元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

華高

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 華高、和州の人。兪通海らと共に巣湖水師を伴って帰順した。太平路攻略に従軍し、総管を授かった。従軍して采石・方山の兵を破り、集慶路・鎮江路を降伏させ、秦淮翼元帥に遷った。鄧愈と共に広徳路を従えた。この時、守将は城内に堅守を命じていた為、華高は数騎で挑発したが、元軍は城壁から決して動かなかった。華高は強襲して城壁を破り、遂に城を陥落させ、兵卒一万人を獲得し、糧食数千斛を接収した。常州路平定に従軍し、僉行枢密院事に昇進した。兪通海を補佐して趙普勝の水上陣地を撃破した。再び陳友諒を破り、長興州を救援し、武昌路に勝利し、湖広行中書省左丞を授かった。水軍を率いて淮東攻略に従軍し、浙西を収め、湖広行中書省平章政事に昇進した。洪武三年に広徳侯に封じられ、食禄六百石とされた。
 華高の性格は臆病で、更に子も居なかったので、宿直の職に就きたいと請願していた。ある時に征討の機会があったが、華高は病気と称して出征しなかった。水軍の操練を命じられた時も、また未熟であるからと言って辞退した。洪武帝(朱元璋)は古い友人だからと容認していた。時に勲臣の多くが辺境に出向いていたが、ただ華高だけが派遣されなかった。最後に広東の沿海堡塁の修築だけは、華高自らが請願して担当した。洪武帝は言った。「卿がまた自ら励むとは、とても良いことではないか。」四年四ヶ月で工事は完成したが、瓊州に差し掛かった時に没した。初め、華高は利殖に手を出していると言う者が居た為に、食禄は一人だけ少なくされた。ここに至って貧しさの為に埋葬できなかった。洪武帝はこれを哀れみ、三百石を支給するよう命じた。子が居ない為に、墓に誥券を納めた。巣国公を贈られ、武荘と諡された。甥の華岳は指揮僉事を授かった。
[PR]
by su_shan | 2016-08-02 12:43 | 『明史』列伝第十八