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by すーさん

湯和

『明史』巻一百二十六、列伝第十四

 湯和、字を鼎臣、濠州の人で、太祖(朱元璋)の同郷。幼くして大志あり、喜々として騎射を習い、子供たちを部分けして率いた。成長するに及んで身の丈は七尺に達し、才気に溢れ智略に優れた。郭子興が起兵した当初、湯和は若者十余人を引き連れてこれに帰順し、戦功を立てて千戸を授かった。太祖に従って大洪山を攻め、滁州の戦いで勝利し、管軍総管を授かった。和州占領に従事した。時に諸将の多くは太祖と同輩であって、敢えて下になろうとする者は居なかった。湯和は太祖より三歳年上であったが、唯一約束を守って良く謹んだので、太祖はこれを非常に喜んだ。太平路の平定に従事し、馬三百頭を捕獲した。陳野先への攻撃に参加したところ、左股に流れ矢を受けたが、矢を抜いて再度戦い、遂に諸将と共に陳野先を撃破して捕らえた。他には溧水州・句容県を降伏させ、集慶路平定に参加した。徐達に従って鎮江路を攻略し、統軍元帥に昇進した。奔牛鎮・呂城を従え、陳保二を降伏させた。金壇県・常州路を占領したので、湯和を枢密院同僉としてこの地を鎮守させた。
 常州路と呉の地域は境界を接しており、張士誠の間諜が頻繁に侵入していた。湯和は防御を厳戒にしたので、敵は様子を窺うことができなかった。再度侵攻してきたので、再度迎撃して撃退し、捕殺した敵兵は千人を数えた。無錫州に進攻し、錫山の戦いで呉軍を大いに破り、莫天祐を敗走させ、その妻子を捕らえ、中書左丞に昇進した。水軍を率いて黄楊山を従え、呉の水軍を破り、千戸四十九人を捕らえ、平章政事を拝命した。長興州を救援し、張士信と州城下で戦った。城中の兵が加勢して挟撃したので、これを大いに破り、兵八千人を捕らえ、解囲して帰還した。江西の諸山寨を討伐した。永新州守将の周安が叛いたので、進撃してこれを破り、その十七寨を連破して城を包囲すること三ヶ月、遂に占領し、周安を捕らえて後送し、帰還して常州府を鎮守した。張士誠討伐の大軍に従事し、太湖水寨の戦いで勝利し、呉江州を降伏させ、平江路を包囲し、閶門に戦うが、砲弾で左臂を負傷し、応天府に召還され、傷が快復して再度赴き、攻撃してこれに勝利し、論功行賞で金帛を賜った。
 最初に御史台を設立した時、湯和を左御史大夫兼太子諭徳とした。次いで征南将軍を拝命し、副将軍呉禎と共に常州府・長興州・江陰県の諸軍を率いて方国珍を討伐した。曹娥江を渡り、余姚州・上虞県を降伏させ、慶元路を占領した。方国珍は敗走して海に逃げたので、追撃してこれを破り、その大将二人・海船二十五艘を捕らえ、斬首は数え切れない程に多く、帰還して周辺の属城を平定した。遣使して方国珍を招いたので、方国珍は出頭して軍門に降り、兵二万四千人、海船四百余艘を得た。浙東は悉く平定された。遂に副将軍廖永忠と共に陳友定を討伐し、明州府より海路を進んで風に乗り福州路の五虎門に到達し、南台島に駐留し、降伏勧告の使者を送った。陳友定は返答しなかったので、遂にこれを包囲した。平章政事曲出を城下で破った。参知政事袁仁が投降を申し出たので、遂に乗じて城内に突入した。兵を分けて興化路・漳州路・泉州路及び福寧州といった諸州県を従えた。進攻して延平路を突破し、陳友定を捕らえて京師に送還した。時に洪武元年正月の事である。
 大軍がまさに北伐を行っている頃、湯和は明州府で海船を建造し、兵糧を直沽に輸送するよう命じられた。しかし海上は強風が吹くことが多く、物資を鎮江に輸送して帰還した。偏将軍を拝命した。大将軍(徐達)の西征に従事し、右副将軍馮勝と共に懐慶府から太行山脈を越え、沢州・潞州・晋州・絳州といった諸州郡を占領した。大将軍(徐達)に従って河中を突破した。翌年、黄河を渡って潼関に入城し、兵を分けて涇州に向かい、部将に命じて張良臣を投降させたが、早くも叛旗を翻した。大軍を集結して慶陽路を包囲し、張良臣を捕えて斬殺した。また翌年、再び右副副将軍〔一〕として大将軍(徐達)に従い定西州の戦いで拡廓帖木児(ココテムル)を破り、遂に寧夏路を平定し、遂に北方の察罕脳児(チャガンノール)に到達し、猛将虎陳を捕らえ、馬牛羊十数万頭を捕獲した。東勝州・大同路・宣府を従えるに当たって全てに功績を挙げた。帰還後、開国輔運推誠宣力武臣・栄禄大夫・柱国を授かり、中山侯に封じられ、歳禄は千五百石、世券を与えられた。
 (洪武)四年に征西将軍を拝命し、副将軍廖永忠と共に水軍を率いて長江を遡航し夏を討伐した。夏は兵を要害に置いたので、攻撃しても破ることができなかった。長江の水流が荒れたので、大渓口に停泊してしばらく前進できないでいると、傅友徳が早くも秦・隴方面から長駆進攻して漢中を占領した。廖永忠は先発して瞿塘関を破り、夔州路に侵入した。湯和は軍を率いて続行し、重慶に入城して明昇を降伏させた。軍が帰還すると、傅友徳・廖永忠は最上の賞を受けたものの、湯和はこれに及ばなかった。翌年、大将軍(徐達)に従って北伐し、断頭山で敵と遭遇、敗北して指揮使一人を失うが、洪武帝(朱元璋)は不問に付した。次いで李善長と共に中都の宮殿を造営した。北平府を鎮守し、彰徳城を修築した。察罕脳児に遠征し、大勝利を収めた。(洪武)九年、伯顔帖木児(バヤンテムル)が辺境を脅かしたので、征西将軍として延安府を防衛した。伯顔帖木児が講和を申し出たので、帰還した。(洪武)十一年春、信国公に進封し、歳禄三千石に加増、議軍国事とされた。しばしば中都・臨清府・北平府に出向いて練兵し、城郭を保全した。(洪武)十四年、左副将軍として塞外に出撃し、乃児不花(ナイルブカ)を討伐し、灰山営の戦いで敵を破り、平章政事別里哥(ベルゲ)・枢密使久通を捕らえて帰還した。(洪武)十八年、思州蛮が叛いたので、征虜将軍として楚王朱楨に従いこれを征討し、四万人を捕虜とし、その酋長を捕らえて帰還した。
 湯和は沈着聡明ではあったが、あまりにも飲酒が過ぎることがあった。常州府を鎮守していた時、嘗て太祖にある事を要請したものの、認められず、泥酔して恨み言を漏らした。「我がこの城を守っているということは、屋根の天辺に座っているようなものだ。左を向けば左に転がる、右を向けば右に転がるのだ。」太祖はこれを聞いて胸中に留め置いた。中原平定の軍が帰還して論功行賞を行った際、湯和が閩(福建)を攻略した時に陳友定の残党を放置した為に八郡が再び荒らされ、軍が帰還すると、秀蘭山の賊に襲撃されるところとなって、指揮使二人を失ったので、公に封爵されなかったのである。蜀遠征から帰還すると、敵を恐れて前進しなかった咎を直接詰問された。湯和は頓首して謝罪したので、それで済んだ。その信国公に封じられた折、なおも常州府での過失を挙げられ、これを誥券に刻まれたのであった(※1)。時に、洪武帝も年老い、天下は平穏になり、魏国公(徐達)・曹国公(李文忠)は既に他界し、諸将が長らく兵権を握ることを快く思わなかったが、未だに廃止できないでいた。湯和は間を置いて落ち着いて言った。「臣は犬馬の労を厭わずお仕え致しましたが既に年老い、二度と軍務には堪えられないでしょう。願わくは故郷に帰ることさえできれば、棺を入れる土盛を作り、骸骨になるのを待ちたいものです。」洪武帝は非常に満足し、鈔と中都の邸宅を下賜し、合わせて諸公・侯の邸宅を造営した。
 この時既に倭人が上海を略奪していたので、洪武帝はこれを危惧し、湯和を顧みて言った。「卿は老いたりと言えども、敢えて朕の為に今一度行ってはくれまいか。」湯和は方鳴謙と共に任務に当たりたいと要請した。方鳴謙とは、方国珍の甥で、海事に習熟し、常に防倭策を持って訪れていた。方鳴謙は言った。「倭人は海上からやって来るので、海上で防ぐのみです。沿海の地を測量し、衛所を置き、陸地に歩兵を集め、海上に軍船を備えれば、倭人は侵入することができず、侵入したところで岸に上がることはできません。近隣の海民で四人に一人を軍としてその地を守らせ、客兵に煩わされることのないように致しましょう。」洪武帝はその意見を認めた。湯和は浙西・浙東の地を測量し、沿海に五十九ヶ所もの衛所を並べ、成人男子三万五千人を選抜して工事に当たらせ、その財源は州県ばかりか罪人からも徴収して事業に投入された。ところが役夫は往々にして要求が過大で、民衆の生活の混乱を防ぐことができなかったので、浙江の人々は大変苦しんだ。ある人が湯和に言った。「民衆は不満を持っております。如何致しましょうか。」湯和は言った。「遠大な策を成す為には、小怨など危惧しないし、大事を任される者は細事など考慮しないものだ。次に不満を言う者がおれば、我が剣にかけるぞ。」年を越えて工事は完了した。軍列を整え、考課を定め、賞罰を立てた。浙東の民で一戸に四人以上ある者は、戸毎に一人を守備に充て、およそ五万八千七百余人を集めた。翌年、閩でも工事が完了したので、湯和は帰還して報告し、中都の新邸も完成した。湯和は妻子を連れて挨拶に訪れ、黄金三百両・白金二千両・鈔三千錠・彩幣四十有副を下賜され、夫人の胡氏もまた下賜を受けた。並びに璽書を下されて褒諭されたので、他の功臣で湯和に並ぶ者は誰もいなかった。この時より湯和は一年に一度は京師の朝廷に出向いた。
 (洪武)二十三年正月に朝廷を訪れた時、病の為に声を出せなくなった。洪武帝は即日見舞いに現れ、長らく嘆き悲しみ、郷里に送り帰らせた。病が小康になると、またその子に命じて都に迎えさせ、安車のまま内殿に招き入れられ、宴を用意して労い、家族にも金帛御膳法酒を賜った。(洪武)二十七年、病は重篤となって起き上がることができなくなった。洪武帝は引見したいと思い、詔して安車にて入観させると、手を撫でて湯和を摩り、共に昔の故郷のことや兵を興して艱難に耐えたこと等を話し尽くした。湯和はもはや応えることができず、ただ頓首するだけであった。洪武帝は涙を流し、葬儀の費用として厚く金帛を賜った。翌年八月に没した。歳は七十であった。東瓯王に追封され、襄武と諡された。
 湯和の晩年はこれまでよりも更に恭しく慎み、召して国策を聞いても、一言も語りはしなかった。その媵妾は百人余りを数えたが、病を得た後はすべて財産を与えて帰らせた。受け取った賞賜は、その多くを郷里の為に遺し、庶民の頃に馴染のあった老人を見出すと、大いに喜んだものであった。まさにこの当時、公・侯諸宿将の多くが姦党に連座して粛清され、これを免れたものは僅かであったが、湯和は独り長寿を全うし、功名を遺して一生を終えた。嘉靖年間、東南の地域が倭寇に苦しんだが、湯和が築城した沿海の城塞群はみな堅牢かつ精緻で、長らく崩れることが無かったので、浙江の人々はこれに頼って防衛することができ、彼を偲んで多くの歌が作られた。ある巡按御史が朝廷に要請して、廟堂を建てて祀ったものであった。
 湯和には五人の子があった。長男の湯鼎は前軍都督僉事となり、雲南遠征に従軍したが、その道中で没した。末子は湯醴といい、功績を積んで左軍都督同知に昇進し、五開に遠征したが、軍中で没した。湯鼎の子の湯晟、湯晟の子の湯文瑜はいずれも早逝し、後嗣が得られなかった。英宗の時代、湯文瑜の子の湯傑が爵位の継承を願い出たが、遂に四十数年間経っても襲爵できず、断念した。湯傑には子が無く、弟の湯倫の子である湯紹宗が後を継いだ。孝宗が功臣の後裔を調査したところ、湯紹宗は南京錦衣衛の世襲指揮使を授かった。嘉靖十一年に霊璧侯に封じられ、食禄千石とされた。子に継がれて孫の湯世隆は、隆慶年間に協守南京兼領後軍都督府となり、後に提督漕運に遷り、四十数年を経て、労に報いて太子太保を加官され、少保に昇進した。没後、僖敏と諡された。爵位は継承されたが、明朝滅亡に至って断絶した。

 湯和の曽孫は湯胤勣、字を公譲といった。諸生となり、詩に巧み、才能に富んで気鋭であった。巡撫尚書周忱が啓事を作らせたところ、即席で数万言を書き上げた。周忱は朝廷に推薦した。少保于謙に召し出されて古今の将略や兵事について諮問されたところ、湯胤勣の応対は非常に素早かった。重ねて錦衣衛千戸を授けられた。中書舎人趙栄と共に(オイラトに捕らわれた)英宗を沙漠に訪ねた時、脱脱不花(トクトブハ)が北京の朝廷の様子を尋ねたが、毅然と応答して僅かも動じることは無かった。景泰年間、尚書胡濙の推薦で署指揮僉事となった。天順年間、錦衣衛を内偵した者が湯胤勣の昔の不祥事を聞きつけたので、罪を得て庶民に落とされた。成化年間の初め、再び官職を得た。三年後に署都指揮僉事に抜擢され、延綏東路参将となり、孤山堡を防衛した。孤山は当地で一番の要害であり、湯胤勣は上奏して城を築き糧を集め、兵を増強して守りに就いた。突然として敵が攻め寄せた。湯胤勣は病を押して馬に跨り駆け回ったが、罠に嵌って戦死した。事の次第が伝わると、形通りの贈位祭礼が執り行われた。

【注釈】
(※1)なおも常州府での過失を挙げられ、これを誥券に刻まれたのであった、『明太祖文集』巻三、信国公湯和誥に、「正に論功行賞を行おうとした時、汝湯和は古参の将帥ではあったが、ただ毗陵を鎮守するに忠誠に欠ける所があった為に、未だに顕彰せず、その心情は在れども、とうとう行うことが出来なかった。朕は長らくそうしたいと考えており、先の過失を挽回して封爵に値する功績を認めたので、中山侯に封じたのである。今、朕は再び従来の功績に思いを馳せるに、汝の功績の東は越の地を平らげ、南は八閩の地を下し、西に察罕脳児の酋長を捕らえ、巴蜀を下したことは、非常に大きな功績である。今、朕は特別に汝の過失を赦し、長年の勤労に報い、信国公の爵位を授けるので、永久に子孫に世禄を伝えよ。」とある。毗陵は常州府の古称。

【校勘記】
〔一〕右副副将軍、元々「副」が一字脱落していた。『太祖実録』巻四十八、洪武三年正月癸巳条は、「主上(太祖)は王保保(拡廓帖木児)が西北の災禍となっていることを受けて、また命じて右丞相信国公徐達を征虜大将軍とし、浙江行中書省平章政事李文忠を左副将軍とし、都督馮勝を右副将軍とし、御史大夫鄧愈を左副副将軍とし、湯和を右副副将軍とし、沙漠を遠征させた。」と記す。『明史』鄧愈伝は鄧愈を「左副副将軍」としているので、これもまた証左である。これらに基づいて補った。
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by su_shan | 2016-07-22 01:42 | 『明史』列伝第十四