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元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

楊璟

『明史』巻一百二十九、列伝第十七

 楊璟、合肥県の人。元は儒家の子であった。管軍万戸として太祖(朱元璋)の集慶路攻略に従軍し、管軍総管に昇進した。常州路を陥落させると、親軍副都指揮使に昇進した。続いて婺州路を陥落させ、江南行枢密院判官に遷った。また漢(陳友諒)討伐に従軍し、功績によって湖広行中書省参知政事に抜擢された。江陵県鎮守に移った。湖南地方の蛮族を攻め立て、軍を三江口に駐留させた。また掃討の功績によって湖広行中書省平章政事に遷った。左丞周徳興・参知政事張彬を指揮して武昌府の諸衛軍を率いて広西を奪取した。
 洪武元年の春に永州路へ進攻した。守将鄧祖勝が迎撃したものの敗北し、兵を撤収して固守した。楊璟は進撃してこれを包囲した。元軍が来援すると、東郷に駐留し、湘水に七つの陣営を並べて呼応し、軍勢は強盛であった。楊璟はこれを撃退し、千人余りを捕虜とした。全州路守将の平章政事阿思蘭(アスラン)及び周文貴が再び兵を率いて来援したので、周徳興を派遣してこれを撃退した。千戸王廷を派遣して宝慶路を奪取し、周徳興・張彬は全州路を奪取し、道州・藍山県・桂陽州・武岡県といった諸州県を攻略した。一方で永州路は長らく陥落しなかったので、一軍に下令して各門に布陣させ、堡塁を築いて困窮させ、西江に浮橋を造り、これを急襲した。鄧祖勝は力尽き、毒薬を仰いで自殺した。百戸夏昇が投降を約束した。楊璟の兵が城壁を越えて侵入すると、参知政事張子賢が各所で抗戦したが、軍は壊滅して捕らえられ、漸く永州路に勝利した。一方で征南将軍廖永忠・参知政事朱亮祖もまた広東より梧州路を奪取し、潯州路・貴州・欝林州を平定した。朱亮祖は兵を率いて合流した。靖江に進攻したものの陥落させる事が出来ず、楊璟は諸将に言った。「連中の頼みとする所は西側の水濠だけだ。その堤防を決壊させれば、これを打ち破るのは確実である。」そこで指揮使丘広を派遣して牐口関を攻撃させ、堤防の守兵を殺害し、水濠を完全に決壊させ、更に五本の土堤を築き、城内へ注ぎ入れた。それでも城中の者は固守を続けた。強襲すること二ヶ月、これに勝利し、平章政事也児吉尼(イェルギニ)を捕らえた。これに先んじて張彬が南関を攻撃した時、守兵に悪罵され、激怒してその民衆を虐殺しようとした。楊璟が入城するに当たって、特に下令してこれを禁じた為、民衆は安堵した。再び軍を移して郴州路を従え、両江土官黄英岑・伯顔(バヤン)らを降伏させ、廖永忠もまた南寧路・象州を鎮定した。こうして広西の地の悉くが平定された。
 帰還すると、偏将軍湯和と共に徐達に従って山西を奪取し、沢州に到達したものの、元朝の平章政事韓扎児(韓ジャル)と韓店に戦い、敗北を喫した。帰還すると、唐州の叛乱兵を捕縛し、南陽府に留まって鎮守した。間も無くして、詔を下して楊璟を夏(明昇)へ遣使した。この当時、夏の主君明昇は幼く、母彭氏及び諸大臣が国政を取り仕切っていた。楊璟が到着すると、何度も禍福を説いて明昇を説得し、入朝させようとした。明昇は臣下を集めて協議を行った。ところが諸大臣は私利私益しか考えておらず、明昇の入朝は自らの不利と思い、みな反対したので、明昇は決断する事が出来なかった。楊璟が帰還すると、再び書状を用いて明昇を諭したものの、遂に成果は得られなかった。二年後に夏は滅んだ。楊璟は湖広行中書省平章政事に遷った。
 慈利県の土官覃垕が諸洞蛮を扇動して叛乱を起こすと、軍を率いて討伐するよう命じられ、これを立て続けに破った。覃垕が偽って投降すると、楊璟は配下の者を受諾に向かわせたものの、捕らえられてしまった。太祖は使者を派遣して楊璟を叱責した。楊璟は兵を督戦して強襲し、賊軍は遁走した。
 (洪武)三年に大規模な功臣封爵が行われると、楊璟は営陽侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。
 (洪武)四年に湯和に従って夏を討伐したが、瞿塘関の戦いでは苦戦を強いられた。翌年に副将軍に充てられ、鄧愈に従って辰州府・沅州の蛮族叛乱を討伐した。再び大将軍徐達に従って北平府を鎮守し、遼東に練兵した。(洪武)十五年八月に没し、芮国公に追封され、武信と諡された。子の楊通が跡を継ぎ、(洪武)二十年に降兵を率いて雲南鎮守に向かったが、道中でその多くが逃亡した為、普定衛指揮使に降格された。(洪武)二十三年、楊璟が胡惟庸の徒党に連座したとの詔が発せられ、これは瞿塘関での敗戦の責を負わされたものとされているが、異聞では陰謀であると言う。
by su_shan | 2016-09-16 12:16 | 『明史』列伝第十七