元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

鄧愈

『明史』巻一百二十六、列伝第十四

 鄧愈、虹縣の人。最初の名は鄧友徳といったが、太祖(朱元璋)より名を賜った。父の鄧順興は臨濠に割拠したが、元軍と交戦して戦死し、兄の鄧友隆が後を継いだが、これもまた病死し、皆は鄧愈を推薦して軍を統率させた。このとき鄧愈は十六歳、戦闘になれば毎回必ず先頭を切って城壁を登り敵陣を陥落させたので、軍中の者はその武勇に感服した。太祖が滁陽で挙兵すると、鄧愈は盱眙県より馳せ参じて帰順し、管軍総管を授かった。長江渡河に従い、太平路を攻略し、陳野先(陳エセン)を破って捕らえ、溧陽州・溧水州を平定し、集慶路を陥落させ、鎮江路を奪取するのに全て功績を挙げた。広興翼元帥に昇進し、広徳州を鎮守し、州城下にて長鎗元帥謝国璽を破り、その総管武世栄を捕虜とし、重兵千人を捕らえた。宣州鎮守に移り、その兵を率いて績渓県を奪取し、胡大海と共に徽州路を攻略し、行枢密院判官に遷って当地を鎮守した。
 苗軍元帥楊完者(楊オルジェイ)が十万の兵を率いて来襲したが、防御は脆弱であったので、鄧愈は将兵を激励し、胡大海と共に挟撃し、これを撃破して敗走させた。進攻して休寧県・婺源州を突破し、兵三千人を捕らえ、高河塁を降伏させた。李文忠・胡大海と共に建徳路を攻め、遂安県に差し掛かったところで、長鎗元帥余子貞を破り、追撃して淳安県まで北上し、またその援軍を破り、遂に建徳路を攻略した。楊完者が来襲したが、撃破してその部将李副枢を捕らえ、渓洞出身の兵三万人を降伏させた。月を越えて、再び楊完者を烏龍嶺の戦いで破った。僉行枢密院事に遷った。
 臨安路を攻略した際、李伯昇が来援したが、これを閑林寨の戦いで破った。使者を派遣して饒州守将于光を説得して投降させ、遂に饒州鎮守に移った。饒州は彭蠡湖(鄱陽湖)の畔にあり、陳友諒と境界を接していたので、しばしば侵攻を受けたが、その都度撃破して退けた。江南行中書省参知政事に昇進し、各翼元帥府の軍馬を管理した。浮梁州を占領し、楽平州を従え、余干州・建昌路は全て降伏した。
 陳友諒の撫州路守将鄧克明は呉宏(※1)の攻撃を受け、使者を派遣して投降する振りを見せることで攻撃を回避しようとした。鄧愈はその意図に気付き、武装して夜を徹して二百里を駆け、黎明に入城した。鄧克明は出撃しようにも出来ず、単騎で逃走した。鄧愈は軍令を徹底させ、少しも違反させることが無かったので、遂に撫州路を平定することができた。鄧克明は止むを得ず降伏した。陳友諒の丞相胡廷瑞が竜興路を献じて投降すると、洪都府と改称し、鄧愈は江西行中書省参知政事となって当地を鎮守し、降将の祝宗・康泰に命じて元の部曲を統率させた。二人は元より降伏する意図は無く、徐達に従って武昌路攻略を命じられるに及んで、遂に叛いた。船団が女児港に入港するや、急いで軍を返し、夜陰に乗じて新城門を破って洪都府を占拠した。鄧愈は俄かに変事を聞き付け、数十騎を率いて逃走したが、その最中に何度も叛乱軍と遭遇した。続行した騎兵は次々と討たれて消えてゆき、窮地に陥った。鄧愈は立て続けに三度馬を替えたが、その馬も倒れた。最後に鄧愈の養子の馬を得てこれに乗り、ようやく撫州門を奪回して脱出することができ、奔走して応天府に帰還した。太祖はその罪を問わなかった。既に徐達は軍を引き返して洪都府を奪還していたので、再び鄧愈を大都督朱文正の補佐として当地に鎮守させた。その翌年、陳友諒は六十万人の軍を率いて来襲し、城に匹敵する高さの楼を備えた船団を以て、水位の上昇に乗じて直接城下に乗り付け、数百周も包囲した。鄧愈は撫州門を守ったが、ここはまさに要衝であった。陳友諒は自ら攻城を督戦し、城壁は三十数丈にわたって破壊されたが、鄧愈は修築しながらも戦った。敵の攻勢は増々激しくなり、夜になっても武装を解かない日々が三ヶ月も続いた。太祖は自ら救援に向かい、初めて包囲が解かれ、論功行賞で敵を打ち破るに等しい評価を受けた。太祖は武昌路を平定すると、鄧愈に命じて未だに帰順しない江西の諸州県を従わせた。鄧克明の弟の鄧志清は永豊県に割拠し、兵二万人を有していた。鄧愈はこれを攻撃して破り、その大将五十数人を捕らえた。常遇春に従って沙坑・麻嶺諸寨を平定し、兵を進めて吉安路を攻略し、贛州路を包囲し、五ヶ月後に占領した。江西行中書省右丞に昇進したが、このとき二十八歳であった。挙兵以後、諸将の中で若くして栄達した者は鄧愈と李文忠くらいのものである。
 鄧愈の為人は明朗でありながら慎重かつ綿密で、危険を憚らず、軍令は厳粛にし、よく帰順者を扱った。例えば安福州を従えた時、部下に掠奪を働いた者がいた。判官潘枢が面会を求めるや、入るなり面と向かって鄧愈を批判した。鄧愈は驚いて陳謝し、民衆を掠める者は斬刑に処すことを下令し、軍中を捜索して捕らわれている子女がいれば全て連れ出した。潘枢は彼女らを空家の中に閉じ込めておき、自らは屋外に座り、粥を作って食べさせた。また夜陰に乗じて盗みを働こうと企んだ兵は、鄧愈自ら鞭打って見せしめにした。潘枢は全員を護衛して家に帰らせたので、民衆は非常に喜んだ。常遇春が襄陽路を攻略すると、鄧愈は湖広行中書省平章政事として当地を鎮守したが、その際の辞令書には次の様に記されていた。「汝が襄陽府を守るに当たっては、必ずよく法令を守らせよ。山寨の帰順する者は、兵民を問わず全て元の戸籍に付け、小校以下の者は全て屯種させ、耕作と戦闘を両立させよ。汝の守る地に臨する拡廓帖木児(ココテムル)にしても、もし汝が民に愛情を持って接し、軍令を徹底させれば、彼の部曲はみな義を慕って帰順するであろう、虎口を脱して慈母に接するようにせよ。我が頼みとする汝は長城の如し、汝は大いに精励せよ。」鄧愈は障害を排除して、軍列・行政・堡塁・屯田を整備し、帰順者を厚遇したので、その威徳は特筆すべきものであった。
 呉元年に御史台が設立されると、召還されて右御史大夫となり、御史台を領導した。洪武元年に太子諭徳を兼任した。大軍が中原を平定すると、鄧愈は征戍将軍となり、襄陽府・漢陽府の兵を率いて南陽府以北の未だ帰順しない州郡を後略した。唐州を占領し、南陽府に進攻し、元軍を瓦店站の戦いで破り、追撃して北上し遂に城下に至り、これを占領して史国公ら二十六人を捕らえた。隋州・葉県・舞陽県・魯山県といった諸州県は相次いで降伏した。牛心・光石・洪山の諸山寨を攻撃して占領し、均州・房州・金州・商州の地は悉く平定された。(洪武)三年、征虜左副副将軍として大将軍(徐達)に従い定西州に遠征した。拡廓帖木児は車道峴に駐屯していたので、鄧愈はその堡塁を直撃し、柵を立てて前進し、拡廓帖木児は敗走した。兵を分けて臨洮府より河州に進攻して勝利し、吐蕃の諸酋長に帰順を持ち掛けたので、宣慰使何鎖南普(ハスェナムボ)〔一〕らはみな印章を納めて投降を申し出た。豫王を追撃して西黄河に至り、黒松林の戦いでその大将を破って斬殺した。河州以西の朶甘(ダカン)・烏斯蔵(ウイグル)らの諸部族は悉く帰順した。甘粛の西北に出撃すること数千里にしてようやく帰還した。論功行賞によって開国輔運推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・右柱国を授けられ、衛国公に封じられ、同参軍国事とされ、歳禄三千石とされ、世券を与えられた。
 (洪武)四年の蜀討伐では、鄧愈に命じて襄陽府の軍馬を操練し、兵卒に糧食を供給させた。(洪武)五年、辰州・澧州の諸蛮が叛乱を起こしたので、鄧愈を征南将軍とし、江夏侯周徳興・江陰侯呉良を副将軍として討伐させた。鄧愈は楊璟・黄彬を率いて澧州を出撃し、四十八もの洞に勝利し、また房州の叛逆者を捕らえて斬殺した。(洪武)六年、右副将軍として徐達に従い西北辺境を巡回した。(洪武)十年、吐蕃が川蔵走廊を封鎖し、貢使を襲撃したので、鄧愈は征西将軍として副将軍沐英と共にこれを討伐した。兵を三路に分け、急追して崑崙山に至り、捕殺した敵兵は万を数え、馬牛羊十数万頭を捕獲し、兵をいくつかの要害に留めて帰還した。その道中で病に罹り、寿春県に到着したところで没した。四十一歳であった。寧河王に追封され、武順と諡された。
 長男の鄧鎮が後を継ぎ、申国公に追封され、征南副将軍として永新州龍泉山の賊を平定した。また塞外に出撃し功績を挙げた。その妻は李善長の外孫であった為に、李善長が粛清されると姦党に連座して誅殺された。弟の鄧銘は錦衣衛指揮僉事として蛮族制圧の軍中で没した。子の鄧源が鄧鎮の後を継いだ。弘治年間、鄧源の孫の鄧炳は南京錦衣衛世襲指揮使となった。嘉靖十一年に詔して鄧炳の子の鄧継坤を定遠侯に封じた。五代後の鄧文明は、崇禎の末年に流賊によって殺害された。

【注釈】
(※1)呉宏、もと陳友諒麾下で平章政事の官にあって饒州を鎮守していたが、朱元璋に投降した。前後関係を補足すると、『太祖実録』巻九、辛丑八月戊申条に「陳友諒の平章政事呉宏が饒州を以て投降したので、命じて旧官のまま饒州を鎮守させた。」とあり、また同十一月己未条には「命じて平章政事呉宏らに兵を率いて撫州路を攻略させた。時に陳友諒の右丞鄧克明は籠城して拒み、…」とある。

【校勘記】
〔一〕何鎖南普、元は「何鎖南」で、「普」一字が脱落していた。『太祖実録』巻五十九、洪武三年十二月辛巳条・同書巻六十、洪武四年正月辛卯条・同書巻百十六、洪武十年十一月壬午条・『国榷』巻四、四百三十八頁に基づいて補足した。本書巻三百三十西番伝は「鎖南普」としている。
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by su_shan | 2016-07-23 14:22 | 『明史』列伝第十四