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元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

胡美

『明史』巻一百二十九、列伝第十七

 胡美、沔陽府の人。最初の名は胡廷瑞と言ったが、太祖(朱元璋)の字を避け、胡美と改名した。当初は陳友諒に仕え、江西行中書省丞相となり、竜興路を鎮守した。太祖が江州路を陥落させると、遣使して胡美を招聘した。胡美は使者として鄭仁傑を九江に派遣して投降を申し出、更に自らの部曲を解散させる事の無いよう要請した。太祖は途端に難しい顔をしたが、劉基はその胡牀を足で小突いた。太祖は理解し、書状を下賜して次の様に返答した。「鄭仁傑なる者が訪れ、貴殿には恭順の意志が有ると言ったが、貴殿は実に明達である。ところで所部の分散を恐れておるそうだが、それは貴殿の心配の度が過ぎるというものだ。我が挙兵してより十年、奇才英士の四方より得たる者の何と多い事か。よく天の時を見定める者は、時機を計って、一々干戈を交える事は無く、賢明に身を寄せて来帰する者は、例外無く誠意を以て遇し、その才幹によってこれを任用し、兵が少なければ兵を与えて増強し、地位が低ければ爵位を授けて高位に上らせ、財産が乏しければ褒賞を与えて厚遇するに、その部曲を散じる事を認めれば、人に身の危険を疑わせ、どうして帰順の意志を持たせる事など出来ようか。更に陳氏の諸将を見れば、例えば趙普勝などは勇敢で戦上手であったが、疑惑を抱かれて殺戮されたと言うではないか。この様に猜疑していては、一体何を成し得えようか。近く建康竜湾の戦役に於いて、我が得た長張・梁鉉・彭指揮ら数名は、元の職位のまま登用し、我が旧来の諸将と同じく、恩も義も均等にしておる。長張は安慶路の水寨を破り、梁鉉らは江北を攻めたので、手厚く褒賞を与えてやった。これら数名の者は、そうする以外に生き延びる方法が無いにせよ、それでもこの様に処遇しておるのに、ましてや貴殿の様に一兵も煩わせる事無く、城を全うして帰順する者は尚更であろう。得失の機会は差し迫っておるぞ、貴殿は一刻も早く方策を立てよ。」胡美は書状を受け取ると、康泰を九江へ派遣して投降した。こうして太祖は竜興路へ赴き、樵舎に到着した。胡美は陳氏より授かった丞相の印章や軍民の数や備蓄物資の記録を献上し、新城門に出迎えて謁見した。太祖はこれを慰労し、元の官職のまま登用した。
 胡美は降伏したものの、同僉康泰・平章政事祝宗は従おうとしなかった為に、胡美は太祖に密告した。太祖はその兵を率いるよう命じ、徐達に従って武昌路に遠征させた。果たして二人は叛き、洪都府を攻め落とした。徐達らは兵を返してこれを撃退した。祝宗は敗死し、康泰は捕らえられて建康へ送られた。太祖は康泰が胡美の甥である事を理由に、誅殺せずに赦免した。胡美は武昌路遠征に従軍し、また徐達らと共に馬歩水軍を率いて淮東を奪取し、張士誠を討伐し、湖州路を陥落させ、平江路を包囲し、別軍を率いて無錫州を奪取し、莫天祐を降伏させた。軍が帰還すると、栄禄大夫を加官された。
 その年の冬、征南将軍を命じ、軍を率いて江西より福建を奪取するに際して、これを諭して言った。「汝は陳氏の丞相として帰順し、我に仕える事数年、忠実にして過失無し、それ故汝に兵を総べて閩の地を奪取するよう命じたのである。左丞何文輝を汝の副将とし、参知政事戴徳に徴発を委ねよ、二人は何れも我の親近ではあるが、だからと言って軍法に悖る様な事が有ってはならぬ。嘗て汝は閩を攻めた事が有ると聞く、ならばその地勢の険易を熟知していよう。今、大軍を総べて城邑を攻囲するに当たり、必ずや便宜の可否を選んで進退を見極め、時機を失する事の無い様にせよ。」こうして胡美は杉関を越え、光沢県を陥落させ、邵武県守将李宗茂は城を以て降伏した。建陽県に差し掛かると、守将曹復疇もまた降伏した。進撃して建寧県を包囲すると、守将同僉達里麻(タリマ)・参知政事陳子琦は堅守して我が軍の疲弊を画策した。胡美は度々挑発したものの、出撃しなかった為、これを強襲して降伏させた。軍列を整えて入城し、秋毫も犯す所は無かった。陳子琦らを捕らえて京師へ送り、将兵九千七百人余りを捕縛し、糧食馬畜の数は相当であった。湯和らと合流して福州路・延平路・興化路を奪取し、胡美は降将を汀州路・泉州路の諸郡に派遣して降伏するよう説得した。こうして福建の地の悉くが平定された。胡美は当地を鎮守した。次いで召還され、汴梁行幸に扈従した。
 太祖が即位すると、胡美は中書省平章政事・詹事院同知となった。洪武三年に命によって河南に赴き、拡廓帖木児(ココテムル)の元の部曲を招集した。この年の冬に論功行賞が行われ、豫章侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられ、その誥詞には竇融が漢に帰順した故事と対比する一節があった。(洪武)十三年に臨川侯に改封され、長沙府での潭王府建設を監督した。太祖は勲臣を配列するに当たって、両雄の間に兵を抱え、時勢の成り行きに関わらず帰順した者七名を言った。七人とは、韓政・曹良臣・楊璟・陸聚・梅思祖・黄彬及び胡美であり、みな侯爵に封じられた。胡美と楊璟は一方面に在って功績著しく、洪武帝(朱元璋)はこれに最上位の厚遇を与えた。
 (洪武)十七年に法に触れて処刑された。(洪武)二十三年、李善長が粛清されると、洪武帝は自ら詔を著して奸党を並び立てたのであるが、胡美の長女が貴妃となっていた事から、その子や婿を伴って押し入り宮禁を破り、その事態が発覚した事で、子や婿は処刑され、胡美は自害を賜ったと記されている。
by su_shan | 2016-09-18 15:37 | 『明史』列伝第十七