元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

費聚

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 費聚、字を子英、五河県の人。父の費徳興は、力があり勇敢で武術に長けていたので游徼卒(邏卒)となった。費聚は幼少時より技撃術を学んだ。太祖(朱元璋)が濠州で出会ったところ、その容貌を気に入り、互いに深く盟約を結んだ。定遠県の張家堡には民兵が居たが旗色を決めていなかったので、郭子興はこれを招聘したいと考えたが、使者の任に堪える者は居ないと思った。太祖は病気を押して自身が向かいたいと願ったので、費聚と共に騎乗して行き、歩兵九人が従った。宝公河に差し掛かった時、その陣営が非常に整っているのが見え、弓や弩はすべて外側を向いていた。歩兵は恐れて、逃げようとした。太祖は言った。「連中は騎兵で我々を一蹴するぞ、逃げたところで何処へ行けると言うのだ?」遂に前進してその陣営に到着した。帰順が決定すると、三日を約して、まず太祖が帰還し、費聚は留まってこれを待った。民兵の首領は彼を手下にしようとしたので、費聚は帰還して事の次第を報告した。太祖はまた費聚と共に三百人を従えて向かい、一計を案じてその首領を縛り上げ、兵卒三千人を手に入れた。豁鼻山に秦把頭率いる八百人が居たので、費聚はまたこれを招聘して降伏させた。遂に従軍して霊璧県を奪取し、泗州・滁州・和州に勝利した。承信校尉を授かった。
 既に江東を平定し、長興州に勝利すると、永興翼元帥府が設立され、費聚は耿炳文の補佐として元帥となった。張士誠が侵攻すると、これを撃退した。召還されて宿衛を統率した。安豊路を救援し、続けて江西を平定し、武昌路に勝利し、いずれも従軍した。永興翼元帥府を永興衛親軍指揮使司に改め、耿炳文補佐のまま指揮同知となった。張士誠が再び来襲すると、その部将宋興祖を捕らえ、再びこれを破った。張士誠は意欲を喪失し、敢えて再び長興州を窺おうとはしなかった。淮安路・湖州路・平江路遠征に従軍し、いずれにも功績があったので、指揮使に昇進した。湯和が方国珍を討伐した際には、費聚は水軍によって海路より邀撃した。浙東が平定されると、再び海路より福州路を奪取し、延平路を破った。帰還して昌国州に差し掛かった時、海賊の葉・陳二氏が蘭秀山を占拠したので、ここに至って費聚は初めて単独で軍を率いた。
 洪武二年に大軍を合流させて西安を奪取すると、西安衛指揮使に改められ、大都督府都督僉事に昇進した。平涼府を鎮守した。(洪武)三年に平涼侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。時に諸将は辺境で屯田を行い隊伍を募り、一年中常に任務に従事していた。費聚は酒色に耽るばかりで一切何もしなかった。また招聘による功績も無く、召還されると、叱責を受けた。翌年に傅友徳に従って雲南に遠征し、白石江に戦い、達里麻(タリマ)を捕らえた。雲南が平定されると、更に進撃して大理を奪取した。間も無くして、諸蛮族が再び叛いたので、安陸侯呉復を補佐して軍を統括するよう命じられ、方策を授かり、分担して関索嶺及び阿咱などの砦を攻撃し、これを悉く陥落させた。蛮族の地は漸く平定された。貴州都指揮使司が設置されると、費聚を署司事とした。(洪武)十八年に総兵官を拝命し、指揮使丁忠らを率いて広南に遠征し、火立達(ホリタ)を捕らえ、その軍一万を捕虜とした。帰還して雲南を鎮守した。(洪武)二十三年に召還された。李善長が粛清されると、費聚に追及が及んだ。洪武帝(朱元璋)は言った。「前に費聚は姑蘇にあって指示に背いたことがあった、嘗て朕が叱責したこともあった、とうとう謀叛を企てるとは!」最終的に徒党に連座して処刑され、爵位を剥奪された。
 子の費超は、方国珍討伐の陣中で没した。費璿は推挙されて江西行中書省参知政事となった。孫の費宏は、雲南遠征に従軍し、功績を重ねて右衛指揮使となった。上奏に虚偽があった罪により、金歯の鎮守とされた。
[PR]
by su_shan | 2016-08-07 01:16 | 『明史』列伝第十九