投稿総則
2017年 12月 31日一、底本は〔清〕張廷玉撰『明史』中華書局点校本、2003年を使用する。
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平成28年7月21日
以上
『明史』巻二百八十九、列伝第一百七十七、忠義一
孫炎、字を伯融、句容県の人。鉄の様な顔色で、片足が不自由であった。活発な議論を好み、経世の術を自負していた。丁復・夏煜と交遊し、詩文によって名を馳せた。太祖(朱元璋)が集慶路を陥落させると、孫炎を召し出し、孫炎は賢人を招聘して大業を成就するよう提案した。当時は江南行中書省が設立されて間も無く、登用されて首掾となった。浙東地方遠征に従軍し、池州路同知を授けられ、華陽府知府(※1)に昇進し、江南行中書省都事に抜擢された。処州路に勝利すると、総制の地位を授けられた。太祖の命によって劉基・章溢・葉琛らを招聘したものの、劉基は出仕しなかった。孫炎は再度使者を派遣すると、劉基は一振りの宝剣を贈った。孫炎は詩を作り、宝剣とは正に天子に献上し、命に従わない者を斬り捨てるものであるから、人臣としてこれを自身のものとする訳にはいかないとして、宝剣を封印して返還した。更に、劉基に対して数千言に及ぶ書状を送ると、劉基はようやく姿を現したので、孫炎は彼を建康へ送り届けたのであった。
当時、処州城の周辺は賊軍ばかりであったが、城の守備は一兵も存在しなかった。苗軍が造反すると、枢密院判耿再成を殺害し、孫炎及び知府王道同・元帥朱文剛を捕らえ、空室に幽閉し、脅迫して投降を迫ったが、屈する事は無かった。賊帥賀仁徳は炙った雁の肉と斗酒を孫炎に差し出すと、孫炎は酒を呷りながら罵声を浴びせた。賊は怒り、刀を抜き怒鳴って服を引き剝がすと、孫炎は言った。「その紫の綺裘は主上より賜わりしもの、吾は死を受け入れようぞ。」こうして孫炎は王道同・朱文剛と共に殺害された。この時、四十歳であった。丹陽県男を追贈され、耿再成の祠堂に塑像が建立された。
王道同は中書省宣使から処州府知府となった人物で、太原郡侯を追贈された。
朱文剛は太祖の養子であり、小字を柴舎と言った。変事に際して、耿再成と共に兵を集めて賊徒の殺害を試みたが、力及ばず、遂に落命した。鎮国将軍を追贈され、功臣廟に合祀された。
【注釈】
(※1)華陽府知府とあるが、華陽府は九華府の誤りである。『罪惟録』伝巻十二上、致命諸臣列伝、孫炎には、「浙東地方遠征に従軍し、池州路同知に抜擢され、次いで池州路が華陽府に改称された(従征浙東、擢同知池州、尋改池為華陽府。)」とあり、また『明史』巻四十、志第十六、地理一、南京、池州府には、「池州府は元代の池州路であり、江浙行中書省江東道に属した。太祖の辛丑(1361)年八月に九華府と呼称し、次いで池州府と呼称した(池州府〔元池州路、属江浙行省江東道。〕太祖辛丑年八月曰九華府、尋曰池州府。)」とあり、池州路・九華府・池州府の順で改称されている。
『明史』巻二百八十九、列伝第一百七十七、忠義一
王愷、字を用和、当塗県の人。経史に精通し、元朝の府吏となった。太祖(朱元璋)が太平路を突破すると、召し出されて掾属となった。京口攻略に従軍し、新たに帰順した民衆を慰撫した。中書省が開設されると、登用されて都事となった。杭州路の苗軍数万人が投降すると、厳州府の境界で待機するよう命じた。王愷が急行してこれを諭し、その将帥を伴って帰投した。太祖が衢州路に勝利すると、総制軍民事を拝命した。王愷は城壁を増築して濠を浚い、警戒部隊を設立し、壮丁を登録し、一万人余りを集めた。常遇春が金華府に兵を駐屯させていた時、その部将が民衆に狼藉を働いたので、王愷は拘束して諸市で鞭打った。常遇春が王愷を詰問すると、王愷は答えた。「民衆は国家の根本でありますから、一部将を鞭打って民衆を安心させるのは、将軍にとって喜ばしい事なのですよ。」常遇春は王愷に謝罪した。当時は飢饉や疫病が流行していたので、王愷は官倉から粟を供出し、恵済局を設け、数え切れない程の民衆が生き延びた。学校は廃れていたので、衢州府管内の孔子家廟と共に修繕を加えて一新した。開化県の馬宣・江山県の楊明が立て続けに叛くと、前後して討伐し、これを捕縛した。
左司郎中に異動すると、胡大海を補佐して省内を統括した。苗軍が叛くと、胡大海が殺害された。苗軍の将帥の多くは王愷を慕っていたので、彼を連行して西進しようとした。王愷は厳しい顔色で言い放った。「吾は国土を守る者、義として死ぬならともかく、賊になど従うものか!」こうして子の王行と共に殺害された。四十六歳であった。
王愷は謀術と決断に優れていた。以前、ある進言を行った時、聞き入れられないでいると、退出して戸外に立ち、夕方になっても立ち去ろうとしない事があった。太祖が外出すると王愷を見出し、訝しんで理由を尋ねたところ、当初の進言を繰り返したので、遂にその提案を受け入れたのであった。後に奉直大夫・飛騎尉を贈られ、当塗県男に追封された。
『明史』巻二百八十九、列伝第一百七十七、忠義一
花雲、懐遠県の人。立派な体躯で色黒く、驍勇冠絶の人であった。至正十三年癸巳の年、臨濠にて太祖(朱元璋)に謁見した。太祖はその才幹を奇とし、花雲を各地の平定に従え、至る所で勝利を収めた。懐遠県を破り、その守将を捕らえた。全椒県を攻撃し、これを突破した。繆家寨を襲撃すると、群盗は潰走した。太祖は滁州を攻略しようとした時、数騎を率いて先行し、花雲は扈従した。突然、数千人の賊徒に遭遇すると、花雲は長矛を手に太祖を援護し、剣を抜いて馬を躍らせ敵陣を突いて進んだ。賊は驚いて言った。「黒将軍の勇猛甚だしき事よ、鋭鋒に当たる事すら出来ぬではないか。」本隊が到着すると、遂に滁州に勝利した。甲午の年、和州攻略に従軍し、兵卒三百人を捕らえ、功績によって管勾を授けられた。乙未の年、太祖が長江を渡った時は、花雲が先んじて渡河を行った。次いで太平路に勝利すると、その忠勇によって左右に宿衛する事になった。集慶路攻略に従軍し、兵卒三千人を捕らえ、総管に抜擢された。鎮江路・丹陽県・丹徒県・金壇県を巡り、全てに勝利を収めた。馬駄沙に差し掛かった時、強賊数百人が街道を遮って戦闘を仕掛けた。花雲は三昼夜行軍と戦闘を続け、全員を捕らえて殺害し、前部先鋒を授かった。次いで常州路を突破し、牛塘営を鎮守した。太祖が太平府に行枢密院を設立すると、花雲を抜擢して院判とした。丁酉の年、常熟州に勝利し、兵卒一万人余りを捕らえた。命によって寧国路へ向かい、群盗は互いに結託して街道を封鎖した。花雲は矛を操り鼓譟して突入すると、斬首千百人を数え、その身には一本の矢も受けなかった。
帰還すると太平府を鎮守した。庚子の年の閏五月、陳友諒が水軍を率いて来襲した。花雲と元帥朱文遜・知府許瑗・院判王鼎は陣形を整えて迎撃し、朱文遜が戦死した。賊軍は三日間の攻撃で侵入出来ず、巨艦を持ち出して増水に乗じ、艦尾から城壁に取り付いた。太平城が陥落すると、賊は花雲を拘束した。花雲は奮起して絶叫すると、縄を全て引き千切り、見張りの刀を奪い取って、五・六人を殺害し、罵声を浴びせた。「貴様らなど我が主君の敵ではないぞ、早々に降伏する事だ!」賊は怒って花雲の頭を打ち砕き、船檣に縛り付けて矢を射掛けたが、罵声は少しも衰えず、絶命する瞬間まで声音は勇壮であった。当時三十九歳である。許瑗・王鼎も抵抗して敵を罵りながら殺害された。太祖は呉王に即位すると、花雲を東丘郡侯に追封し、許瑗は高陽郡侯に、王鼎は太原郡侯とし、忠臣祠を建立し、共に彼らを祀ったのであった。
太平城の危機に際して、花雲の妻の郜氏は家廟に祭告し、三歳になる子供を連れて、泣きながら家人に伝えた。「城が破られれば、必ずや夫は死ぬでしょう。義として一人生き永らえる事など出来ようか、とは言っても花氏の後裔を絶やす訳にもいかない、だから汝らはよくこの子の面倒を見てやっておくれ。」花雲が捕らわれると、郜氏は水に身を投げて死んだ。世話役の孫という者が遺体の埋葬を済ませると、子を抱えて脱出したものの、九江に差し掛かった所で追剝に遭った。孫は夜な夜な漁家を訪ね、簪や耳環の類を渡して子を養った。漢軍(陳友諒)が敗北すると、孫は隙を見て子を連れて長江を渡ろうとしたが、敗走する軍が舟を奪って二人を長江に突き落としたので、孫は木の切れ端に掴まって葦原に隠れ、蓮の実を採って子に与え、七日間生き延びた。夜になって、雷老という老人に助け出され、年が明けた頃に太祖の下へ到着した。孫氏は子を抱えて泣きながら拝謁すると、太祖もまた涙を流し、膝の上に子を乗せて言った。「正に花将軍の子息である。」褒美として雷老に衣服を与えようとすると、雷老は忽然と姿を消してしまった。子は煒という名を賜わり、昇進を重ねて水軍衛指揮僉事となった。その五世孫にあたる花遼は復州衛指揮使となり、世宗(朱翊鈞)に請願した結果、郜氏は貞烈夫人を贈られ、孫は安人となり、祠堂を建立して祭祀が執り行われたのであった。
朱文遜は太祖の養子である。嘗て、元帥秦友諒と共に無為州に侵攻して勝利を収めた。許瑗は字を栗夫と言って、楽平県の人である。元朝末期、二度も郷試第一に挙げられた。太祖が婺州路に駐屯した時、許瑗は謁見して言った。「もし貴殿が天下を平定しようとお望みであれば、広く英雄を集めなければ、成功を得る事は難しいでしょう。」太祖は喜び、許瑗を帷幕に留め、軍務に参与させた。次いで、太平府の鎮守を命じた。王鼎は儀徴の人である。当初、趙忠の養子となった。趙忠は総管になると、太平路に勝利し、行枢密院判を授けられ、池州府を鎮守した。趙普勝が来襲すると、趙忠は戦没した。王鼎がその職位を継承すると、元の姓に戻し、太平府に駐屯した。こうして、三人全員が死亡したのである。
当時、劉斉という人物は、江西行中書省参知政事として吉安府を鎮守していた。守将の李明道が開門して陳友諒の兵を迎え入れると、参知政事曾万中・陳海を殺害し、劉斉及び知府宋叔華を捕らえ、彼らを脅迫して帰順させようとしたものの、全員が拒絶した。また臨安路が突破されると、同知趙天麟が捕らわれたが、やはり屈服せず、共に陳友諒の下へ送致された。陳友諒は洪都府を攻撃している最中で、三人を殺害して城下に晒した。無為州が陥落し、知州董曾が捕らわれると、董曾は抵抗して罵声を浴びせて屈服しなかったので、長江に沈められた。
『明史』巻一百三十六、列伝第二十四
楽韶鳳、字を舜儀、全椒県の人。博学で文章に巧みであった。和陽にて太祖(朱元璋)に謁見し、長江渡河に従い、軍務に参与した。洪武三年に起居注を授かり、何度か異動した。(洪武)六年に兵部尚書を拝命し、中書省・御史台・都督府と共に兵卒を教練する為の規則を制定した。侍講学士に改められると、承旨の任にあった詹同と共に先人を釈奠する楽章を正し、『大明日暦』を編集した。(洪武)七年、洪武帝(朱元璋)は祭祀から戻ると、楽舞の先導を応用して、楽韶鳳に命じて歌詞を選定させた。そこで楽韶鳳は『神降祥』『神貺恵』『酣酒』『色荒』『禽荒』といった諸曲を進呈し、凡そ三十九章を『回鑾楽歌』と呼んで、皆が戒めとした。礼部が『楽舞図』を制定して提出すると、太常寺に命じてこれを習得させた。
翌年、洪武帝は旧韻が江東地方から離れると、その多くが正しい発音を失っているとして、楽韶鳳と廷臣に命じて中原雅音を参考に修正させた。書物が完成すると、『洪武正韻』と名付けられた。また陵寝朔望の祭祀及び登壇脱舃といった諸儀礼の検討を命じられると、故実を詳細に考察したので、何れも採用された。次いで病気を理由に罷免され、しばらくして国子監祭酒に起用された。詔を奉じて皇太子と諸王に書簡を往来させる考拠は精詳であり、しばしば褒賞の栄誉を賜わった。(洪武)十三年に引退して帰郷し、天寿を全うした。弟の楽暉・楽礼・楽毅は何れも名の知れた人物である。
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