元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

徐達

(文字数制限に抵触する為、本伝は二頁に分けてお送りします)

『明史』巻一百二十五、列伝第十三

 徐達、字を天徳、濠州の人、代々農家であった。徐達は幼少より大志があり、長身で頬骨が高く、剛毅で武勇に優れていた。太祖(朱元璋)が郭子興の部将となった時、徐達は二十二歳であったが、駆け付けてこれに従い、ひとたび顔を合わせると語り合った。太祖が南進して定遠県を攻略するに及んで、二十四人の部下を率いて行ったが、徐達はその筆頭であった。次いで従軍して元軍を滁州澗の戦いで破り、和州奪取に従い、郭子興は徐達に鎮撫を授けた。郭子興が孫徳崖を捕らえると、孫徳崖の軍もまた太祖を捕らえた為に、徐達は身を挺して孫徳崖の軍に赴いて交代を申し出たことで、太祖は帰ることが出来、徐達もまた逃れることが出来た。長江渡河に従い、采石を突破し、太平路を奪取し、いずれも常遇春と共に軍の先陣を切った。元朝の将帥陳埜先(陳エセン)を破って捕らえ、別軍を率いて溧陽州・溧水州を奪取し、集慶路を陥落させた。太祖は自身を留め、徐達を大将に命じて、諸軍を率いて東進させ鎮江路を攻め、これを突破した。軍令を厳格にさせたので、城中は安定した。淮興翼統軍元帥を授かった。
 当時、張士誠は既に常州路を占拠し、江東の叛将陳保二と呼応して水軍によって鎮江府を攻撃した。徐達はこれを竜潭の戦いで破り、遂に軍の増強を要請して常州路を包囲した。張士誠は部将を派遣して救援した。徐達は敵軍が狡猾かつ精鋭であることを見抜き、未だに容易には力ずくで奪取することが出来ないと考え、城より後退して二ヶ所に伏兵を置いて待機し、それとは別に王均用の軍を奇襲部隊として用意しておき、自らは督戦して戦闘に臨んだ。敵軍が退却すると伏兵に襲撃させたので、大いにこれを破り、その張・湯二将軍を捕らえ、進軍して常州路を包囲した。翌年に勝利した。江南行枢密院僉事に昇進した。次いで寧国路に勝利し、宜興州を従え、先鋒の趙徳勝に常熟州を陥落させ、張士誠の弟である張士徳を捕らえた。翌年に再び宜興州を攻め、これに勝利した。太祖は自ら婺州路を攻略しようと考え、徐達に応天府の鎮守を命じ、別に一軍を派遣して天完の部将趙普勝を撃破し、池州路を奪還した。奉国上将軍・江南行枢密院同知に遷り、安慶路に進攻し、無為州より陸地を進み、夜間に浮山寨を襲撃し、青山の戦いで趙普勝の部将を破り、遂に潜山に勝利した。帰還して池州を鎮守し、常遇春と共に伏兵を置き、九華山の麓で陳友諒軍を破り、斬首一万人、捕虜三千人の戦果を得た。常遇春は言った。「こいつらは強敵だ、殺しておかないと後々不味いことになる。」徐達は認めず、状況を報告した。ところが常遇春は先んじて捕虜の半数以上を穴埋めにしてしまったので、太祖は喜ばず、残りの捕虜全てを解放して帰らせた。この時点で初めて徐達が諸将を掌握するよう命じたのである。陳友諒が竜江に侵攻すると、徐達は南門の外側に布陣し、諸将と共に奮戦してこれを破り、慈湖まで追撃し、その船団を焼き払った。
 翌年、漢(陳友諒)討伐に従軍し、江州路を奪取した。陳友諒は武昌路に敗走したので、徐達はこれを追撃した。陳友諒は沔陽府に軍船を出撃させたので、徐達は漢陽府の沌口に陣営を築いてこれを妨害した。江南行中書省右丞に昇進した。翌年、太祖が南昌路を平定すると、降将の祝宗・康泰が叛乱した。徐達は沌口の軍を用いてこれを討伐した。安豊路救援に従軍し、呉(張士誠)の部将呂珍を破り、遂に廬州路を包囲した。偶々漢軍が南昌に侵攻したので、太祖は廬州路より徐達を召還して軍を合流させ、鄱陽湖に於いて決戦に臨んだ。陳友諒の軍は非常に優勢で、徐達は諸将の先頭に立って奮戦し、その先鋒を挫き、千五百人を殺害し、一隻の巨船を鹵獲した。太祖は勝機を見出してはいたが、一方で張士誠が呼応することを恐れ、夜の内に徐達を転進させて応天府の守りとし、自らは諸将を率いて激戦を繰り広げ、遂に陳友諒を敗死させたのである。
 翌年、太祖は呉王を自称し、徐達を左相国とした。再び兵を率いて廬州路を包囲し、その主城に勝利した。江陵県・辰州路・衡州路・宝慶路などの諸路を攻略し、湖・湘の地は平定された。召還されると、常遇春らを率いて淮東を従え、泰州に勝利した。呉軍が宜興州を陥落させると、徐達は帰還して救援に赴き、これを奪還した。再び軍を率いて長江を渡り、高郵府に勝利し、呉軍の将兵千人余りを捕虜とした。常遇春と合流して淮安路を攻め、馬騾港の戦いで呉軍を破ったので、守将の梅思祖は城を以て投降した。進軍して安豊路を破り、元朝の部将忻都(ヒンドゥ)を捕らえ、左君弼を敗走させ、その糧船の悉くを鹵獲した。元軍が徐州に侵攻すると、迎え撃ち、これを大いに破り、捕殺した敵兵は一万人を数えた。淮南・淮北は平定された。
 軍が帰還すると、太祖は呉遠征を討議させた。右相国李善長はしばらく延期するように進言した。徐達は言った。「張氏は奢侈に溺れて苛政を敷き、大将である李伯昇の一党はいたずらに子女玉帛を蓄え、容易に付け入ることが出来ます。重用されているのは、黄敬夫・蔡彦文・葉徳新という三人の参軍ですが、書生で大計を知りません。臣が主上の威徳を奉り、大軍を以てこれを圧迫すれば、三呉の地が平定される日を数えながら待つことが出来るでしょう。」太祖は非常に喜び、徐達は大将軍を拝命して、平章政事常遇春を副将軍として、水軍二十万人を率いて湖州路に迫った。敵軍が三路より出撃したので、徐達もまた三軍に分かれて対応し、別動隊を派遣してその帰路を封鎖した。敵軍は交戦して敗走したが、城に戻ることは出来なかった。引き返した敵軍と再度戦闘になり、大いにこれを破り、将帥官吏二百人を捕らえ、その城を包囲した。張士誠は呂珍らを派遣して六万の軍で救援に向かわせ、旧館に駐留させ、五個の砦を築いて固守させた。徐達は常遇春らに十個の堡塁を築造させてこれを遮断した。張士誠自ら精鋭を率いて来援したので、皂林の戦いでこれを大いに破った。張士誠は敗走し、遂に昇山の水陸両寨を突破した。五太子(※1)・朱暹・呂珍らはみな降伏したので、城中に見せ付けたところ、湖州路は降伏した。遂に呉江州を陥落させ、太湖より進撃して平江路を包囲した。徐達は葑門に布陣し、常遇春は虎丘に布陣し、郭子興は婁門に布陣し、華雲竜は胥門に布陣し、湯和は閶門に布陣し、王弼は盤門に布陣し、張温は西門に布陣し、康茂才は北門に布陣し、耿炳文は城の北東に布陣し、仇成は城の南西に布陣し、何文輝は城の北西に布陣し、長大な包囲陣地を築いてこれを困窮させた。木造の攻城塔と城内の仏塔などを橋で渡した。それとは別に三つの高台を造成して完成させ、城内を俯瞰出来るようにし、弓・弩・火砲を配備した。高台にはまた巨砲(襄陽砲)を設置したので、砲撃を受けた箇所は粉砕された。城内は大混乱に陥った。徐達は使者を派遣して方策を尋ねたので、太祖は勅を発して労い、言った。「将軍の勇略は冠絶するものであるから、よく愚策を押し止め、群雄を削平することが出来るのだ。今、事に際して必ずや命を受けようとするのは、将軍の忠心の表れであるから、我は喜ばしく思う。ところで、将軍は外地に在っては、主君の制御を受けないと言う。軍中の差し迫った事態に関しては、将軍が便宜を図って処置すれば良く、我が統制する様なことでは無いのだ。」こうして平江路は打ち破られ、張士誠は捕らわれて応天府に護送され、勝利を得た兵は二十五万人を数えた。城がまさに陥落しようとしている時、徐達と常遇春は約束して言った。「軍の突入に際しては、我が軍は左側、公の軍は右側であるぞ。」また将兵に下令した。「民の財産を掠める者は死罪、民の家を壊す者は死罪、陣営より二十里離れた者は死罪とする。」既に軍は入城したが、呉の人々は以前の様に安堵して生活することが出来た。軍が帰還すると、信国公に封じられた。
 次いで征虜大将軍を拝命し、常遇春を副将軍として、歩兵・騎兵併せて二十五万人の軍を率いて、北進して中原を奪取しようとし、太祖は自ら竜江にて戦神を祀った。この当時、名将と呼ばれる者の中には、必ず徐達と常遇春があった。両者とも才幹と勇気は似通い、いずれも太祖の頼みとするところであった。常遇春は素早く敵地深く侵攻する一方、徐達は最も謀略に長けていた。常遇春は城邑を陥落させても凶行を無くすことは出来なかったが、徐達の通り過ぎる所に擾乱は無く、精兵と間諜を捕らえれば、恩義を与えて翻意させ、自分の為に登用した。その為、多くの者が大将軍の下に帰参した。ここに至って、太祖は諸将に対して、慎重に軍を制御して規律を厳守させ、戦闘に勝利して獲得することを体現できる将帥は、大将軍徐達を置いて他に無いと諭した。また徐達に対しては、侵攻の方策を説明し、まずは山東から始めるべきだと言った。軍が出撃すると、沂州に勝利し、守将の王宣を降伏させた。進撃して嶧州に勝利したところ、王宣が叛いたので、攻撃してこれを斬殺した。莒州・密州・海州といった諸州は悉く降伏した。そこで韓政に一軍を与えて黄河を抑えさせ、張興祖に東平路・済寧路を奪取させ、自らは大軍を率いて益都路を突破し、濰州・膠州といった諸州県を従えて陥落させた。済南路が降伏すると、軍を分けて登州・莱州を奪取した。こうして斉の地は悉く平定された。
 洪武元年、太祖が帝位に就くと、徐達を右丞相とした。皇太子を冊立し、徐達に太子少傅を兼任させた。副将軍常遇春が東昌路に勝利し、済南府に軍を集結させ、楽安県の叛徒を攻撃して斬殺した。軍を済寧府へ返し、水軍を率いて黄河を遡上し、汴梁路に向かうと、守将李克彝は逃走し、左君弼・竹貞〔一〕らは降伏した。遂に虎牢関より洛陽県に入り、元朝の部将脱因帖木児(トインテムル)と洛水の北側で激戦を繰り広げ、これを敗走させた。梁王阿魯温(アルウェン)は河南府路を以て降伏し、崇州・陝州・陳州・汝州といった諸州を攻略し、遂に潼関を突いた。李思斉は鳳翔府に、張思道は鄜城に遁走したので、遂に潼関入城を果たし、西進して華州に到達した。
 勝報が届くと、太祖は汴梁に行幸し、徐達を行在所に召し出して、酒を置いてこれを労い、かつ北伐の軍略を練った。徐達は言った。「大軍で斉・魯の地を平定し、河南・洛陽を掃討致しましたが、王保保(拡廓帖木児、ココテムル)は去就を決めかねて成り行きを見守っております。既に潼関を抑えましたところ、李思斉の一党は狼狽して西方へ遁走しました。元朝の応援は既に遮断されておりますので、この状況に乗じて元朝の都を直撃すれば、戦わずして事を成し遂げることが出来ましょう。」洪武帝(朱元璋)は言った。「良いだろう。」徐達はまた進言した。「元朝の都に勝利する一方で、その主が北方へ逃走した場合は、これを急追すべきでしょうか?」洪武帝は言った。「元朝の命運は衰退している、漸く自ら滅び去ろうとしているのだ、わざわざ戦禍を拡大して煩わされることもあるまい。塞外に出た後は、辺境を固守しておれば、その侵入を防ぐだけで良いのだ。」徐達は平伏して命を受けた。遂に副将軍(常遇春)と河陰県に軍を集結させ、支隊を派遣して経路を分けて河北の地を従え、立て続けに衛輝路・彰徳路・広平路を陥落させた。軍が臨清県に差し掛かると、傅友徳に陸路を開通させて歩兵・騎兵を通し、顧時は河を浚渫して水軍を通し、遂に北進した。常遇春は既に徳州に勝利し、軍を合流させて長蘆を奪取し、直沽を抑え、浮橋を造って軍を渡した。水陸同時に進軍し、河西務の戦いで大いに元軍を破り、進撃して通州に勝利した。順帝は后妃・皇太子を引き連れて北方へ逃れた。日を跨いで、徐達は斉化門に布陣し、濠を埋めて城壁を登った。監国淮王帖木児不花(テムルブカ)、左丞相慶童(チントン)、平章政事迭児必失(デルビシュ)・朴賽因不花〔二〕(朴サインブカ)、右丞張康伯、御史中丞満川(マンチュアン)らは降伏を潔しとしなかったので、これを斬殺したが、彼ら以外には一人も殺害しなかった。府庫を封印し、図書・宝物を記録し、指揮使張勝〔三〕に命じて兵千人を率いて宮殿の門を守らせ、宦者には宮人・妃・公主の護衛を兼ねて監視させ、兵卒による掠奪暴行を禁じた。官吏も民衆も安心して居住を続け、市場では安易に狼藉を働くことなど出来なかった。
 勝報が届くと、詔を下して元朝の都を北平府とし、六衛を置き、孫興祖らをこれに留守せしめ、徐達と常遇春には進撃して山西を奪取するよう命じた。常遇春はまず保定路・中山府・真定路を陥落させ、馮勝・湯和は懐慶路を陥落させ、太行山を越え、沢州・潞州を奪取したので、徐達は大軍を率いて後続した。当時、拡廓帖木児は軍を率いて雁門関に出撃し、居庸関を経由して北平府を攻撃しようとしていた。徐達はこれを察知すると、諸将と共に方策を練った。「拡廓帖木児が遠方に出征しているのであれば、太原は必ずがら空きである。北平府には孫都督が居るのだから、防御は事足りる。今、敵の不備に付け込んで、太原を直撃すれば、前進しても戦うことは出来ず、退いても守る所は無い、これを批亢擣虚(※2)の計と言うのだ。奴が西へ転進して自ら救援に戻ろうとするのであれば、これを捕らえてやるだけのことだ。」諸将は口を揃えて言った。「良いでしょう。」そこで軍を率いて太原へ向かった。拡廓帖木児は保安県に差し掛かったところで、果たして太原を救援する為に引き返すことにした。徐達は精兵を選抜してその陣営に夜襲を敢行した。拡廓帖木児は僅か十八騎を連れて遁走した。その軍は悉くが降伏し、遂に太原に勝利した。勝勢に乗じて大同路を掌中に収め、軍を分けて未だに降伏しない州県を従えた。こうして山西は悉く平定された。
 (洪武)二年に軍を率いて西進し黄河を渡った。鹿台に到達すると、張思道は遁走したので、遂に奉元路に勝利した。当時、常遇春は鳳翔府を陥落させ、李思斉は臨洮府に逃れていたので、徐達は諸将を一堂に会して次に向かうべき所を協議した。皆が言った。「張思道の才幹は李思斉ほどではありません、しかも慶陽府は臨洮府よりも攻め易いですから、まずは慶陽府を攻略致しましょう。」徐達は言った。「そうではない、慶陽城は堅固で兵も精鋭であるから、俄かに易々と攻め取ることが出来るものでは無い。臨洮府の北側は黄河・湟水に接し、西側には羌・戎族が控えている。これを得ることが出来れば、その人員で戦闘に備え、物資は軍糧の助けとなろう。大軍を以て圧迫すれば、李思斉は逃げることも出来ず、もはや手を束ねて縄に就くのみ。臨洮府に勝利すれば、隣郡などどうとでもなろう。」遂に隴山を越え、秦州に勝利し、伏羌県・寧遠県を陥落させ、鞏昌府に入ったので、右副将軍馮勝を派遣して臨洮府に迫らせたところ、果たして李思斉は戦わずして降伏した。軍を分けて蘭州に勝利し、豫王を襲撃して敗走させ、その部曲・輜重の悉くを接収した。帰還して蕭関に出撃し、平涼を陥落させた。張思道は寧夏府路に落ち延び、拡廓帖木児の捕らわれるところとなり、その弟の張良臣は慶陽府を以て降伏した。徐達は薛顕を派遣してこれを受け入れた。ところが張良臣は再び叛き、夜陰に乗じて薛顕を襲撃し手傷を負わせた。徐達は軍を率いてこれを包囲した。拡廓帖木児は部将を派遣して来援したが、反撃に遭って敗走し、遂に慶陽府は陥落した。張良臣親子は井戸に身を投げたが、すぐに引き上げられて斬殺された。こうして陝西の地は悉く平定された。徐達に詔を下して軍を帰還させ、手厚く白金・文綺を賜った。
 功績を評価して大々的に封爵を行おうとした矢先、偶々拡廓帖木児が蘭州を攻撃し、指揮使を殺害し(※3)、副将軍常遇春は既に没していたので、(洪武)三年の春に洪武帝は再び徐達を大将軍として、平章政事李文忠を副将軍とし、経路を分けて出兵させた。徐達は潼関より西進し、定西州を突き、拡廓帖木児を捕捉しようとした。李文忠は居庸関より東進し、沙漠地帯を踏破して、元朝の後継者を追走した。徐達が定西州〔四〕に到達すると、拡廓帖木児は沈児峪に退いたので、進軍してこれに迫った。地溝を隔てて砦を築き、一日に何度も交戦した。拡廓帖木児は精兵を派遣して間道より東南の砦を急襲した為に、左丞胡徳済が突然のことに呆然自失し、軍は恐慌状態に陥ったので、徐達は兵を率いて反撃しこれを退けた。胡徳済は胡大海の子であり、徐達は功臣の子息であることを理由に、これを拘束して京師に送還し、その下にあった指揮使ら数人を斬首して見せしめとした。翌日、軍列を整えて地溝を奪い、決死の戦いを繰り広げ、大いに拡廓帖木児の兵を打ち破った。郯王・文済王〔五〕及び国公・平章政事以下文武官属千八百六十人余り、将兵八万四千五百人余りを捕らえ、接収した馬・駱駝・雑畜の類は統計できない程であった。拡廓帖木児は僅かに妻子数人だけを連れて和林(カラコルム)に遁走した。胡徳済が京師に到着すると、洪武帝はこれを釈放し、書状を送って徐達を諭した。「将軍は衛青が蘇建を斬らなかったという故事(※4)を知るのみで、穰苴の荘賈に対する処遇(※5)に思いを致すことは出来なかったのか?将軍がこれを誅殺すれば、それまでのことではないか。今、朝廷で討議させているところではあるが、我はその信州路・諸曁州での功績を考えると、誅殺とするには忍びない。従って今より、将軍においては一時凌ぎの策を弄することの無い様にせよ。」
 徐達は既に拡廓帖木児を破り、徽州南方の一百八渡より略陽県に到達し、沔州に勝利し、連雲桟に入り、興元路を攻撃し、これを奪取した。一方、副将軍李文忠もまた応昌路に勝利し、元朝の嫡孫や妃・公主・将軍・丞相を捕らえた。勝報がほぼ同時に届くと、詔を下して整然と京師に帰還させた。洪武帝は竜江に出迎えて労った。そして詔を下して大々的に功臣を封爵し、徐達には開国輔運推誠宣力武臣、特進光禄大夫・左柱国・太傅・中書右丞相参軍国事を授け、魏国公に改封し、食禄五千石とし、世券を与えた。翌年に盛熙らを伴って北平府に赴き軍馬を操練し、城郭を修築し、燕山以北の軍民を周辺の諸衛府に振り分け、二百五十四ヶ所の屯田を設置し、千三百頃余りの田地を開墾した。その年の冬に召還された。
 (洪武)五年に再び大軍を発して拡廓帖木児を討伐した。徐達は征虜大将軍として中路を進み、左副将軍李文忠は東路を進み、征西将軍馮勝は西路を進み、それぞれ五万騎を率いて塞外へ出撃した。徐達は都督藍玉を派遣して土剌河(トゥール河)の戦いで拡廓帖木児を破った。拡廓帖木児と賀宗哲は軍を合流させて全力で抗戦したので、徐達は不利な戦闘を強いられ、死者は数万人に達した。洪武帝は徐達の功績の大なることを鑑み、不問とした。同じ頃、李文忠の軍もまた苦戦を強いられ、撤退した。ただ馮勝だけが西涼州に到達して全戦全勝したが、接収した駱駝を隠匿した罪により、表彰されなかったことについては、李文忠伝・馮勝伝に詳しい。翌年、徐達は再び諸将を率いて辺境に赴き、答剌海(トラハイ)の戦いで敵を破り、帰還して北平府に駐留し、留まること三年にして帰京した。(洪武)十四年、再び湯和らを率いて乃児不花(ナイルブカ)を討伐した。出征を終えると、再び鎮に帰還した。
 毎年の様に春先に出陣し、冬の終わりには召還されることが常となった。帰還すると将軍の印綬を返却し、休暇を賜り、宴を設ければ共に喜んで酒を飲み、さながら市井の兄弟の様に振る舞うこともあったが、徐達は徐々に恭しく慎むようになっていった。かつて洪武帝は落ち着き払って言ったことがある。「徐兄さんの功績は大きいのに、まだこんな所に住んでいるなんて、旧邸をあげるとしよう。」旧邸とは、太祖が呉王であった頃の邸宅である。徐達は固辞した。ある日、洪武帝が徐達と屋敷で痛飲して泥酔し、しかも覆い被さって、一緒に倒れて寝てしまったことがある。徐達は目が覚めると、驚いて下段に降り、平伏して死罪を請うた。洪武帝はこれを見て面白がった。そこで役人に命じて旧邸を立派な邸宅に改築させ、その表札に「大功」の二字を掲げさせた。胡惟庸が丞相になると、徐達に取り入ろうとしたが、徐達はその人柄を見下していたので、反応は思わしくなく、そこで徐達の門番である福寿に賄賂を贈って便宜を図ってもらおうとした。福寿はこれを報告し、徐達は問題にしなかったが、しばしば洪武帝に対して胡惟庸が丞相の任に相応しくないと言う様になった。果たして後に胡惟庸は粛清され、洪武帝は更に徐達を重用した。(洪武)十七年、太陰が上将を覆い隠したので(※6)、洪武帝は心中穏やかでは無かった。徐達は北平府にあって背中に腫瘍を患い、やや平復したので、洪武帝は徐達の長男である徐輝祖を派遣して勅をもたらして労い、次いで召還させた。翌年二月、病状が悪化し、遂に没した。五十四歳であった。洪武帝は政務を顧みず、葬儀に際しては悲嘆して止むことは無かった。中山王に追封され、武寧と諡され、三代まで王爵を贈られた。鍾山の北側に埋葬され、神道碑文を建立された。太廟に祀られ、功臣廟には肖像が奉られ、その位はいずれも第一等とされた。
 徐達は簡潔かつ正確な発言を心掛けた。軍中にあっては、同じ命令は二度も発令しなかった。諸将は凛然として指示に従い、洪武帝の面前では恭しく謹んで妄りに言葉を発することは無かった。よく慰撫し、下位の者と苦楽を共にしたので、軍中に恩義を感じない者や死を恐れる者は居らず、故に向かう所は必ず勝利を収めた。最も厳格に軍を治め、平定した大都市は二つ、省治は三つ、郡邑は百を数え、村々は平安として、民衆が軍に悩まされることは無かった。帰朝の日には、車を舎に就け、儒生をもてなし、一日中談義に耽り、ゆったりと落ち着いて過ごした。嘗て洪武帝はこれを賞賛して言ったことがある。「命を受けて出征すれば、成功して帰って来る、自らを顕示せず自らの為に虚言を弄さない、婦女を好まない、財宝を取ることをしない、公正にして無疵、日月の様に隈なく明らかであるのは、ただ大将軍一人だけである。」
 男子は徐輝祖・徐添福・徐膺緒・徐増寿の四人が居た。長女は文皇帝后となり、次女は代王妃となり、三女は安王妃となった。

(徐輝祖付伝に続く)
[PR]
by su_shan | 2016-08-10 06:03 | 『明史』列伝第十三