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元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

陳徳

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 陳徳、字を至善、濠州の人。代々農家であったが、勇気と力量があった。定遠県に於いて太祖(朱元璋)に帰順し、万夫長として戦闘に従事してその何れにも功績を挙げ、帳前都先鋒となった。諸将と共に寧国路・徽州路・衢州路・婺州路の諸城を奪取し、元帥に抜擢された。李伯昇が長興県に襲来すると、陳徳が救援に向かい、迎撃して敗走させた。南昌救援に従軍し、大いに鄱陽湖に戦い、水寨姚平章を捕らえた。太祖の旗艦が浅瀬に乗り上げたので、陳徳は奮戦して防ぎ、身体に矢を九本受けたが、退かなかった。武昌路平定に従軍した。旧館の戦いで張士誠の軍を大いに破り、天策衛親軍指揮使に抜擢された。呉の地が平定されると、大都督府都督僉事に昇進した。大将軍(徐達)に従って北進して中原を攻略し、元朝の汴梁路に勝利した。河南行都督府が設立されると、陳徳を署府事とし、群盗を討伐させた。山西に遠征し、沢州の磨盤寨を破り、参知政事喩仁を捕らえ、遂に大軍と合流して平陽・太原・大同路に勝利した。黄河を渡り奉元路・鳳翔府を奪取し、秦州に到達した。元朝の守将呂国公が遁走したので、追撃してこれを捕らえた。徐達が慶陽府に於いて張良臣を包囲すると、張良臣は兄の張思道の来援を頼みとして、使者を往来させたが、陳徳が悉くを捕らえたので、慶陽府は遂に陥落した。また古城の戦いで拡廓帖木児(ココテムル)を大いに破り、その兵卒八万人を降伏させた。
 洪武三年に臨江侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。翌年に潁河侯傅友徳に従って蜀(明昇)を討伐し、経路を分けて綿州に侵入し、竜徳〔一〕を破り、呉友仁の軍を大いに破り、勝勢に乗じて漢州を突破した。向大亨・載寿らは成都路へ逃走したので、追撃してこれを破り、遂に傅友徳と共に成都路を包囲した。蜀の地が平定されると、白金綏幣を賜り、また汴梁に帰還した。(洪武)五年に左副将軍となり、馮勝と共に漠北に遠征し、別篤山の戦いで敵軍を破り、捕殺した敵兵は一万を数えた。甘粛に勝利し、亦集乃路(エチナ路)を奪取し、守兵を置いて関所を抑えて帰還した。翌年に再び軍を統率して朔方に遠征し、敵方の三岔山を破り、その副枢失剌罕(シルハン)ら七十人余りを捕らえた。その年の秋、再び答剌海口(トラハイ口)に出征し、六百人を斬首し、その同僉忻都(ヒンドゥ)ら五十四人を捕らえた。およそ三度交戦し、三度勝利した。(洪武)七年に北平府で練兵を行った。(洪武)十年に鳳陽府へ帰郷した。(洪武)十一年に没した。杞国公に追封され、定襄と諡された。

 子の陳鏞が爵位を継承した。(洪武)十六年に征南左副将軍となり、竜泉諸山の賊を討伐し、汴梁で練兵を行った。(洪武)十九年に靖海侯呉禎と共に会州に築城した。(洪武)二十年に馮勝に従って納哈出(ナガチュ)を討伐した際、金山に差し掛かった所で、本隊と逸れて互いに見失い、敗北した。(洪武)二十三年に陳徳が胡惟庸の徒党に追認され連座すると、詔書によって西方遠征の際のとある過失に罪を着せられ、遂に胡惟庸と通謀していたとされた。爵位を剥奪された。

【校勘記】
〔一〕竜徳、本書巻二、太祖本紀・『太祖実録』巻六十四、洪武四年四月辛丑条は「隆州」となっている。『明通鑑』巻四、考異には、「『三編質実』は蜀の隆州には三つの経路があり、すべて階州・文州に関わらず蜀に入る道であるという。恐らく竜州とは今の竜安府であり、『太祖実録』は間違って竜を隆としたのであろう。傅友徳は階州・文州より江油を突き、綿州に向かっているので、竜州は必ず通る道である。」蜀に「竜徳」という地名は無いことを考えると、ここは竜州とするのが正しいであろう。
by su_shan | 2016-08-05 19:04 | 『明史』列伝第十九