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元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

徐達(続)

(文字数制限に抵触する為、本伝は二頁に分けてお送りしております)

 徐輝祖、最初の名を徐允恭と言い、八尺五寸の長身で、才幹があり、父の勲功によって署左軍都督府事となった。徐達が斃れると、爵位を継承した。皇太孫(朱允炆)の諱を避け、今の名を賜った。しばしば陝西・北平・山東・河南に出向いて練兵を行った。元朝の部将であった阿魯帖木児(アルクテムル)が燕王府に所属していたが、叛意を持っていたので、これを捕らえて誅殺した。帰還して中軍都督府事を領した。建文年間の初め、太子太傅を加官された。燕王(朱棣)の子の朱高煦は、徐輝祖の甥である。燕王が挙兵すると、朱高煦は京師に拘留されていたが、徐輝祖の良馬を盗んで逃げ出した。徐輝祖は驚愕し、追っ手を遣わしたが、捕捉することは出来なかったので、建文帝(朱允炆)に報告すると、却って信頼を得ることになった。しばらくして、軍を率いて山東を救援するよう命じられ、斉眉山の戦いで燕軍を破った。燕の人は徐輝祖を大いに恐れた。俄かに詔によって召還されたので、諸将は孤立していき、遂に相次いで敗北を喫した。燕軍が長江を渡河するに及んで、徐輝祖は尚も軍を率いて奮戦していた。成祖(朱棣)が京師に入城すると、徐輝祖はただ父の祠を守って出迎えることは無かった。こうして獄吏に下されて罪状の供述書が作成されたが、父が建国の元勲であることと世券の中に死罪を免ずる文言があることが記されていた。成祖は激怒し、徐輝祖の爵位を剥奪して私邸に幽閉した。永楽五年に没した。万暦年間に建文帝時代の忠臣が記録された際には、南都の廟堂に祀られ、徐輝祖がその筆頭とされた。後に太師を追贈され、忠貞と諡された。
 徐輝祖の死の翌月、成祖は群臣に詔を下して言った。「徐輝祖と斉泰・黄子澄の一党は共謀して社稷を危めた。朕は中山王に巨大な功績があることを思い、曲げて徐輝祖を赦したのだ。今、徐輝祖は没したが、中山王の後嗣を絶やしてはならない。」こうして徐輝祖の長男の徐欽に命じて継承させた。永楽九年、徐欽と成国公朱勇・定国公徐景昌・永康侯徐忠らは、共に悪事を働いたとして六科給事中の弾劾する所となった。永楽帝(朱棣)は朱勇らを許したが、徐欽には帰って勉学に励むよう命じた。永楽十九年に来朝したが、突然に辞去してしまった。永楽帝は怒り、爵位を剥奪して庶人に落とした。仁宗(朱高熾)が即位すると、元の爵位に戻され、子の徐顕宗・徐承宗に継承された。徐承宗は、天順年間の初め、南京守備となり、中軍都督府事を兼領し、公平かつ清廉に兵卒に接したので賢人の名声を得た。没すると、子の徐俌が継承した。徐俌は字を公輔と言い、慎重な性格で、立ち居振る舞いが上手かった。南京守備は最も充実していた時期であったが、懐柔伯施鑑が協同守備として徐俌の上位にあった。徐俌にはそれが不満であり、朝廷に上言したところ、爵位に基づいて序列を決定するよう詔が下されたので、制令となった。弘治十二年、給事中胡易・御史胡献が災害に関して意見したところ獄に下された為、徐俌は上章してこれを救い出した。正徳年間には、上書して皇帝の狩り遊びを諌めたが、その言葉は切実かつ実直であった。嘗て無錫州の民と田地の所有を巡って争った時、(宦官として権勢のあった)劉瑾に贈賄したので、当時は誹謗されることになった。徐俌は爵位を継承してから五十二年で没し、太傅を送られ、荘靖と諡された。孫の徐鵬挙が継承したが、徐鵬挙は妾を寵愛し、妻を差し置いて夫人にしてしまい、その子を嫡子に立てようとした為に、罪を得て食禄を剥奪された。子の徐邦瑞・孫の徐維志が継承し、曽孫の徐弘基になった。徐承宗より徐弘基に至るまで六世代、みな南京を守備し、都督府事を兼領した。徐弘基は累進して太傅を加官され、没し、荘武と諡され、子の徐文爵が継承した。明王朝が滅亡すると、爵位は剥奪された。
 徐増寿は父の登用によって左都督に至った。建文帝は燕王の謀叛を疑い、嘗て徐増寿に質問したことがあった。徐増寿は平伏して言った。「燕王殿下は先帝陛下と同じ気質をお持ちでいらっしゃいますが、既にして富貴を極めておられますので、どうして謀叛などを起こす様なことがございましょうか。」燕王が挙兵するに及んで、徐増寿は何度も京師の内情を燕王に伝えていた。建文帝はこれを悟ったが、特に追及は行わなかった。燕軍が長江を渡河すると、建文帝は徐増寿を召し出して詰問したところ、徐増寿は何も答えなかったので、殿中にて剣を手にこれを斬り捨ててしまった。燕王がやって来ると、その屍を撫でて慟哭した。燕王は即位すると、徐増寿を武陽侯に追封し、忠愍と諡した。次いで定国公に進封し、食禄二千五百石とした。その子の徐景昌が継承した。徐景昌は驕慢な振る舞いを続けた為に、しばしば弾劾されたが、成祖はこれを許した。成祖が崩御すると、徐景昌は自宅で喪に服して葬儀に参列しなかったので、冠服食禄を剥奪されたが、後に返還された。三代継承して玄孫の徐光祚は、累進して軍府の長官となり、太師を加官され、継承して四十五年で没し、栄僖と諡された。子が継承して孫の徐文璧に至り、万暦年間に後軍都督府事を領した。徐文璧は小心な性格ではあったが万暦帝に対しては親に接する様に謹み畏れ敬い、しばしば万暦帝の代理として郊天の儀式を執り行い、太師を加官された。何度も上書して立太子を行うこと、礦税を取り止めること、獄中の囚人を釈放することを請願した。爵位を継承してから三十五年で没し、康恵と諡された。更に継承は続いて曽孫の徐允禎の代に至って、崇禎年間の末に流賊の殺害する所となった。
 洪武帝時代の功臣たちの中で、ただ徐達の子孫だけが二系統の公爵位を有し、両京に分かれ住んだ。魏国公の後裔からは賢人が数多く輩出され、何度も朝廷から恩寵を受けたが、定国公の家系は常に倍にして恩義に報いた。嘉靖年間に詔を下して恩沢世封の善悪を判断させた際に、定国公の功績を評価すべきでは無いと言う者があったが、結局のところ爵位を剥奪されずに済んだのであった。
 徐添福は早逝した。徐膺緒は、尚宝司卿を授かり、中軍都督府都督僉事に累進し、朝廷に参内して、世襲指揮使となった。

【注釈】
(※1)五太子、『太祖実録』巻二十一、丙午九月戊寅条には、「五太子は、張士誠の養子である。元の姓は梁氏といい、身長は低いが精悍であり、地面から一丈余り跳び上がることができ、また潜水を得意とした。」とある。
(※2)批亢擣虚、批は打つ、亢は咽喉、擣は突く、虚は空虚、すなわち要害の地の不意を突くこと。『史記』巻六十五、孫子呉起列伝第五には、「孫子は言った。『そもそも、絡まり縺れている物を解くのに拳骨を用いることは無く、格闘している者を救う為に割って入ったりしない、咽喉を打って不意を突けば、形が整い勢いが削がれ、自然と解けていくものです。』」とある。
(※3)指揮使を殺害し、当時蘭州に鎮守していたのは蘭州衛指揮使張温であるが、ここで殺害された指揮使とは張温では無く鞏昌府守将の鷹揚衛指揮使于光である。『太祖実録』巻四十七、洪武二年十二月庚寅条に、「元朝の部将王保保は内偵によって大将軍(徐達)が南方へ帰還したことを知り、軍を以て蘭州を襲撃し、忽ちにして城下に到達した。指揮使張温は将校らを一堂に会して言った。『敵軍は多く、我が軍は少ないとは言うが、敵は遠方より到来しているので、未だに我が軍の実際の兵数を知らない。薄暮に乗じて奇襲し、その先鋒を挫き、連中が撤退しなければ、守りを固めて増援を待つのだ。』そこで軍列を整えて出撃したところ、王保保の軍は少ししか後退しなかった。夜明け頃に張温は軍を集結させて入城し、遂に敵軍は城を幾重にも包囲した。張温は堅守して出撃することは無かった。この時、鷹揚衛指揮使于光は鞏昌府を守っており、軍を率いて来援したが、蘭州の馬蘭灘に差し掛かったところで突然王保保の軍と遭遇し、敗北して捕縛された。蘭州城下に連行され、張将軍に投降を呼び掛けさせられた。于光は大声で叫んだ。『我は不幸にも捕らわれたが、公らは堅守なされよ、徐総兵が大軍を率いて来て下さるぞ!』敵は怒って于光の頬を殴り、遂に殺害してしまった。城中の者は于光の言葉を聞くと、ますます防御を固めた。王保保は攻城を不利と悟り、また大軍が到着することを恐れ、撤退した。」とある。張温については本書巻百三十二に、于光については本書巻百三十三にそれぞれ伝があるので、参照されたい。なお、本書巻四十二、地理志三に拠ると、蘭州は洪武二年九月に県に降格されているので、ここでは「蘭県」とするのが正しい。
(※4)衛青が蘇建を斬らなかったという故事、『史記』巻百十一、衛将軍驃騎列伝には、「その翌年の春、大将軍衛青は定襄に出征し、…衛尉蘇建は右将軍となり、…右将軍蘇建・前将軍趙信は軍を合流させて三千騎余りとなったが、単独で単于の兵と遭遇し、交戦すること一日余りにして、漢軍は全滅した。前将軍は胡人であり、投降して翕侯となったが、状況は急変し、匈奴はこれを勧誘したので、遂にその残兵八百を率いて単于に投降した。右将軍蘇建はその軍を全て失い、一人逃げ延びて、大将軍の下へ帰還した。大将軍はその罪を正閎・長史安・議郎周霸らに質問した。『蘇建をどうするべきか?』周霸が答えた。『大将軍はこれまで裨将を斬ったことはございません。今、蘇建は軍を棄てましたので、斬ることで将軍の権威を明らかにすることが出来るでしょう。』正閎・長史安が言った。『そうではない。兵法に小敵が強気に出れば、大敵の虜になると言うではないか。今、蘇建は数千の兵を以て単于の数万に当たり、一日余り奮戦して、軍は潰えたのに、敢えて二心を持たず、自ら戻って来ました。自ら帰って来たのに斬られたとあれば、これは後に反感を招くことになるでしょう。斬るべきではありません。』大将軍は言った。『…細かい事は天子にお任せしよう、天子自らこれを裁けば、人は専権とは見做さないであろう、そうではないか?』遂に蘇建を捕らえて行在所へ送還した。」とある。この後、蘇建は庶人に落とされるが、後に代郡太守となった。胡徳済もまた都指揮使に復帰し、陝西に鎮守している。
(※5)穰苴の荘賈に対する処遇、『史記』巻六十四、司馬穰苴列伝には、「…穰苴は荘賈と約束して言った。『明日の正午に軍門で合流しましょう。』…正午になっても、荘賈は現れなかった。…夕暮れ時になって、荘賈が現れた。穰苴は言った。『何故遅れたのか?』荘賈は謝って言った。『親戚や高官が宴を設けてくれたので、遅れてしまったのだ。』穰苴は言った。『将軍は一度命を受ければ家族のことを忘れ、軍中にあっては親戚を忘れ、戦陣にあっては自らの身を忘れると言う。今、敵は我が国深くまで侵攻し、兵卒は前線で夜露に身を曝し、我が君は不安で眠れず、食事の味も分からず、百姓の民の命は全て我が君に懸かっていると言うのに、宴とはどういうことか!』軍正を呼んで質問した。『軍法では、期日に遅れたものはどうなるか?』答えて言った。『斬死です。』荘賈は恐怖し、人を送って景公に報せ、助けを求めた。使者が戻って来るよりも早く、荘賈を斬って三軍に示した。三軍の兵はみな戦慄した。しばらくして、景公の使者が荘賈を釈放させようと軍中に駆け込んで来た。穰苴は言った。『将軍は軍中にあっては、君令であっても受けないことがあるのだ。』…」とある。
(※6)太陰が上将を覆い隠したので、太陰は月、上将は星座の文昌六星の一つ。『晋書』巻十一、天文志上に、「文昌六星は北斗の前方にあり、天の六府であり、主に天道を集計するものである。一つ目を上将と言い、大将軍・建威武、・・・」とあり、太陰が上将を覆い隠すとは、今まさに大将軍徐達の命数が尽きようとしていることを暗示する表現。

【校勘記】
〔一〕竹貞、「竹昌」とすべきである。『太祖実録』巻二十七、洪武元年三月己亥条には、「大将軍徐達が陳橋に到達すると、左君弼・竹昌が迎え入れて降伏した。」とあり、同巻四月壬寅条には、「大将軍徐達は千戸王鎮を派遣して左君弼・竹昌・竹君祥らを京師に護送させた。」とあることを考えると、洪武元年三月に汴梁路の北東にある陳橋で徐達を迎え入れた元朝の部将は左君弼・竹昌らであり、「左君弼・竹貞ら」では無い。元朝の平章政事竹貞は洪武三年二月に察罕脳児(チャガンノール)で李文忠に捕縛されていることが、本書巻二、太祖本紀・『太祖実録』巻四十九・『国榷』巻四、四百九頁によって分かる。伝の文章が「竹貞」としているのは誤りである。また本書巻百三十、韓政伝の「竹貞」も、同様に「竹昌」とすべきである。
〔二〕朴賽因不花、朴は元は「樸」で、間違いである。「朴」が高麗の姓であることを考えると、朴賽因不花は高麗人であり、『元史』巻百九十六に伝もあるので、字は正に「朴」とすべきであるから、改めた。
〔三〕張勝、『太祖実録』巻三十、洪武元年八月庚午条・巻百七十一、洪武十八年二月己未条はいずれも「張煥」としている。
〔四〕定西州、元は「安定」となっており、本書巻百二十六、鄧愈伝・『明史稿』伝十一、徐達伝・『太祖実録』巻百七十一、洪武十八年二月己未条に基づき改めた。
〔五〕文済王、元は「文」の字が脱落しており、『太祖実録』巻百七十一、洪武十八年二月己未条に基づいて補った。『元史』巻百八、諸王表に「済王」、また「文済王」もあるが、済王は既に皇慶元年に呉王に改封されている為、洪武三年に郯王と同時に捕らえられる訳にはいかない。そして文済王は郯王と同時代の人である。
by su_shan | 2016-08-10 17:21 | 『明史』列伝第十三