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by すーさん

耿炳文

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 耿炳文、濠州の人。父の耿君用は太祖(朱元璋)の長江渡河に従い、功績を評価されて管軍総管となった。宜興州を救援した折、張士誠の兵と陣営を争って戦死した。耿炳文が職位を継ぎ、その軍を受領した。広徳路を占領し、長興州に進攻し、張士誠の部将趙打虎を破り、軍船三百艘余りを鹵獲し、守将李福安らを捕らえ、遂に長興州に勝利した。長興州は太湖口に位置し、陸路は広徳路に通じ、宣城・歙県と領域を接する、江浙の門戸であった。太祖は早くもその地を獲得したので非常に喜び、長安州と改称し、永興翼元帥府を設立し、耿炳文を総兵都元帥として当地を鎮守させた。温祥卿という者がおり、智略に富み、戦乱を避けて帰順したので、耿炳文は幕府に引き入れ、あらゆる防御策を立案させた。張士誠の左丞潘元明・元帥厳再興が軍を率いて来襲した。耿炳文は奮戦して大いに打ち破った。しばらくして、張士誠はまた十万の軍を率いる司徒李伯昇を派遣し、水陸同時に侵攻させた。城内の兵は七千人しか居なかった為、太祖はこれを憂慮して陳徳・華高・費聚に命じて救援させた。李伯昇はその陣営を夜襲したので、諸将はみな潰走した。耿炳文は城の固守に徹し、急襲があれば対応して防御に回り、武装を解かない日が一ヶ月余りも続いた。常遇春が援軍を率いて現れると、李伯昇は陣営を放棄して遁走したので、追撃して五千人余りを斬殺した。翌年、永興翼元帥府を永興衛親軍指揮使司に改め、耿炳文を指揮使とした。この時既に張士誠は大軍を発し、弟の張士信を派遣して再び来襲した。耿炳文は再びこれを破り、その元帥宋興祖を捕らえた。張士信は憤激し、兵を増強して城を包囲した。耿炳文は費聚と共に出撃し、またこれを大いに打ち破った。長興州は必ず張士誠と係争する地であり、耿炳文は当地を堅守することおよそ十年、寡兵を以て大軍を防ぎ、大小数十戦の内、戦って勝利しなかったことは無く、張士誠の目論見を挫き続けた。張士誠討伐の大軍が出征すると、耿炳文は部曲を率いて湖州路を占領し、平江路を包囲した。呉の地が平定されると、大都督府都督僉事に昇進した。
 中原遠征に従軍し、山東の沂州・嶧州といった諸州に勝利し、汴梁路を降伏させ、河南を従わせ、北方巡幸に扈従した。また常遇春の大同路攻略に従軍し、晋・冀の地に勝利した。大将軍徐達に従って陝西に遠征し、李思斉・張思道を敗走させ、当地を鎮守した。涇陽県の洪渠を十万丈余りにわたって浚渫したので、民衆はその業績に感謝した。次いで秦王左相兼大都督府都督僉事を拝命した。
 洪武三年、長興侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。
 (洪武)十四年に大将軍(徐達)の塞外遠征に従軍し、元朝の平章政事乃児不花(ナイルブハ)を北黄河の戦いで破った。(洪武)十九年に潁国公傅友徳の雲南遠征に従軍し、曲靖蛮を討伐した。(洪武)二十一年に永昌侯藍玉の北征に従軍し、捕魚児海(ブユル湖)に到達した。(洪武)二十五年に兵を率いて陝西徽州の妖人の乱を鎮圧した。(洪武)三十年、征西将軍として蜀の高福興という賊を捕らえ、三千人を捕虜とした。
 初め、耿炳文は長興州を鎮守した功績が最も高く評価され、太祖が功臣を序列した折には、耿炳文を大将軍徐達に並ぶ一等の地位に置いた。洪武末年に及んで、諸公・侯のほとんどが消え去り、残っている者はただ耿炳文と武定侯郭英の二人だけであり、特に耿炳文は勲功の宿将であったので、朝廷の重鎮となった。
 建文元年、燕王朱棣が挙兵すると、建文帝(朱允炆)は耿炳文を大将軍に任命し、副将軍李堅・甯忠を率いて北伐させたが、この時六十五歳になっていた。兵力は三十万人を号したが、実際に集結したのは十三万人であった。八月に真定府に差し掛かり、滹沱河の南北に布陣した。都督徐凱は河間府に、潘忠・楊松は鄚州に、その先鋒九千人は雄県に駐留した。中秋になった頃、防御に不備があった為に、燕王朱棣の襲撃を受け、九千人が全滅した。潘忠らが救援に駆け付けたが、月漾橋を通過した所で水中より伏兵が現れた。潘忠・楊松の両名が捕らわれたが、帰順を拒んだので殺害され、鄚州は陥落した。しかも耿炳文の部将であった張保という人物が燕王に投降したことで、南軍の内情が筒抜けになってしまった。燕王は張保を解放して帰らせ、雄県・鄚州での敗戦の状況と、北軍が間も無く侵攻して来るということを吹聴させた。こうして耿炳文の軍は全て渡河を終え、総力を挙げて敵に当たることになった。軍が移動を始めると、急進してきた燕王軍と接触したので、城の周囲で戦闘が行われた。耿炳文の軍は戦列を維持できず、敗北して城に逃げ込んだ。城門付近が戦場となったので、城門を閉塞した為に、殺到して踏み付けられ死亡した者は数え切れない程に多かった。燕王軍は遂に城を包囲した。耿炳文は依然として十万人を擁していたが、城を堅守して出撃しなかった。燕王は耿炳文が経験豊富な老将であることを知っていたので、易々と陥落させることはできないと考え、三日経ってから包囲を解いて後退した。一方で建文帝は耿炳文の敗北を知ると非常に憂慮した。太常卿の黄子澄は李景隆を大将軍にするよう薦め、側近であることを利用して耿炳文を更迭した。この決定が前線に届いた時、燕王軍は既に一日早く立ち去っていた。耿炳文は帰還し、李景隆が大将軍を交代したが、最終的に敗北した。燕王が皇帝を称した翌年〔一〕、刑部尚書鄭賜・都御史陳瑛は耿炳文が衣服や食器に竜鳳の飾りを誂え、玉帯に紅の腰帯を用いて、不道の罪を犯していると告発した。耿炳文は恐懼して自殺した。

 子の耿璿は前軍都督府都督僉事となり、懿文太子朱標の長女の江都公主を娶った。耿炳文の北伐に際して、耿璿は北平府を直撃するよう進言した。耿炳文の更迭後、再び進言したがこれも承認されず、耿璿は非常に憤慨した。永楽年間の初め、門を閉ざして病気と称したが、罪に連座して処刑された。耿璿の弟の耿巘は後軍都督府都督僉事となり、江陰侯呉高・都指揮使楊文と共に、遼東の軍を率いて永平府を包囲したが、攻略できず、後退して山海関を保持した。呉高は離間されて広西に移された。楊文は遼東を守ったが、耿巘はしばしば永平府を攻撃して北平府を圧迫するよう要請したにも関わらず、楊文は聞き入れなかった。後に弟の尚宝司卿の耿瑄と共に、いずれも罪に連座して処刑された。

【校勘記】
〔一〕翌年は永楽元年にあたる。本書巻六、世祖本紀・巻百五、功臣世表はいずれも永楽「二年」としている。
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by su_shan | 2016-07-26 12:31 | 『明史』列伝第十八