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by すーさん

金朝興

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 金朝興、巣県の人。淮西の地が戦乱に曝されると、手勢を集めて砦を築き、身を守っていた。兪通海らが既に太祖(朱元璋)に帰順したので、金朝興もまた手勢を率いて来帰した。長江渡河に従い、征伐の事にはいずれも参戦し、功績を挙げた。常州路に勝利し、都先鋒となった。また宜興州を奪還し、左翼副元帥となった。武昌路を平定し、竜驤衛指揮同知に昇進した。呉の地を平定すると、鎮武衛指揮使に改められた。大同路に勝利すると、大同衛指揮使に改められた。東勝州を奪取し、元朝の平章政事劉麟ら十八人を捕らえた。
 洪武三年に功績を評価されて大都督府都督僉事兼秦王左相となった。間も無くして都督府を解任され、傅王専任となった。(洪武)四年に大軍に従って蜀(明昇)を討伐した。(洪武)七年に軍を率いて黒城(カラホト)に到達し、元朝の太尉盧伯顔(ルバヤン)・平章政事帖児不花(テルブカ)並びに中書省枢密院等の官僚二十五人を捕らえた。遂に李文忠に従って東方経路の軍を受領し、和林(カラコルム)を奪取したことについては、李文忠伝に詳しい。 金朝興は沈着かつ勇敢で智略に優れ、あらゆる戦場において一軍を以て勝利を収め、未だに大軍を率いたことは無いとは言うものの、その功績は諸将を凌いでいた。(洪武)十一年に沐英に従って西方に遠征し、納隣七站の地を収めた。翌年に功績を評価されて宣徳侯に封じられ、食禄二千石とされ、世襲指揮使を許された。(洪武)十五年に傅友徳に従って雲南に遠征し、臨安府に駐屯し、元朝の右丞兀卜台(ウブタイ)・元帥完者都(オルジェイドゥ)・土酋楊政らは共に降伏した。金朝興の治安は適切であった為に、軍民はみな喜んだ。進軍して会川に差し掛かった所で没し、沂国公に追封され、武毅と諡された。(洪武)十七年に雲南平定の功績を評価され、改めて世侯券を賜り、五百石を加増された。
 長男の金鎮が跡を継いだ。(洪武)二十三年に金朝興が胡惟庸の徒党に追認されて連座すると、金鎮は平壩衛指揮使に降格された。征討に従事して功績を挙げたので、都指揮使に昇進し、その後に世襲衛指揮使となった。嘉靖元年、傅友徳・梅思祖及び金朝興の廟を雲南に建立するよう命じた際には、額に「報功」と刻まれた。
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by su_shan | 2016-08-06 14:20 | 『明史』列伝第十九