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by すーさん

伯顔子中 等

『明史』巻一百二十四、列伝第十二

 鄭定、字を孟宣、剣術を得意とし、陳友定の書記となった。敗北するに及んで、海へ逃れて交趾・広州の間に潜伏した。しばらくして、戻って来て長楽県に居住した。洪武末年、国子監助教まで累進した。王翰、字を用文、元朝に仕えて潮州路総管となった。陳友定が敗北すると、道士となり、十年間も永泰山に隠棲した。太祖はその賢才を聞き付けると、これを強引に出仕させようとした為、自ら首を刎ねて死んだのであるが、子の王偁は広く名を知られることになった。
 陳友定に仕えた者の中に、伯顔子中(バヤン子中)という人物がいる。伯顔子中(※1)、その先祖は西域人で、後裔は江西の地に任官したので、それによって定住した。伯顔子中は『春秋』に明るかったが、五度の推挙全てに落第したので、行中書省は東湖書院の山長職を授け、建昌学教授に遷った。伯顔子中は儒者ではあったが、意気が盛んで兵事の話をを好んだ。江西に盗賊が現れると、分中書省都事を授かり、贛州路鎮守を命じられたが、陳友諒の兵は既に贛州路に侵入を始めていた。伯顔子中は急いで官吏と民衆を徴募し、城下で戦ったが、勝つことは出来ず、間道より閩(福建)へ逃走した。陳友定は本より伯顔子中を知っていたので、行中書省員外郎を授けた。奇計を用いて、陳友定の兵に建昌路を奪還させ、海路より元朝の都に捕虜を献上した。数度の昇進を経て吏部侍郎に遷った。広東の何真の兵に閩を救援させる為の使者となったが、到着した時には既に何真は廖永忠に降伏してしまっていた。伯顔子中は馬から転げ落ち、片足を骨折し、軍前に引っ立てられた。廖永忠はこれを投降させようと脅迫したが、屈することは無かった。廖永忠は義としてこれを解放してやった。そして姓名を変え、道士に身を窶し、浙江と湖広の間を巡り歩いた。太祖はこれを仕官させようと求めたが、得ることは出来なかったので、その妻子を探し出したのであるが、結局のところ伯顔子中は出仕しなかった。嘗て手に入れた鴆(という毒鳥)を持ち歩いていたことがあったが、しばらくの後に浸漬して溶解し、郷里に戻った。洪武十二年に郡県に詔を下して元朝の遺民を推挙させた。承宣布政使の沈立本は朝廷に対して密かに伯顔子中のことを報告し、贈物を用いて招聘しようとした。使者が到来すると、伯顔子中は大きな溜息をついて言った。「死に時を誤ってしまった。」七章歌を作ると、その祖父や老師や朋友の名を泣きながら叫び、鴆毒を仰いで死んでいった。
 元朝が崩壊した時、国土を守る臣下にあって節操を保って死んだ者は非常に多かった。明軍が太平路に勝利した際には、総管の靳義が入水して死んだ。集慶路を攻撃した際には、江南行御史台御史大夫の福寿が戦い敗れるも、城を堅守していた。城壁は破られたが、なおも兵を率いて戦い続け、伏亀楼に移って指揮を執った。左右の者が脱出を勧めたが、福寿は叱り付けてこれを射殺し、遂に戦死した。参知政事伯家奴・達魯花赤(ダルガチ)達尼達思(ダニダシ)らは何れも戦死した。鎮江路に勝利した際には、守将段武・平章政事定定(ディンディン)が戦死した。寧国路に勝利した際には、百戸張文貴が妻妾を殺害した後に自らも首を刎ねて死んだ。徽州路に勝利した際には、万戸呉訥が戦い敗れた後に自殺した。婺州路に勝利した際には、浙東廉訪使楊恵・婺州路達魯花赤僧住が戦死した。衢州路に勝利した際には、総管馬浩〔一〕が入水して死んだ。石抹宜孫は処州路を鎮守していたが、その母親と弟の石抹厚孫が先に明軍の捕虜となったことから、書状によってこれを招聘しようとした。石抹宜孫が従うことは無かった。処州路に勝利するに及んで、石抹宜孫は戦い敗れ、建寧路に遁走したが、兵卒を召集して、再び処州路を奪還しようとした。慶元路を攻撃したものの、耿再成に敗北し、建寧路に逃げ帰った。その道中にて郷兵に遭遇し、殺害された為に、部将の李彦文がこれを竜泉県に埋葬した。太祖はその忠義を称え、使者を派遣して祭祀を行わせ、また処州府に生祠を建立させた。福寿は応天府に、余闕は安慶府に、李黼は江州府に祠を建立した。余闕・李黼の事績は『元史』に詳しい。
 その後、大軍が北進して益都路に勝利した際には、平章政事普顔不花(ボヤンブカ)が屈することなく死んだ。東昌路に勝利した際には、平章政事申栄が自ら縊死した。真定路達魯花赤鈒納錫彰(ジナシルジャ)は明軍が元朝の都を奪取したことを聞くと、朝服に着替えて城の西側の崖に登り、北面して再拝した後、身を投げて死んだ。奉元路に勝利した際には、陝西行御史台御史桑哥失里(サンガシリ)が妻子と共に崖から身を投げ、左丞拝泰古は終南山に落ち延び、郎中王可は毒薬を仰いで死に、検校阿失不花(アシブカ)は自ら縊死した。三原県尹朱春はその妻に言った。「我は死して国に報いん。」妻は答えた。「君が忠節を尽くすというのに、妾もどうして貞節を尽くさないことがありましょうか。」こうして一緒に首を吊って死んだ。また大軍が永州路を攻撃した際には、右丞鄧祖勝が堅守したが、糧食が尽きて困窮し、毒薬を仰いで死んだ。梧州路に勝利した際には、吏部尚書普顔帖木児(ボヤンテムル)が戦死し、張翱は入水して死んだ。靖江に勝利した際には、都事趙元隆・陳瑜・劉永錫、廉訪使僉事帖木児不花(テムルブカ)、元帥元禿蛮、万戸董丑漢、府判趙世傑が自殺した。劉福通・徐寿輝・陳友諒らの破る所となった郡県に於いても、鎮守していた官吏や将帥の多くが忠節に殉じたことが『元史』に散見されるが、詳細には記されておらず、記述は『明実録』を参照すると良い。
 また劉諶という人物がおり、江西の人で、仁寿県の教官となった。明玉珍が蜀に侵入すると、官職を辞して瀘州に隠棲した。明玉珍はこれを仕官させようとしたが、応じなかった。鳳山の趙善璞は山奥に隠遁し、明玉珍は招聘して学士にしようとしたが、やはり応じなかった。張士誠が平江路を破った際には、参軍楊椿が身を挺して戦い、刀に胸を刺し貫かれると、目に怒りを滾らせ激烈な罵声を撒き散らして死に、妻もまた自ら縊死して果てた。張士誠はまた書状と贈物を用いて松江府に於いて元左司員外郎楊乗を求めたが、楊乗は祖禰廟に酒醴を捧げ、晴れやかな西日に振り返って言った。「人生の晩節とは、こういうのが良い。」夜になって自ら縊死した。そして親藩として難に殉じた最も壮烈な人物に、雲南の梁王がいる。

【注釈】
(※1)伯顔子中、『七修類稿』巻十六、義理類、伯顔子中伝には、「伯顔、字を子中」とあり、子中を字としている。

【校勘記】
〔一〕馬浩、『明史稿』伝十、陳友定伝・『太祖実録』巻七、己亥七月丁未条はいずれも「馮浩」としている。
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by su_shan | 2016-08-16 15:36 | 『明史』列伝第十二