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元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

甯正 袁義

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 甯正、字を正卿、寿州の人。幼くして韋徳成の養子となり、韋姓を名乗った。元朝末期に韋徳成に従って帰順し、長江渡河に従った。韋徳成が宣州(寧国路)で戦没すると、甯正がその軍を引き継ぎ、功績を重ねて鳳翔衛指揮副使を授けられた。中原平定に従軍し、大都へ入城すると、元朝の将兵八千人余りを投降させた。傅友徳が真定路から定州を攻略すると、甯正を真定路の守備とした。次いで、大軍に従って陝西を奪取した。馮勝が臨洮府に勝利すると、甯正を留めて当地を鎮守させた。大軍が慶陽府を包囲すると、甯正は邠州に駐屯し、敵軍の増援を阻止した。慶陽府が陥落すると、帰還して臨洮府を鎮守した。鄧愈に従って定西州を破ると、河州路に勝利した。
 洪武三年に河州衛指揮使を授けられた。甯正は提案した。「西方の民衆は軍への食糧供給に大きな負担を抱えております。一方で、茶や布であれば食糧に替え易いものでございます。そこで茶布を以て軍に供給させ、自ら貿易するよう命じれば、運搬の労苦は軽減されるでしょう。」詔によってこの提案は採用された。甯正が河州衛に赴任した当初、城邑は廃墟ばかりであり、慰労に努めた。数年を経ずして、河州府は楽土となった。璽書によって功労を評価され、初めて甯姓に戻す事になった。寧夏衛を兼任し、漢・唐代の旧渠を修築し、河水を引いて田に注ぎ、数万頃を開墾したので、軍の食糧は充足した。
 (洪武)十三年、沐英に従って北征し、元朝の平章政事脱火赤(トガチ)・知院愛足(アズ)を捕らえ、全寧路四部を奪取した。(洪武)十五年、四川都指揮使に異動し、松・茂諸州を討伐した。雲南が平定されると、甯正と馮誠に命じて共に当地を鎮守させた。思倫発が叛乱すると、甯正はこれを摩沙勒寨の戦いで破り、斬首一千五百を記録した。次いで、敵軍が大挙集結し、定辺県を包囲した。沐英は軍を三隊に分け、甯正は左軍を率い、奮戦の結果、大いにこれを撃破した事は、沐英伝に記されている。土酋阿資が叛くと、また沐英に従って討伐し、これを降伏させた。沐英が没すると、詔によって甯正は左都督を授かり、鎮守の任を代行した。次いで、また平羌将軍を拝命し、川陝地方の兵を総括して階州・文州の叛徒張者を討伐した。(洪武)二十八年、秦王(朱樉)に従って洮州の蛮族を討伐し、京師に帰還した。その翌年に没した。

 また袁義という人物は、盧江県の人で、元は張姓であり、張徳勝の一族である。当初、双刀趙の総管となり、安慶路を鎮守し、沙子港の戦いで趙同僉・丁普郎を破った。左君弼がこれを招聘したものの、従わなかった。張徳勝が戦死すると、初めて帰順し、帳前親軍元帥となって、姓名を賜った。何度も征伐に従軍し、功績を重ねて興武衛指揮僉事となった。大将軍(徐達)の北征に従軍し、通州の戦いで元朝の平章政事俺普達(アルブダ)らを破り、沢州・潞州の戦いで賀宗哲・詹同を敗走させ、最大の功績を挙げた。また陝西平定に従軍し、元朝の豫王の兵を破った。諸将と共に慶陽府を合撃した。俄かに張良臣の兵が袁義の陣営に迫ると、袁義は布陣を固めて動揺せず、その疲弊を待ち、力戦してこれを打ち破った。定西州の戦いで拡廓帖木児(ココテムル)の軍を敗走させ、南進して興元路を奪取し、本衛指揮同知に昇進し、羽林衛に調遣され、遼東に移鎮した。
 次いで、沐英に従って雲南に遠征し、普定路の諸城に勝利すると、残留して楚雄府を鎮守した。蛮人は何度も叛いたものの、袁義は軍糧を備蓄すると共に堡塁を高く築き、守っては戦い、戦功によって楚雄衛指揮使に異動した。入朝すると、洪武帝(朱元璋)は手厚く慰労した。老齢であった事から、太医院に命じて鬚鬢を染めさせると、任地へ戻ってからは威遠の人として評判になり、更に特別に銀印を賜わるなど袁義は格別に重用された。二十年を経て、田地を開墾して堰堤を築き、城郭や橋梁を整備したので、領内の計画は十分に達成された。軍民は袁義の徳行に感謝したものである。建文元年に召還されると、右軍都督府都督僉事となり、都督同知に昇進し、在任中に没した。


# by su_shan | 2017-06-10 23:17 | 『明史』列伝第二十二

王銘

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 王銘、字を子敬、和州の人。初めは元帥兪通海の麾下に属し、次いで采石鎮に蛮子海牙(マンジハイヤ)を攻撃した。王銘は勇敢であった事から、奇兵に選抜された。戦闘が始まると、決死隊を率いて喚声を上げながら突撃し、その水寨を突破した。これ以降、数々の功績を挙げた。呉軍(張士誠)と太湖に戦い、流れ矢が右肘に当たると、佩刀を引いてその矢尻を抉り出し、再び戦った。兪通海はこれを労った。また通州の黄橋・鵝項諸寨を突破した。白金文綺を賜った。竜湾に戦い、追撃して北方の采石鎮に到達すると、王銘は単独で突撃した。敵兵は槊を突き出して王銘を狙い、頬を負傷した。王銘は三度突撃して三度突入し、多くの敵兵を殺傷した。文綺銀椀を賜り、宿衛に選抜された。次いで江州路を奪取し、康郎山及び涇江口に戦い、また英山諸寨に勝利し、管軍百戸に抜擢された。副将軍常遇春に従って湖州路の昇山〔一〕に戦い、また旧館に戦い、次いで烏鎮に戦った。前後数十戦、功績は大きく、松江府の鎮守を命じられた。太倉に移鎮し、倭寇千人余りを捕殺し、再び金幣を賜った。
 洪武四年に都試百戸の任にあって槍術を得意とする者の中には、王銘に敵う者は居なかった。昇進を重ねて長淮衛指揮僉事に到達し、温州府に移鎮した。王銘は上疏して言った。「臣の拝領致しました鎮につきましては、外部に島夷を控えている状況であるにも関わらず、依然として城壁や楼櫓は狭小であり、ただ国威を発揚するに足りないばかりか、俄かに風潮の変でもございましたら、防ぐどころでは無く、直ちに改修しなければなりません。」洪武帝(朱元璋)は認可の旨を回答した。こうして城壁を補修して濠を浚ったので、旧来に倍する様相となった。加えて外垣を築き、海神山より郭公山に至るまでの二千丈余りは、広敞壮麗にして、屹然たる浙東の巨鎮となったのであった。洪武帝はこれを喜び、世襲を認めた。嘗て王銘は休暇の為に和州へ戻った事があった。温州府の士女は道を遮る様にして送迎した。長吏はみな互いに感嘆して言ったものである。「我々は官員ではあるが、民衆が我々の去来を眺める様は漠然としておるのに、王指揮の見送りの多き事には恥じ入るばかりよ。」王銘は右軍都督府都督僉事を歴任したが、(洪武)二十六年、藍玉党に連座して処刑された。

【校勘記】
〔一〕昇山、元は「弁山」であり、本書巻百二十三、張士誠伝・巻百二十五、徐達伝・常遇春伝は全て「昇山」としている。湖州路に昇山があり、また弁山(別名を卞山と言う)もある事を考えると、弁山では進軍経路と一致しない為、「昇山」として改めた。


# by su_shan | 2017-06-10 00:24 | 『明史』列伝第二十二

蔡遷 陳文

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 蔡遷〔一〕、その出身とする郷里は不明であり、元朝末期に芝麻李(李二)に従って徐州を占拠した。芝麻李が敗退すると、太祖(朱元璋)に帰順し、先鋒となった。長江渡河に従い、采石鎮を陥落させ、太平路に勝利し、溧水州を奪取し、蛮子海牙(マンジハイヤ)の水寨及び陳野先(陳エセン)を破り、その全てに功績を挙げた。集慶路を平定すると、千戸を授けられた。徐達に従って広徳路・寧国路を奪取し、万戸に異動した。常州路に進攻し、黄元帥を捕らえ、遂に都先鋒となった。馬駄沙遠征に従軍し、池州路に勝利し、樅陽を攻撃し、衢州路・婺州路遠征に従軍し、帳前左翼元帥を授かった。竜江の戦いで陳友諒を破り、進軍して太平府を奪還し、安慶路の水寨を奪取し、九江(江州路)を制圧し、瑞昌〔二〕県の戦いで陳友諒の八個の陣営を破り、遂に南昌(竜興路)に勝利した。安豊路救援に従軍し、合肥県を攻撃し、鄱陽湖に戦い、武昌路遠征に従軍し、指揮同知に昇進した。常遇春に従って鄧克明の残党を討伐し、贛州路に進攻し、南安路・南雄路の諸郡を奪取し、兵を返して饒鼎臣を茶陵州に追い、竜驤衛指揮同知に異動した。徐達に従って高郵府に勝利し、馬港〔三〕を破り、武徳衛指揮使を授けられ、淮安府を鎮守し、黄州府に移鎮した。次いで湘潭州・辰州・全州・道州・永州等の諸州を陥落させ、荊州衛指揮使に異動した。進軍して広西に勝利し、広西行中書省参知政事に異動し、靖江王府相を兼任し、叛いた諸蛮族を討伐した。洪武三年九月に没すると、詔によって遺体は京師に送還されて葬られ、安遠侯を贈られ、武襄と諡された。
 蔡遷は将帥としての十五年間で独任した事は無く、多くの場合は諸将に従って征討に赴いた。自身は数十戦を経験し、その度に勇敢に突進し、大刀を振るって左右を撃ち払ったので、敵兵は慄いて敢えて近寄ろうとはしなかった。帰還すると、全身に戦傷を負い、他人からすれば見るに堪えない程であったが、蔡遷は殆ど意に介さなかった事から、太祖の偏愛を受けたものである。蔡遷が没するに及んで、太祖はこれを痛惜し、自ら弔文を記して祀ったのであった。

 合肥県の陳文という人物は、南北に転戦し、しばしば戦功を立て、蔡遷に次ぐものである。陳文は幼くして父を失い、よく母に孝行し、元朝の末期に家族を連れて太祖に帰順し、昇進を重ねて官位は都督僉事に達した。没すると、東海侯に追封され、孝男と諡された。明朝の臣下で孝の諡を得た人物は、陳文ただ一人である。

【校勘記】
〔一〕蔡遷、本書巻百五、功臣世表・『太祖実録』巻五十五、洪武三年八月丙子条・巻五十六洪武三年九月丙午条は全て「蔡僊」としている。
〔二〕瑞昌、元は「寿昌」であった。『太祖実録』巻五十六、洪武三年九月丙午条に基づき改めた。『明史考証』巻四には、「孫興祖伝の記載では、統軍元帥であった時に瑞昌の八陣営を破り、とあり、これが八陣指揮を指すので、その事であろう。当時の情勢を考えると、陳友諒は江西・湖広地方を有していたので、瑞昌に陣営を置いて明兵を防いだのであろう、従って寿昌は誤りである。」とある。
〔三〕馬港、本書巻百二十五、徐達伝は「馬騾港」、『明史稿』伝二十五、蔡遷伝は「馬邏港」としている。


# by su_shan | 2017-06-09 12:22 | 『明史』列伝第二十二

毛貴

『元末伏莽志』巻二、逆党伝
本稿は番外編になります。

 毛貴は紅巾軍の首領である。至正十七年、劉福通は毛貴を派遣して山東を掠奪させた。二月壬申、毛貴は膠州を陥落させ、僉枢密院事脱歓(トゴン)が敗死した。太不花(タイブカ)は白衣を以て報告し、湖広行中書省右丞相を拝命して毛貴を討伐した。三月、毛貴は莱州を陥落させ、守臣の山東宣慰副使釈嘉納が敗死した。甲午、毛貴は海路より海船を得て、長駆して侵入し、遂に益都路を撃破した。益王買奴は遁走し、以後、山東の郡邑は全て陥落した。丁酉、毛貴は浜州を陥落させた。四月丁卯、莒州を陥落させた。六月、劉福通は兵を三路に分け、毛貴は田豊と合流して大都へ向かった。至正十八年正月、知枢密院事不蘭奚(ブランシ)は好石橋の戦いで毛貴に敗北し、済南路へ敗走した。二月己巳朔、毛貴は滄州を陥落させ、遂に長蘆鎮を拠点とした。癸酉、済南路を陥落させ、守将愛的(エデイ)を殺害した。賓興院を立て、元朝の旧官である姫宗周らを登用して諸路を分守させた。また莱州に三百六十ヶ所の屯田を立て、屯田はそれぞれ三十里を離し、荷車百台を製造して糧儲の運搬に用い、官田・民田は収穫の二割を徴収するに止め、冬季は陸運に頼り、夏季は水運に頼った。軍が南皮に到達すると、元朝の元帥董搏霄を殺害した。三月庚戌、薊州を陥落させた。元朝は四方から兵を徴発して入衛させた。乙卯、漷州に侵入し、棗州に到達し、枢密副使達谷珍が戦死した。遂に柳林を掠奪し、同知枢密院事劉哈剌不花(劉カラブカ)が兵を率いてこれを撃退すると、退却して済南路を拠点とし、再び山東を拠点とし、河間路から直沽へ向かい、首都に迫ったので、大都の内外は震撼した。中書省左丞太平は劉哈剌不花を起用して共に彰徳路で交戦し、柳林の戦いで賊軍を撃破したことで、首都の安全は守られた。八月辛巳、義兵万戸王信は滕州を挙げて叛き、毛貴に降伏した。(至正)十九年、芝麻李(李二)の部将であった趙君用は毛貴の下に奔った。四月甲子、毛貴は趙君用に殺害された。毛貴の一党であった続継祖は遼陽路から益都路に戻り、趙君用を殺害した。一党は毛貴の幼子を総兵に祭り上げ、山東を守った。明祖(朱元璋)は何必聚を山東へ派遣し、毛貴の為に羹飯を焼いて弔う一方で、中原の情勢を探らせた。小毛平章は若くとも聡敏であり、何必聚を厚遇し、金盒に玉帯を盛って謝礼したのであった。

# by su_shan | 2017-06-03 11:58 | 『元季伏莽志』巻二

張良弼附 弟良臣附

『元季伏莽志』巻九、盗臣伝、李思斉・張良弼附・弟良臣附の後半部分。
本稿は番外編になります。

 張良弼、字を思道、陝西の人。李世賢の起義に従った人物である。挙兵当初、元朝は宣慰使の官位を授け、至正十八年四月には察罕帖木児(チャガンテムル)・李思斉と共に鞏昌府に於いて李喜喜を討った。李喜喜は敗北すると蜀へ逃れたので、張良弼は兵を秦州に留め、後に李思斉と共に拝帖木児(バイテムル)を謀殺し、各々がその兵を吸収した。(至正)二十一年十一月、察罕帖木児・李思斉は兵を派遣して鹿台を包囲し、張良弼を攻撃したが、詔によって和解した。(至正)二十二年、朝廷は李思斉・張良弼の不和を鑑みて、李思斉に対して張良弼討伐の詔を発した。三月、李思斉の兵は武功県に到達したが、張良弼は伏兵を用いてこれを撃破した。(至正)二十六年二月、拡廓帖木児(ココテムル)は各地の兵馬を徴発したが、張良弼は率先して命令を拒み、更に李思斉らと兵を合流させた。七月、拡廓帖木児は関保・虎林赤(フリンチ)を派遣して兵を合わせて黄河を渡り、竹貞・商暠と合流し、李思斉と協約して張良弼を攻撃した。張良弼は李思斉に子弟を人質として差し出し、援助を求めた。李思斉は詔を要請して和解した。(至正)二十七年正月、張良弼は李思斉・脱列伯(トレバイ)と含元殿跡地に会合し、李思斉を盟主に推戴して共同して拡廓帖木児に抵抗した。七月、李思斉は張良弼らを派遣して兵を華陰県に駐屯させた。八月、皇太子が全国の兵馬を総制すると、張良弼に対して禿魯(トルク)・孔興・脱列伯らと共に襄樊地方を奪取するよう命じた。十二月、張良弼らに詔して各軍の兵馬を総括し、軍勢を合流させて東進し、協調して王事に勤めるよう命じたが、張良弼らはみな命に従わなかった。本年十月丙辰、明朝の太祖(朱元璋)は書状を用いて張良弼を諭した。その内容は李思斉伝に記載されている。(至正)二十八年二月、元朝は張良弼らに詔して拡廓帖木児を討伐するよう命じた。この時、明軍が河南府に到達した。これを受けて撤兵して西方へ退き、櫟陽に留まった。三月、明軍が河南府を奪取すると、張良弼の陣営を焼き払った。当時、張良弼は潼関で李思斉の兵と合流していたが、共に鄜城へ逃げ去った。洪武二年(※1)、李思斉が明朝に投降した後、張良弼は慶陽府を退去して寧夏路へ向かい、弟の張良臣と平章政事姚暉に命じて慶陽府を守らせ、自らは金牌張と共に拡廓帖木児に帰順した。徐達は平涼を陥落させると、慶陽府攻略を計画し、まず湯和の部将謝三を派遣してこれを説得し、また薛顕を派遣して兵を率いて慶陽府へ向かわせた。張良臣は降伏を装いながら街道の付近に伏兵を置いた。日没後、張良臣は兵を率いてその陣営を襲撃すると、明軍は潰走し、薛顕は負傷して逃れた。張良臣は勇敢で戦上手であり、軍中では小平章と呼ばれていた。慶陽城は高険であり、籠城すれば守り切る事が出来ると考えた。その兵卒もまた精悍であり、七人の養子は全員が戦上手で、軍中では「金牌張を恐れざるも、ただ七本槍を恐るべし」と言われたものである。またその兄と王保保の来援を頼り、賀宗哲(※2)・韓扎児(韓ジャル)を羽翼とし、姚暉・曽行の軍を尖兵としていた。これによって、再び慶陽城に立て籠もって叛いたのであった。徐達はその一党が混乱を煽る事を恐れ、まず兵を派遣してその連絡を遮断し、再び軍を東原に駐屯させ、諸将を分遣して城を包囲した。張良臣は竹苛を寧夏路へ派遣して救援を求めたが、環州に差し掛かった所で捕縛された。七月、王保保(拡廓帖木児)の部将韓扎児が原州を打ち破ると、また涇州を陥落させ、慶陽城に来援しようとした。馮宗異は駅馬関から兵を率いて迎え撃ち、韓扎児を敗走させた。八月、張良弼は右丞王譲らを派遣して張良臣に白衣を与えて誠意を示し、更に王保保は既に永昌路へ発った事を伝え、城を挙げて降伏させようとしたが、我が軍(明軍)に捕縛された。張良臣は何度も出撃したが戦況は好転せず、内外の連絡は途絶し、食糧が底を尽くと、死体を煮て作った汁を泥の様に丸めて口に入れる者も現れた。姚暉らは城を挙げて降伏し、張良臣父子は共に井戸へ身を投げたが、引き摺り出されて斬殺された。張良弼もまた王保保の軍中で最期を迎えたのであった。

【注釈】
(※1)洪武二年、原文は「思洪武三年」であった。『太祖実録』巻四十一、洪武二年夏四月丁丑条「右副将軍馮宗異の軍が臨洮に到達すると、李思斉は降伏した(右副将軍馮宗異師至臨洮、李思斉降)」に基づき改めた。
(※2)賀宗哲、原文は「賀宗」であった。『太祖実録』巻四十四、洪武二年八月癸未条「賀宗哲・韓扎児らを羽翼とし(賀宗哲・韓扎児等為羽翼)」に基づき改めた。

# by su_shan | 2017-04-29 10:49 | 『元季伏莽志』巻九