年には大都督府都督僉事を授かり、世襲指揮使の特権を与えられた。また参将として傅友徳らに従って蜀(明昇)を平定し、金幣を賜り、成都府の留守を預かった。
 何文輝の号令は明朗かつ厳粛であり、軍民は皆これに感謝した。嘗て、洪武帝(朱元璋)はその知略と人望を称賛したものである。大都督府都督同知に異動した。(洪武)五年、山東の兵を率いて李文忠に従い応昌路へ進出するよう命じられた。翌年、北平府の鎮守に移った。李文忠の北征では、何文輝は兵卒を監督して居庸関を警備したが、病を得て召還された。(洪武)九年六月に死没した時、三十六歳であった。官吏が派遣されて滁州の東沙河上流に埋葬され、その家は手厚く保護された。子の何環は成都護衛指揮使となり、北征の途上で陣没した。

 徐司馬、字を従政、揚州路の人。元朝末期の兵乱によって、九歳にして寄る辺を失った。太祖はこれを見出し、養子として、自らの姓を与えた。成長すると、出入りに際して左右に控えさせた。婺州路の攻略に及んで、総制に除され、元帥常遇春を補佐して婺州を鎮守するよう命じられた。呉元年には金華衛指揮同知を授けられた。洪武元年〔一〕には副将軍李文忠に従って北征し、元朝の宗王慶生(チンシャン)を捕らえた。杭州衛指揮使に抜擢され、次いで都指揮使に昇進した。詔によって元の徐姓へ戻した。
 (洪武)九年に河南府の鎮守へ移った。当時、旧汴梁路を新たに北京と呼称し、重鎮と見做していたが、洪武帝は徐司馬の賢才の素質を見込んで、特に彼に委任したのであった。宋国公馮勝が河南府に於いて練兵を実施しようとしていた時、たまたま天象に異変が生じ、占いによると大梁にその原因が有るとの事であった。洪武帝は使者を派遣して馮勝に密勅を下した。「馬児に伝えて協議せよ。」次いで再び両名に勅を下して言った。「しばしば天象に異変が生じ、大梁の軍民が動揺する様であれば、速やかに対処せよ。今、秦・晋二王(朱樉・朱棡)を帰京させ、厳重に戦備を整えて警戒させねばならぬ。王が汴梁に到着する時、宋国公が出迎えるのであれば都指揮使が留守を預かり、都指揮使が出迎えるのであれば宋国公が同様にせよ。」勅書には官位のみが記され名は無いが、宋国公らと共に重用されたのである。(洪武)十九年には入観し、中軍都督府都督僉事に抜擢された。(洪武)二十五年、左副総兵として藍玉の建昌遠征に従軍し、越巂を討伐した。翌年正月、成都府に帰還して死没した。藍玉党に追認され、二人の子は何れも罪を得た。
 徐司馬は文学を好み、礼儀正しく温厚な性格で、各所で兵卒を慰撫し、大勢から支持を集めた。河南府に在任した期間は長く、特に善政を敷いたものである。公暇を得て現場を退くと、蕭然として一室に篭る姿は清貧の様であった。その戦功は何文輝に及ばずながらも雅量は勝り、両名は賢将と並び称されているのである。

【校勘記】
〔一〕洪武元年、李文忠らが北征して開平路に勝利し、元朝の宗王慶生を捕らえたのは洪武二年六月の出来事であり、それは『太祖実録』巻四十二、洪武二年六月己卯条・『国榷』巻三、三百九十二頁に記されている。「元年」は「二年」とすべきである。


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# by su_shan | 2017-04-01 23:41 | 『明史』列伝第二十二 | Comments(0)