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元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

何真

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 何真、字を邦佐、東莞県の人。幼少より優秀で、書物と剣術を好んだ。元朝の至正年間の初め、河源県務副使となり、淡水場管勾に転出したが、辞任して帰郷した。元朝末期に盗賊が跋扈すると、何真は手勢を集めて郷里を守った。(至正)十四年、同県の王成・陳仲玉が叛乱を企てたので、何真は元帥府に赴いて告発した。ところが責任者は買収されており、逆に何真を捕縛しようとした。何真は坭岡に落ち延び、挙兵して王成を攻撃したが、成功しなかった。しばらくして、恵州路出身の王仲剛と叛将の黄常が恵州路を占拠した。何真は黄常を敗走させ、王仲剛を殺害した。その功績によって恵陽路同知・広東都元帥を授かり、恵州路を鎮守した。海賊の邵宗愚〔一〕が広州路を陥落させた。何真は兵を率いてこれを撃退し、またその主城を奪還したので、広東分中書省参知政事に抜擢され、次いで右丞に抜擢された。贛州路出身の熊天瑞が数万の水軍を引き連れて何真を陥れようと企図したので、何真はこれを胥江に迎え撃った。俄かに激しい雷雨が沸き起こり、熊天瑞の旗艦の帆柱をへし折ったので、攻撃して敗走させた。広東の人々は何真に頼って身の安全を得ることが出来た。これより以前、何真は再び王成を攻撃したことがあるが、陳仲玉を誅殺したものの王成の兵の守りは固かった。(至正)二十六年にまた王成を包囲し、王成を捕らえた者には鈔十千を与えると布告した。王成の召使が主人を捕縛して現れた。何真は彼に鈔を与えたが、湯釜を用意するよう命じ、それで召使を煮殺して、衆人に言い放った。「召使が主人に叛けばこの様になるぞ。」沿海の地域で叛いた者はみな降伏した。時に中原は戦禍に覆われていたが、嶺表の地はそこから遠く隔たっていたことから、尉佗の故事に倣うよう進言する者があった。何真は聞き入れなかった。しばしば使者を派遣して海路より朝廷へ進物を捧げ、資徳大夫・行中書省左丞に昇進した。
 洪武元年、太祖(朱元璋)は廖永忠を征南将軍に命じ、水軍を率いて広東を攻略させた。廖永忠が福州路に差し掛かった時、書状によって何真を招聘し、遂に航海を続けて潮州路に入った。船団が到着すると、何真は都事劉克佐を廖永忠の軍門に派遣して自らの印章を捧げ、支配下にある郡県の戸籍や田糧を記載した表を提出して降伏した。廖永忠が朝廷に報告すると、何真を賞賛する詔を賜った。「朕の考える古の豪傑とは、境界を保って民衆を安んじ、徳者の到来を待つものである。例えば竇融・李勣の類は、兵を擁して天険に拠り、群雄の間に屹立し、真の主以外には決して屈することが無かったので、彼らは漢・唐の名臣となったのであるが、今の時勢ではこういった者を見かけない。汝、何真は数郡の軍民を束ね、しかも一兵をも煩わせること無く、境界を保全して帰順したことは、どうして竇融・李勣に引けを取ることがあろうか。」廖永忠が東莞県に達すると、何真は官僚を引き連れて出迎え、遂に詔書を奉じて入朝した。江西行中書省参知政事に抜擢され、さらに次の様に諭された。「天下を争奪するに際して、いわゆる豪傑には三つの種類がある。乱を鎮めてよく治める者、これが最も良い。民衆を守り情勢の変化と帰順する先を知る者、これは次点である。ただ引き籠るだけで安寧を貪り、死んでも悔いるところが無い、これは更に下である。卿は投降して国土を納め、面目に逆らわない、まさに時勢を知る者というべきである。」何真は平伏して感謝した。何真の官僚としての声望は非常に高く、最も儒術を歓迎し、書物を読み文章を綴った。
 程無くして山東行中書省参知政事に転出した。(洪武)四年に広東への帰還を命じられ、旧来の兵卒を召集させた。任務を終えると、また山東に赴き、(洪武)九年に致仕した。
 大軍を発して雲南遠征が行われると、何真に命じて兵馬指揮を担当する子の何貴と共に行かせ、軍糧輸送を策定し、駅站を設置した。何真は山西右布政使に遷った。再び何貴と共に広東での軍務に従事し、何貴は鎮南衛指揮僉事に抜擢された。次いで何真に浙江布政使を命じ、湖広布政使に改めた。
 (洪武)二十年に再び致仕し、東莞伯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられ、没した。
 子の何栄が跡を継いだ。弟の何貴及び尚宝司丞の何宏はみな藍玉の徒党に連座して処刑された。何真の弟の何迪は自身に危害が及ぶことを恐れ、遂に叛乱を起こし、南海県の官軍三百人余りを殺害し、海中の島に遁走した。広東都指揮使司が兵を発して討伐に向かい、誅殺された。

【校勘記】
〔一〕邵宗愚、もとは「趙宗愚」となっており、本書巻百二十九、廖永忠伝・『明史稿』伝十四、何真伝・『太祖実録』巻二十七、洪武元年四月辛丑条・『元史』巻四十六、順帝本紀に基づいて改めた。
by su_shan | 2016-08-03 13:35 | 『明史』列伝第十八