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by すーさん

常遇春

『明史』巻一百二十五、列伝第十三

 常遇春、字を伯仁、懐遠県の人。容貌は非常に立派で、膂力は人並み外れて強く、腕は猿の様に長く弓射を得意とした。当初、劉聚に従って盗賊となったが、劉聚が大成しそうに無いことを察したので、和陽に於いて太祖(朱元璋)に帰順した。これより少し前、常遇春が困窮して田畑の中で寝転がっていると、夢の中に鎧を着て盾を持った神が現れて言った。「起きよ、起きよ、主君のお通りである。」驚いて起き上がると、ちょうど太祖が通り掛かるところであったので、迎えて拝謁した。時に至正十五年四月のことである。特に何もすることが無かったので、自らを先鋒とするよう申し出た。太祖は言った。「お前は腹を空かせて飯に有り付きに来ただけであろう、何故お前などを置いておかなくてはならんのだ。」常遇春は尚も請願した。太祖は言った。「では長江を渡るまで待つのだ、我の為に働くのはそれからでも遅くはあるまい。」牛渚磯に迫るに及んで、元軍は磯上に兵を並べ、軍船は岸より三丈余り隔てていたので、上陸出来そうに無かった。常遇春が小船に飛び乗って現れたので、太祖はこれを差し招いて進ませた。常遇春は声援に応え、矛を振るって前進した。敵がその矛に接する程近づくと、勢いを付けて岸に飛び上がり、大声で叫んで気勢を上げたので、元軍は開く様に後ずさった。諸将はこれに乗じ、遂に采石を突破し、進撃して太平路を奪取した。総管府先鋒を授かり、総管都督〔一〕に昇進した。
 当時、将兵の妻子や輜重は全て和州に残していてが、元朝の中丞蛮子海牙(マンジハイヤ)が再び水軍を用いて襲撃し采石を占拠したので、連絡が遮断されてしまった。太祖は自らこれを攻撃しようと考え、常遇春を先行させて多くの囮の兵を置き、敵軍を分散させた。戦闘が始まると、常遇春は軽船を操り、蛮子海牙の旗艦に衝突させて真っ二つに折った。左右より挟撃し、大いにこれを破り、その船団の悉くを鹵獲した。長江の連絡は再び通じるようになった。次いで溧陽州鎮守を命じられ、集慶路攻略に従軍し、最大の功績を挙げた。元帥徐達に従って鎮江路を奪取し、進撃して常州路を奪取した。呉軍(張士誠)が牛塘に於いて徐達を包囲すると、常遇春が救援に向かい、包囲を破り、その部将を捕らえたので、統軍大元帥に昇進した。常州路に勝利すると、中翼大元帥に遷った。徐達に従って寧国路を攻撃した時、流矢に当たったが、傷を包んで戦い、これに勝利した。これとは別に馬駝沙を奪取し、水軍を用いて池州路を攻撃し、これを陥落させ、江南行中書省都督馬歩水軍大元帥に昇進した。婺州路攻略に従軍し、江南行枢密院同僉に転出し、婺州を鎮守した。軍を移動させて衢州路を包囲した時は、奇襲部隊を用いて南門の甕城に突入させ、その戦備を破壊し、これを急襲して遂に陥落させ、精兵一万人を得て、江南行枢密院僉事に昇進した。杭州路を攻撃したが、戦況は芳しくなかったので、応天府に召還された。徐達に従って趙普勝の水寨を突破し、池州府防衛に従軍し、漢軍(陳友諒)を九華山の麓で大いに破ったが、これについては徐達伝に詳しく記載されている。
 陳友諒が竜湾に迫ると、常遇春は五翼元帥府の軍を用いて伏兵を置き、大いにこれを破り、遂に太平府を回復し、最大の功績を挙げた。太祖は江州路に至るまで陳友諒を追撃し、常遇春に留守を命じたが、法を厳格に運用したので、軍民は粛然として敢えて禁を破る者は居らず、江南行中書省参知政事に昇進した。安慶路奪取に従軍した。漢軍が長江より遊撃したので、常遇春がこれを撃退したところ、みな反転して逃げ去ったので、勝勢に乗じて江州路を奪取した。帰還して竜湾を鎮守し、長興州を救援し、呉軍五千人余りを捕殺し、その部将李伯昇は包囲を解いて遁走した。命を受けて安慶城を修築した。
 これに先んじて、太祖麾下の将帥で最も名声のある人物は、平章政事邵栄・右丞徐達と常遇春の三人であった。邵栄は最も古くからの宿将であり戦が上手かったが、ここに至って驕慢になって二心を抱き、参知政事趙継祖と共に兵を伏せて謀叛を企んでいた。事態が発覚しても、太祖は邵栄を死から救いたいと考えていたが、常遇春が前に進み出て次の様に言い放った。「臣下である者が叛逆したのですぞ、これを許されるのであれば、臣は道義として共に生きることなど出来ません。」太祖は邵栄と酒を交わし、涙を流しながらこれを誅殺し、これ以降は常遇春を偏重する様になった。
 池州府の守将羅友賢が神山寨〔二〕を占拠し、張士誠と通謀したので、常遇春はこれを撃破して斬殺した。安豊路救援に従軍した。この時、呂珍が既にその城を陥落させ、劉福通を殺害していたが、大軍が到来することを聞き付けると、軍を集結させて徹底的に抗戦した。太祖は左右に展開する軍を全て破り、常遇春はその陣営に側面から攻撃を加え、三戦して三度ともこれを破り、捕獲した兵馬は数え切れない程であった。遂に徐達に従って廬州路を包囲した。間も無く城が陥落しようとしていた時、陳友諒が洪都府を包囲した為、召還された。軍を合流させて漢を討伐することになり、彭蠡湖(鄱陽湖)の康郎山付近で両軍は激突した。漢軍の船は巨大で、しかも上流を位置していた為に、その攻勢は強烈であった。常遇春は諸将と共に激戦を繰り広げ、その怒声は天地を震わせたので、一人で百人の敵兵を相手取ることも無いでは無かった。陳友諒の驍将張定辺が太祖の旗艦に肉薄した時、船が浅瀬に乗り上げ、危険な状態になった。常遇春は張定辺を射殺し、太祖の旗艦は離礁することが出来たが、今度は常遇春の船が浅瀬に乗り上げてしまった。たまたま放棄された船が流されて来て、常遇春の船に接触したので離脱することが出来た。転戦すること三日、火を放って漢軍の船団を焼き払った為に、湖水は真っ赤に染まり、陳友諒は再び戦おうとはしなかった。諸将は漢軍は依然として強大であったので、これを放っておいて去るに任せようとしたが、常遇春は一人無言のままであった。湖口に達した時、諸将は船を東に向けて流れに沿って下ろうとしたが、太祖は上流を抑えるよう命じた。常遇春は長江を遡上し、諸将もこれに従った。陳友諒は追い詰められ、百艘ばかりで突破を図った。諸将はこれを迎え撃ち、漢軍は遂に壊滅し、陳友諒は敗死した。軍が帰還すると、最大の勲功として、大量の金帛・田地を賜った。武昌路包囲に従軍し、太祖が応天府に帰還すると、常遇春をそのまま留めて軍を監督させこれを圧迫した。
 翌年、太祖が呉王に即位すると、常遇春を平章政事に昇進させた。太祖は再び武昌路に親征した。漢の丞相張必先が岳州路より来援したが、常遇春はその軍が未だに集結していない隙に乗じて急襲し、これを捕らえた。これによって城内の士気は衰え、陳理は遂に降伏したので、荊・湖の地の悉くを奪取した。左相国徐達に従って廬州路を奪取し、それとは別に軍を率いて臨江路の沙坑・麻嶺・牛陂諸寨を攻略し、自称知州の鄧克明を捕らえ、遂に吉安路を陥落させた。贛州路を包囲したが、熊天瑞が堅守していたので容易に陥落しなかった。太祖は使者を派遣して常遇春を諭した。「城に勝っても大勢を殺すことは無い。その地を得たところで、民が居なければ何の益があると言うのだ?」そこで常遇春は濠を掘って防柵を立て、これを圧迫した。兵を留めること六ヶ月、熊天瑞は力尽きて降伏したが、果たして常遇春は殺さなかった。太祖は非常に喜び、書状を賜って努力を褒め称えた。常遇春は遂に軍の威勢に頼って南雄路・韶州路を諭して降伏させ、帰還して安陸府・襄陽路を平定した。また徐達に従って泰州に勝利し、張士誠の援軍を破った時は、水軍を動員して海安壩に壁を作ってこれを遮った。
 その年の秋に副将軍を拝命し、呉を討伐した。太湖に於いて、毘山に於いて、三里橋に於いて呉軍を破り、遂に湖州路に迫った。張士誠は軍を派遣して来援させ、旧館に駐留させ、大軍を後続させた。常遇春は奇襲部隊を率いて大全港より東阡に布陣し、更にその背後に出現した。敵軍は精鋭を繰り出して接戦となったが、奮戦してこれを撃破した。平望に於いてその右丞徐義を襲撃した時は、その赤竜船の悉くを焼き払い、再びこれを烏鎮に於いて破り、北方の昇山に追い詰め、その水陸両寨を破り、旧館の兵の悉くを捕虜としたので、遂に湖州路は陥落した。進撃して平江路を包囲し、虎丘に布陣した。張士誠は密かに軍を出して常遇春を突いたので、常遇春は北濠にて戦い、これを破り、張士誠を捕らえる寸前まで迫った。しばらくして、諸将は葑門を破り、常遇春もまた閶門を破って突入した為に、呉の地は平定された。中書平章軍国重事に昇進し、鄂国公に封じられた。
 再び副将軍を拝命し、大将軍徐達と共に兵を率いて北征を行った。洪武帝(朱元璋)は自ら諭して言った。「百万の軍勢であっても、鋭鋒を挫き陣営を陥れることに関しては、副将軍に敵うものでは無い。戦えないことを心配するのでは無く、軽々しく戦うことだけを心配せよ。その身は大将となったのであるから、ただ小敵と角を突き合わせることを好むというのは、とてもでは無いが望む所では無い。」常遇春は拝謝した。既に北伐は実行に移され、常遇春は太子少保を兼ねて、山東諸郡を陥落させ、汴梁路を奪取し、河南に進攻した。元軍五万が洛水の北側に布陣した。常遇春はその陣営を単騎で突き、敵兵二十騎余りを纏めて槊で貫いた。常遇春は矢を一閃してその先鋒を射殺し、大声で叫んで突入し、麾下の精兵がこれに続いた。敵は潰走したので、五十里余りにわたって追撃した。梁王阿魯温(アルウェン)を降伏させ、河南の郡邑を次々と陥落させた。汴梁に於いて洪武帝に謁見し、遂に大将軍(徐達)と共に河北の諸郡を陥落させた。先行して徳州を奪取し、水軍を率いて河に沿って進撃し、元軍を河西務の戦いで破り、通州に勝利し、遂に元朝の都に入城した。これとは別に保定路・河間路・真定路を陥落させた。
 大将軍と共に太原を攻めた時、拡廓帖木児(ココテムル)が来援した。常遇春は徐達に言った。「我が方の騎兵は集結しているが、歩兵は未だに到着しておらず、急いで戦えば必ず多くの犠牲が出るから、これを夜襲して目的を達成するべきだ。」徐達は言った。「良いだろう。」たまたま拡廓帖木児の部将豁鼻馬(ファビマ)が投降を約束して来たので、更に内応を要請し、精騎を選抜して夜になると口に枚を含んで襲撃に向かった。拡廓帖木児は火を灯して軍書に目を通しているところであったので、突然のことに対応出来ず、靴も履かずに、痩せ馬に乗って、十八騎を連れて大同路へ敗走した。豁鼻馬は降伏し、精兵四万を得て、遂に太原に勝利した。常遇春は拡廓帖木児を追撃して忻州に至り、帰還した。詔を下して常遇春を左副将軍とし、右副将軍馮勝の上位に置いた。北進して大同路を奪取し、転じて河東を従え、奉元路を陥落させ、馮勝の軍と合流し、西進して鳳翔府を突破した。
 たまたま元朝の部将也速(イェス)が通州を攻撃したので、詔を下して常遇春を帰還させて備え、平章政事李文忠にこれを補佐させ、歩兵・騎兵九万を率いて北平府を発ち、会州を経由して、錦州の戦いで敵将江文清〔三〕を破り、全寧路の戦いで也速を破った。大興州に進攻した時は、千騎ずつ分散させて八ヶ所に伏兵を置いた。守将は夜間に遁走したが、これの悉くを捕らえ、遂に開平県を突破した。元朝の皇帝は北方へ逃れたので、数百里を追撃した。その宗王慶生〔四〕(チンシャン)及び平章政事鼎住ら将兵一万人、車一万台、馬三千頭、牛五万頭を捕らえ、子女・宝物・貨幣も同様であった。軍を帰還させる途中、柳河川に差し掛かった所で急病に倒れた時、僅か四十歳であった。太祖はこれを聞くと、驚愕して悲嘆に暮れた。遺体が竜江に到着すると、自ら出向いて祀り、礼官に命じて天子が大臣に哀礼を発する為の議論を行わせた。宋王朝の太宗が韓王趙普を弔った故事を援用することが提案された。決定して言った。「そうしよう。」鍾山の麓に葬られることを許され、明器九十個を墓中に副葬された。翊運推誠宣徳靖遠功臣・開府儀同三司・上柱国・太保・中書右丞相を贈られ、開平王を追封され、忠武と諡された。太廟に祀られ、功臣廟には肖像が奉られ、その位はいずれも第二等とされた。
 常遇春は勇猛果敢ではあったが、よく兵卒を扱い、鋭鋒を挫いて敵陣を陥れること、未だ嘗て敗北したことは無かった。経書や史書を習ったことは無かったが、その用兵は古来からの戦理に適っていた。大将軍徐達より二歳年上であったが、数々の征伐に従い、約束を守ってよく謹み、一時は名将と言えば徐・常とされた。嘗て常遇春は自らを十万の軍に匹敵すると言い、天下を自由気ままに駆け巡ったので、軍中は「常十万」とも呼んだのである。
 常遇春の従弟の常栄は、功績を重ねて指揮同知となり、李文忠の塞外遠征に従軍したが、臚朐河(ケルレン河)で戦死した。常遇春には常茂・常昇の二子があった。

 常茂は常遇春の勲功によって鄭国公に封じられ、食禄二千石とされ、世券を与えられたが、年少であったので政軍事を習わなかった。洪武二十年に大将軍馮勝に従って金山の納哈出(ナガチュ)を討伐するよう命じられた。馮勝は常茂の岳父である。常茂は馮勝との約束を守らない事が多く、馮勝はしばしばこれを叱責した。常茂は傲慢に応対したので、馮勝はますます怒ったが、未だに処分は行われなかった。たまたま納哈出が投降を申し出ると、右副将軍藍玉の陣営を訪ねたので酒宴となったが、藍玉と互いに見えないところに来ると、納哈出は持っていた酒を地面に撒いて、下を向いて文句を言い始めた。常茂も列席していたが、麾下に趙指揮という者がおり、蒙古語を理解していたので、常茂に密告した。「納哈出は逃げようとしています。」常茂は不意に立ち上って、前に進み出て納哈出を殴打した。納哈出は大いに驚き、馬に飛び乗ろうとした。常茂は刀を抜き放ち、その肘を斬って負傷させた。納哈出の配下がこれを聞き付けると、驚いて逃げ去る者まで現れた。この為に常茂への怒りは心頭に達し、その罪状を粉飾し、常茂が発狂したと上奏したので、遂に拘束されて京師に送還されてしまった。常茂もまた馮勝が数多くの不祥事を働いていると発言した。洪武帝は馮勝の総兵印を取り上げる一方、常茂を竜州に配流し、(洪武)二十四年に没した。当初、竜州土官の趙貼堅が没すると、甥の趙宗寿が襲職した。ところが趙貼堅の妻の黄氏は自分の娘を偏愛し、常茂に妾として与え、竜州の政治を思い通りに取り仕切っていた。常茂が没すると、黄氏と趙宗寿は州印を争い、互いに相手の悪事を告発した。ある者が流言を撒き散らし、常茂は実際は死んでいない、趙宗寿はその真相を知っていると言った。洪武帝は怒り、叱責して自ら罪を贖って常茂に献じるよう命じ、楊文・韓観に竜州討伐の為に出撃を命じた。果たして既に常茂が死亡していることが判明し、趙宗寿もまた恭順を申し出たので、出兵は取り止められた。
 常茂には子が無く、弟の常昇が開国公に改封され、しばしば練兵に出向き、太子太保を加官された。常昇の死については、『明実録』に記載されていない。その他の書物の紀伝には、建文年間の末、常昇及び魏国公徐輝祖は浦子口に奮戦し、永楽初年に死亡したとされている。或いは常昇は洪武年間に藍玉の徒党に連座し、三山に兵を集めていると告発された為に誅殺されたともされている。常氏は興宗(朱標)の外戚となり、建文年間に於ける恩礼は非常に厚かった為に、事案に巻き込まれて排除されたので、考証することが出来ず、またその死についても数々の異なる伝聞が残っているのである。常昇の子の常継祖は、永楽元年に雲南の臨安衛に遷された時、僅か七歳であった。常継祖の子は常寧、常寧の子は常復と言った。弘治五年の詔には次の様にある。「太廟に祀られている数々の功臣で、特に王爵を贈られた者は、いずれも皇祖を補佐して天下を平定し、巨大な功績がある。ところがその子孫には僅かな食禄に有り付くことすら出来ず、下賎に堕してしまっている者もいる。朕は忍びなく思うので、所管部署はその嫡嗣を探し求め、適切に一官を授け、先人の祭祀を執り行わせよう。」こうして常復は雲南より召還され、南京錦衣衛世襲指揮使を授かった。嘉靖十一年に四王の後嗣を紹封した際、常復の孫の常玄振を懐遠侯とし、継承されて曽孫の常延齢に至ると、賢明な振る舞いで評判を得た。崇禎十六年、楚の地の全域が失陥すると、常延齢は京軍を率いて九江に赴き協守したいと願い出た。また江都県に常家沙という地名があり、一族数千人は全て遠い始祖の末裔であったので、忠義を鼓吹して、訓練して親軍にしたいと願い出た。崇禎帝はこれを喜んだが、実行に移されることは無かった。南京の勲戚の多くは自分の思うがままに振る舞っていたが、ただ常延齢だけは職責を守ろうとした。明王朝が滅亡すると、自らは田地を耕し、庶人としてひっそりと一生を終えたのである。

【校勘記】
〔一〕総管都督、『太祖実録』巻四、丙申十月丁未条は「管軍総管」となっている。
〔二〕神山寨、元は「賢山寨」となっており、『太祖実録』巻十一、任寅十月任申条・巻十二、癸卯正月庚戌条に基づいて改めた。池州府に「賢山」は無いが、「神山」はあることが『読史方輿紀要』巻二十七によって分かる。
〔三〕江文清、元は「汪文清」となっており、本書巻百二十六、李文忠伝・『太祖実録』巻五十六、洪武三年九月戊申条・巻百六十、洪武十七年三月戊戌条に基づいて改めた。
〔四〕慶生、本書巻三百二十七、韃靼伝は「慶孫」としているが、『太祖実録』巻四十二、洪武二年六月己卯条は「慶生」としている。
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by su_shan | 2016-08-12 00:47 | 『明史』列伝第十三