元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

仇成

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 仇成、含山県の人。当初従軍して万戸に充てられ、昇進を重ねて秦淮翼元帥府副元帥に至った。太祖(朱元璋)が安慶路を攻撃した際、敵は防御を固めて交戦しなかった。廖永忠・張志雄がその水寨を破ると、仇成は陸兵を率いてこれに乗じ、遂に安慶路を攻略した。当初、元朝の左丞余闕が安慶路を鎮守していたが、陳友諒の部将趙普勝がこれを陥落させた。陳友諒は早くも趙普勝を殺害したので、元帥余某が襲撃して当地を占拠した。張定辺が再び侵攻した為、余元帥は敗死した。ここで仇成は横海衛指揮同知となって当地を鎮守した。当時、左君弼は廬州路に割拠し、羅友賢は池州路に挙兵し、無為知州の董曽は殺害され、四方はすべて賊の領域であった。仇成は軍民を集めて慰撫し、防御を固めたことで、漢軍(陳友諒)は敢えて東進しようとしなかった。鄱陽湖の戦いに従軍し、涇江口の殲滅戦では最も功績を挙げた。平江路に遠征し、張士誠の兵を城の南西で破った。
 洪武三年、大都督府都督僉事となり、遼東を鎮守した。しばらくして、屯田等に成果が無かった為に永平衛指揮使〔一〕に降格されが、次いで元の官職に戻された。
 (洪武)十二年に藍玉らの西方遠征の功績によって封爵を検討された。洪武帝(朱元璋)は仇成の長らくの貢献を思い、まず安慶侯に封じ、歳禄二千石とした。(洪武)二十年に征南将軍に任命され、容美諸峒を討伐した。また大軍を発した雲南遠征に従軍し、多くの功績を挙げ、世券を与えられ、五百石を加増された。
 (洪武)二十一年七月に病気を発症した。酒を賜い、直筆の詔で見舞いを受けた。没すると皖国公を追贈され、荘襄と諡された。子の仇正が爵位を継いだ。

【校勘記】
〔一〕永平、もとは「永昌」であった。『太祖実録』巻七十六、洪武五年十一月壬申条・巻百九十二、洪武二十一年七月辛巳条は等しく「永平」としている。仇成が降格されたのが洪武五年であることを考えると、当時の雲南の永昌はなおも元朝の梁王の支配下にあって、永平衛は直隷永平府にあり、洪武三年正月丁巳に設置されたことが『太祖実録』巻四十八に見える。これらに基づいて「永平」に改めた。
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by su_shan | 2016-07-30 23:44 | 『明史』列伝第十八