甯正 袁義
2017年 06月 10日『明史』巻一百三十四、列伝第二十二
甯正、字を正卿、寿州の人。幼くして韋徳成の養子となり、韋姓を名乗った。元朝末期に韋徳成に従って帰順し、長江渡河に従った。韋徳成が宣州(寧国路)で戦没すると、甯正がその軍を引き継ぎ、功績を重ねて鳳翔衛指揮副使を授けられた。中原平定に従軍し、大都へ入城すると、元朝の将兵八千人余りを投降させた。傅友徳が真定路から定州を攻略すると、甯正を真定路の守備とした。次いで、大軍に従って陝西を奪取した。馮勝が臨洮府に勝利すると、甯正を留めて当地を鎮守させた。大軍が慶陽府を包囲すると、甯正は邠州に駐屯し、敵軍の増援を阻止した。慶陽府が陥落すると、帰還して臨洮府を鎮守した。鄧愈に従って定西州を破ると、河州路に勝利した。
洪武三年に河州衛指揮使を授けられた。甯正は提案した。「西方の民衆は軍への食糧供給に大きな負担を抱えております。一方で、茶や布であれば食糧に替え易いものでございます。そこで茶布を以て軍に供給させ、自ら貿易するよう命じれば、運搬の労苦は軽減されるでしょう。」詔によってこの提案は採用された。甯正が河州衛に赴任した当初、城邑は廃墟ばかりであり、慰労に努めた。数年を経ずして、河州府は楽土となった。璽書によって功労を評価され、初めて甯姓に戻す事になった。寧夏衛を兼任し、漢・唐代の旧渠を修築し、河水を引いて田に注ぎ、数万頃を開墾したので、軍の食糧は充足した。
(洪武)十三年、沐英に従って北征し、元朝の平章政事脱火赤(トガチ)・知院愛足(アズ)を捕らえ、全寧路四部を奪取した。(洪武)十五年、四川都指揮使に異動し、松・茂諸州を討伐した。雲南が平定されると、甯正と馮誠に命じて共に当地を鎮守させた。思倫発が叛乱すると、甯正はこれを摩沙勒寨の戦いで破り、斬首一千五百を記録した。次いで、敵軍が大挙集結し、定辺県を包囲した。沐英は軍を三隊に分け、甯正は左軍を率い、奮戦の結果、大いにこれを撃破した事は、沐英伝に記されている。土酋阿資が叛くと、また沐英に従って討伐し、これを降伏させた。沐英が没すると、詔によって甯正は左都督を授かり、鎮守の任を代行した。次いで、また平羌将軍を拝命し、川陝地方の兵を総括して階州・文州の叛徒張者を討伐した。(洪武)二十八年、秦王(朱樉)に従って洮州の蛮族を討伐し、京師に帰還した。その翌年に没した。
また袁義という人物は、盧江県の人で、元は張姓であり、張徳勝の一族である。当初、双刀趙の総管となり、安慶路を鎮守し、沙子港の戦いで趙同僉・丁普郎を破った。左君弼がこれを招聘したものの、従わなかった。張徳勝が戦死すると、初めて帰順し、帳前親軍元帥となって、姓名を賜った。何度も征伐に従軍し、功績を重ねて興武衛指揮僉事となった。大将軍(徐達)の北征に従軍し、通州の戦いで元朝の平章政事俺普達(アルブダ)らを破り、沢州・潞州の戦いで賀宗哲・詹同を敗走させ、最大の功績を挙げた。また陝西平定に従軍し、元朝の豫王の兵を破った。諸将と共に慶陽府を合撃した。俄かに張良臣の兵が袁義の陣営に迫ると、袁義は布陣を固めて動揺せず、その疲弊を待ち、力戦してこれを打ち破った。定西州の戦いで拡廓帖木児(ココテムル)の軍を敗走させ、南進して興元路を奪取し、本衛指揮同知に昇進し、羽林衛に調遣され、遼東に移鎮した。
次いで、沐英に従って雲南に遠征し、普定路の諸城に勝利すると、残留して楚雄府を鎮守した。蛮人は何度も叛いたものの、袁義は軍糧を備蓄すると共に堡塁を高く築き、守っては戦い、戦功によって楚雄衛指揮使に異動した。入朝すると、洪武帝(朱元璋)は手厚く慰労した。老齢であった事から、太医院に命じて鬚鬢を染めさせると、任地へ戻ってからは威遠の人として評判になり、更に特別に銀印を賜わるなど袁義は格別に重用された。二十年を経て、田地を開墾して堰堤を築き、城郭や橋梁を整備したので、領内の計画は十分に達成された。軍民は袁義の徳行に感謝したものである。建文元年に召還されると、右軍都督府都督僉事となり、都督同知に昇進し、在任中に没した。