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by すーさん

郭英

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 郭英、鞏昌侯郭興の弟。十八歳の時、郭興と共に太祖(朱元璋)に仕えた。信頼を得、幕中に侍衛することを命じられ、郭四と呼ばれた。滁州・和州・采石・太平路の攻略に従軍し、陳友諒を討伐し、鄱陽湖に戦い、その全てに功績を挙げた。武昌路遠征に従軍した折、陳氏の驍将陳同僉が槊を手に突入して来たので、太祖は郭英を呼んで殺し、その死体を戦袍で包んでやった。岳州路を攻撃し、その援軍を破り、軍を返して廬州路・襄陽路に勝利し、驍騎衛千戸を授かった。淮安路・濠州・安豊路を占領し、指揮僉事に昇進した。徐達の中原平定に従軍し、また常遇春の太原路攻略に従軍し、拡廓帖木児(ココテムル)を敗走させ、興州・大同路を降伏させた。沙浄州に到達して黄河を渡り、西安・鳳翔府・鞏昌府・慶陽府を占領し、賀宗哲を追撃して乱山に破り、本衛指揮副使に遷った。進軍して定西州を占領し、察罕脳児(チャガンノール)に遠征し、登寧州に勝利し、斬首すること二千人、河南都指揮使に昇進した。時に郭英の妹が寧妃となっており、郭英の赴任に際して、寧妃に命じて邸宅にて郭英に餞を贈り、白金二十罌・馬二十頭を賜った。任地に赴いてからは流民を集めてよく慰撫し、約束事を表明し、領域の治安を守った。(洪武)九年、北平府鎮守に移った。(洪武)十三年に召還され、前軍都督府都督僉事に昇進した。
 (洪武)十四年、潁川侯傅友徳の雲南遠征に従軍し、陳桓・胡海と共に兵を分けて複数路より赤水河路に侵攻した。長らく雨が降った為に、河は著しく増水していた。郭英は木を伐採して筏を造り、夜陰に乗じて渡河した。払暁、賊軍の陣営に到達した。賊は驚愕して潰走した。烏撒並びに阿容などの地を突いた。曲靖・陸涼・越州・関索嶺・椅子寨を攻撃して占領し、大理・金歯・広南を降伏させ、諸山寨を平定した。(洪武)十六年、また傅友徳に従って蒙化・鄧川を平定し、金沙を渡り、北勝・麗江を占領した。この間に斬首すること一万三千人余り、捕縛二千人余り、鹵獲した甲冑は数万組、船舶は千艘余りに達した。
 (洪武)十七年に雲南平定の功績を評価されて武定侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)十八年に靖海将軍を加官され、遼東を鎮守した。(洪武)二十年、大将軍馮勝に従って金山に出撃し、納哈出(ナハチュ)が降伏し、征虜右副将軍に昇進した。藍玉に従って捕魚児海(ブユル湖)に到達した。軍が帰還すると、手厚い褒賞を賜ったが、郷里に送って帰郷した。翌年、召し出されて入京し、禁衛兵の統括を命じられた。(洪武)三十年に征西将軍耿炳文を補佐して陝西辺境に備え、沔県の賊の高福興を平定した。帰還したところ、御史裴承祖が郭英は自宅に奴隷百五十数人を養い、また勝手に男女五人を殺害したと告発した。洪武帝(朱元璋)は不問に付した。僉都御史張春らが執拗に上奏を繰り返したので、複数の所管大臣に命じてその罪状を協議させた。結論が出され、最終的に罪を許された。
 建文帝の時代、耿炳文・李景隆に従い燕王朱棣を討伐したが、功績を立てられなかった。靖難戦役の後、官を辞して自宅に隠棲した。永楽元年に没した時、年齢は六十七歳であった。営国公を贈られ、威襄と諡された。
 郭英は親孝行で兄弟仲が良く、書史に通じ、軍中にあっては規律を保ち、謹んで太祖に忠節を尽くし側近に侍った。また寧妃の事例などその恩寵は最も厚かったので、他の功臣達で敢えて同じ待遇を望もうとする者は居なかった。
 男子は十二人いた。郭鎮は永嘉公主を娶った。郭銘は遼府典宝となった。郭鏞は中軍都督府右都督となった。娘は九人おり、うち二人は遼王朱植と郢王朱棟の妃となった。孫娘は仁宗の貴妃となり、彼女は郭銘の娘であったことから、郭銘の子の郭玹が侯爵位を継ぐことができた。宣徳年間、郭玹は署宗人府事となり、河間府の民間の田伏を奪い、また天津の屯田千畝を奪ったが、その家奴に罪を着せた為に郭玹は許された。英宗の初め、永嘉公主は子の郭珍に侯爵位を継がせるよう請願した。郭珍は郭英の嫡孫であり、錦衣衛指揮僉事を授かった。郭玹が没すると、子の郭聡と郭珍が跡目を争ったので、遂にいずれにも継承させず、また郭聡には郭珍と同様の官位を授けた。天順元年、郭珍の子の郭昌は恩詔を得て跡を継いだので、郭聡はもはや争うことができなくなった。郭昌が没すると、子の郭良が跡を継ごうとしたが、郭良は郭昌の子ではないと郭聡が吹聴した為に、また継承を止め、指揮僉事を授かった。その後、しばしば継承を請願したので獄に下されたが、許されて官職に復帰した。既にこの頃、郭氏一族はみな郭英の子孫を一人選んで郭英の爵位を継がせるように請願していた。廷臣はみな郭良は元より郭英の嫡流であるから、侯爵位を継がせるべきだと言った。詔によって認められた。郭良は正徳年間の初めに没した。子の郭勛が跡を継いだ。

 郭勛は狡猾ではあるが智略に富み、書史に精通していた。正徳年間、両広地方を鎮守し、三千営を掌握した。世宗の初め、団営を掌握した。大礼の議が沸き起こると、郭勛は上意を酌んで張璁に同調した為、世宗は非常に気に入って偏愛した。郭勛は寵愛を恃みとして、非常に驕慢になった。大学士楊一清がこれを憎んだことにより、ある贈賄の事実が発覚した為、団営を解任され、継承した官位を剥奪された。楊一清が辞任すると、五軍営を総括し、近郊の開発を監督した。翌年、団営を統括した。(嘉靖)十八年、領後軍都督府事を兼任した。承天府行幸に扈従し、五世祖の郭英を太廟に祀る許しを求めた。廷臣はこぞって反対し、特に侍郎唐冑が最も強硬に抵抗した。嘉靖帝は反対を認めず、郭英は最終的に太廟に祀られることになった。その翌年、献皇は宗と称し、太廟に入り、郭勛は翊国公に進み、太師を加官された。
 これより以前、妖人李福達という者が自分は薬物から金銀を作ることができると触れ回っていた。郭勛と交遊を持った。李福達が失脚すると、処罰を強硬に主張した廷臣の多くが罪を着せられた。ここでまた方士段朝用を薦め、金銀を変化させて飲食器を作ったり、不死にできると言った。嘉靖帝は益々郭勛を忠義者と認めた。給事中戚賢は郭勛が職権を濫用し、暴利を貪って民衆を虐げている事などを弾劾した。李鳳来らもまた同様の発言を行った。案件を所管部署に回して調査させたところ、郭勛が京師に有する店舗は千ヶ所あまりに及んでいた。副都御史胡守中もまた親類の郭憲が東廠を掌握して無実の人を勝手に虐待していると郭勛を弾劾した。嘉靖帝は取り合わなかった。偶々嘉靖帝は司法官の提言を採用して郭勛に勅を下し、兵部尚書王廷相・遂安伯陳譓と共に軍役の監査をさせることにした。勅書が届いたが、郭勛は拝領しなかった。司法官はその権勢を笠に着て徒党を組んでいる様を弾劾した。郭勛が上疏した文章の中に、「何の必要があって殊更に勅を賜らねばならんのか」という言葉があった。嘉靖帝は激怒し、その傍若無人振りと臣下の礼節に悖る態度を責め立てた。ここで給事中高時が郭勛の不当に取得した利益の悉くを告発し、また張延齢と交流があったことにも言及した。嘉靖帝は更に激怒し、郭勛を錦衣獄に下した。(嘉靖)二十年九月のことである。
 次いで鎮撫司に諮問して如何なる刑罰に処すべきか尋ねた。上奏には郭勛を死罪にすべしとあった。嘉靖帝は司法部門に再調査を命じた。そこで給事中劉大直が郭勛の政治を乱した十二の罪状を調査し、重ねて処罰を要請した。司法部門は数々の報告書にある罪状の悉くを事実と認め、郭勛を絞死の罪にすべしとした。嘉靖帝は詳細に討議するよう命じた。司法部門は更に郭勛を不軌として斬死の罪とし、妻子と田地宅地は没収すべしとした。上奏は保留されて決断されなかった。嘉靖帝は尚も郭勛を助命しようと考え、しばしばその意思を示した。しかし廷臣の郭勛に対する憎悪は甚だしく、誤って意趣変えしない者は、更に郭勛に連座して死罪となった。翌年になると司法官が監察を受け、高時を二級降格させる特旨を発して廷臣を牽制した為、遂に廷臣は郭勛の処遇についての要請を取り止めた。その年の冬、郭勛は獄中で没した。嘉靖帝はこれを哀れみ、司法部門を問責して処分を行った。刑部尚書呉山は更迭され、侍郎や都御史以下の官は程度に応じて降格された上で、郭勛の籍没は免除され、僅かに誥券を剥奪されただけであった。
 明王朝の勃興以来、勲功の臣は政事に参与しなかった。ただ郭勛は恩寵を盾に朝廷を専横し、邪心の趣くままに振る舞って失脚した。郭勛の死から数年後、その子の郭守乾が侯爵位を継ぎ、曽孫の郭培民まで継承させたが、崇禎末年に流賊の殺害する所となった。
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by su_shan | 2016-07-28 12:15 | 『明史』列伝第十八