元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

蔡子英

『明史』巻一百二十四、列伝第十二

 蔡子英、永寧路の人。元朝の至正年間の進士。察罕帖木児(チャガンテムル)が河南に開府すると、参軍事として仕え、行中書省参知政事まで昇進した。元朝が亡ぶと、拡廓帖木児(ココテムル)に従って定西州へ逃走した。明軍が定西州を攻略すると、拡廓帖木児は敗北し、蔡子英は単騎で関中へ落ち延び、南山に潜伏した。太祖(朱元璋)はその声望を聞き付け、人を派遣して似顔絵を描かせて手配したところ捕らえることができたので、京師まで送還させた。長江の畔まで来た時、逃亡し、姓名を変え、日雇いで粟搗きをして糊口を凌いだ。しばらくして、再び捕縛された。拘束されて洛陽を通り掛かった時、湯和に引見されたが、丁重かつ礼に則った挨拶をしなかった。湯和は蔡子英を抑え付け跪かせたが、それでもすることは無かった。湯和は怒り、火を付けてその髭を炙った。偶々蔡子英の妻が洛陽におり、面会を申し出たが、蔡子英は避けて会わなかった。京師に到着すると、太祖は拘束を解くよう命じ、礼節を以て処遇し、官位を授けたが、蔡子英は受け取らなかった。退出した後に上書して言った。「陛下は時勢に乗じて天運に応じられ、群雄を削平され、その威徳は海内のみならず海外にも轟き、帰順して朝貢しない者はおりません。臣は鼎の網から溢れ出た魚でございまして、南山に閉塞しておりました。先に露見して捕らわれ、また逃れるを得ました。七年の長きにより、官憲の執拗な追跡を受けました。ところが陛下は万乗の尊であらせられますのに、匹夫の忠節を全うさせ、天誅を下さず、却ってその疾病を癒し、礼服を取り替え、酒肴を賜り、官爵を授けて頂けますとは、陛下の度量たるや天地を覆わんばかりでございます。臣はその恩義に感服すること無量でございますので、犬馬の労を厭わない訳には参りませんが、ただ義理がございますので、敢えて初志を曲げることはできません。自身は庶民であったことを思うと、智識は浅く狭いにも関わらず、蒙古の主より頂いた知遇と薦挙は分を過ぎたるもので、七度も官職を拝命するに至り、馬に跨って肉を食らうこと十五年、恐縮にも僅かばかりも国士としての待遇に報いることはできませんでした。国家が破滅するに及んで、また節を失ったとあれば、何の面目があって天下の士に見えることができましょうか。管子は『礼を尊び、義を重んじ、欲を捨て、恥を知る、それが国の四つの大綱である。』と言っております。今、陛下は王朝を創業なさって皇統を伝承されましたが、まさに厳格なる道徳と法律を堅持して、子孫臣民に対して範を示さねばなりません。そうでございますのに、どうして礼儀を知らず、廉恥に乏しい俘囚の身を、新しき王朝の賢人士大夫の列に放り込もうとなさるのですか!臣は日夜を問わず思索に耽り、嘗て国に報いて死ぬことができなかったことを悔やみ、今日に至って、ようやく自決する覚悟ができました。陛下は臣を遇するに恩義と礼節を以てなさいましたが、もとより臣は敢えて命を絶って名を立てる様なことは望まず、また敢えて生き延びて賎しく食禄を貪る様なことも望みません。もし臣の愚考をお察し頂き、臣の志を全うさせて頂けるのであれば、その余生を終えるまで海南に禁錮なさって下さい。そうすれば、死する日が訪れたとしても、なおも生き生きとして迎えることができるでしょう。かつて王燭は門を閉ざして自ら縊死し、李芾は一族もろとも自ら屠ったと言いますが、彼らは栄華富貴を憎んで喜々として死んでいったのではなく、大義の前では、煮え滾る湯であっても避けることはしないのです。矮小なるこの身では、先人に会わせる顔が無く、死しては遺恨を残しますので、ただ陛下の御判断に従うのみでございます。」洪武帝(朱元璋)はその書を見ると、ますます蔡子英に惚れ込み、邸宅に留めて儀曹とした。ある時、一晩中大声で泣き叫んで止まないことがあった。人がその理由を質問すると、答えた。「他でも無い、ただ昔の主を思ってのことだ。」洪武帝はもはや蔡子英を靡かせることができないと悟り、洪武九年十二月、官吏に命じて塞外まで送り届け、和林(カラコルム)の嘗ての主に従わせた。
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by su_shan | 2016-07-24 13:43 | 『明史』列伝第十二