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by すーさん

葉兌

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 葉兌、字を良仲、寧海県の人(※1)。経済の知識を自負し、天文・地理・卜筮の書物に最も精通した。元朝末期に天運の帰結する先を悟り、庶人の立場でありながら太祖(朱元璋)に書を献上したのであるが、それには一つの大綱と三つの項目が並べられており、天下の大計について記されていた。当時、太祖は既に寧越府を平定し、張士誠・方国珍の攻略に取り掛かろうとしていたが、一方で察罕帖木児(チャガンテムル)の軍勢は強盛であり、使者を金陵に派遣して太祖を招聘した所であり、故に葉兌は三者についてこれを推し量って詳述した。その大略は次の通りである。
 愚かにも聞く所によりますと、天下を取る者には、必ず一定の戦略が有るそうでございます。韓信が初めて高祖(劉邦)に見えた時は、楚・漢の成敗について画策し、孔明は草庵に伏して、先主(劉備)に三分の形勢を論じたものがそれでございます。今現在の戦略としては、北は李察罕(察罕帖木児)との関係を断ち、南は張九四(張士誠)を併呑し、温州路・台州路を慰撫し、閩・越の地を奪取し、建康に都を定め、江・広の地を開拓し、進んで両淮を越えて北征し、退かば長江を境目として守りに徹するのでございます。そもそも金陵は古来より竜蟠虎踞の地と呼ばれ、帝王の都に相応しく、その兵力と資財を結集すれば、攻めれば勝ち、守れば堅く、百人の察罕帖木児であってもどうすることも出来ません。長江の守りは、急ぐ必要はございません。今や大義の軍は既に江州路に勝利し、足元は呉の地の全てを覆っております。ましてや滁州・和州から広陵に至るまで、全て我が方の領有する所でございますので、直に長江を守るのでは無く、淮河を守ることで兼ねるのが良いでしょう。張氏は傾いておりますので座して待てば良く、淮東の諸郡もまた帰順するでしょう。北は中原を攻略すれば、李氏を併呑出来るでしょう。今聞く所によりますと察罕帖木児は無分別に自ら尊大に振る舞い、明公に書を致すは、さながら曹操が孫権を招聘した時の様でございます。人知れず元朝の命運は尽きようとしており、人心は定まらないので、察罕帖木児は曹操の行為に倣わんとしておりますが、情勢は同じではございません。ここは魯粛の計の様に、江東に鼎立し、天下の歪みを見極める、これがその大綱でございます。
 その項目は三つございます。張九四の地は、南は杭州路・紹興路を包み込み、北は通州・泰州に跨り、平江路を巣穴としております。今これを攻めんと欲するのであれば、杭州路・紹興路・湖州路・秀州を奪い取り、その後に大軍を以て平江路を直撃することに勝る物はございません。城壁は堅く俄かに突破することは難しいでしょうから、城を封鎖する方法〔一〕でこれを困窮させましょう。城外には矢石の届かない場所に別に長大な包囲柵を築き、将兵に命じて四方に分散して布陣させ、屯田を実施して堅く守り、その出入りする経路を遮断し、兵を分けて属邑を攻略し、その税糧を接収して兵站の足しにするのでございます。彼らが手を拱いて空城を守っていた所で、どうして困窮しないということがありましょうか。平江路を陥落させたならば、巣穴は既に傾いたことになりますので、杭州路・越の地は必ずや帰順し、他の郡県も解体することでしょう、これが上策でございます。
 張氏の重鎮は紹興路にございます。紹興路は江海より遠く隔たっておりますが、何度攻めても勝つことが出来ないのは、彼らの糧道が三江斗門にあるからでございます。もし一軍を以て平江路を攻め、その糧道を断ち、また一軍を以て杭州路を攻め、その援軍を絶てば、紹興路は必ずや突破することが出来るでしょう。攻める所は蘇州・杭州路にあり、取る所は紹興路にあり、一般的には大抵の者が間違う部分でございます。紹興路が突破されれば、杭州城は孤立し、湖州路・秀州は風に靡きますので、その後に平江路に進攻して、その中心に刃を打ち込めば、江北の残党は自然に瓦解するでしょう、これが次策でございます。
 方国珍は狼の様な野心家なので、馴れ馴れしくすべきではございません。以前、大軍を発して婺州路を奪取された際に、彼は書を奉じて帰順を申し入れました。後に夏煜殿・陳顕道殿を遣わして招聘なさいましたが、彼はまた狐の様に疑って従いませんでした。海路より使者を遣わして元朝に好を通じていたことを考えますと、江東はこれに委ねて帰順させるように伝え、張昶殿に詔書を持参させるよう誘引して来訪させ、さらに韓叔義を遣わして説客とし、明公を説き伏せて詔を奉ろうとしたのでしょう。既に彼は我が方へ投降していながら、逆に我々を元朝に投降させようとするなどと、その反覆の狡猾さはご覧の通りでございます。是非、軍を繰り出して罪を問うのが宜しいでしょう。ところで彼は水運を拠り所としておりますので、一度でも兵の到来を耳に入れれば、家属を引き連れて海へ逃れるでしょうから、中原の歩兵や騎兵ではどうすることも出来ません。そもそも上手い戦とは心を攻めることであると言いますから、杭州路・越の地の平定を喧伝すれば、すぐにでも領土を納め、我が軍に投降しようとするに違いございません。これを攻略する方策は、期日を定めて、その帰順を強要するのです。彼は方国璋が没してからというもの、兵事の知識はあっても用いることが出来ず、また韓叔義が戻って大義の軍の強盛さを言い触らせば、すぐにでも戦意を阻喪するでしょう。今、陳顕道殿を向かわせることで、これを脅迫して従わせるのでございます。事は速やかに行い、緩めてはなりません。これを諭した後は、官吏を置き換え、船舶を抑留し、密かにその兵権を掌握し、未然の変事を消し去れば、三郡は労せずして平定されるでしょう。
 福建は元々浙江の一道ではございますが、兵は脆く城は狭いのです。両浙の地が平定されれば、必ずや帰順を図りますので、これを投降させるには一人の論客の力で十分でございます。またこれが滞る様であれば、大軍を以て温州路・処州府より侵攻し、奇襲部隊を海路より侵入させれば、福州路は決して支えることは出来ず、福州路が陥落すれば、近隣の郡県は武器を棄てて迎え入れるでしょう。既に威勢は誇示されておりますので、その後に両広の地に進軍すれば、さながら掌を返す様に容易く仕上がることでしょう。
太祖はその策を尋常では無いと考えた。これを留めて任用しようとしたが、強引に辞去した。銀幣や上着を賜った。後に数年のことで、天下は削平されたが、戦略の成り行きは殆ど葉兌の策の通りであった。

【注釈】
(※1)寧海県の人、原文は「寧海人」であり、山東の「寧海州」と浙江の台州路「寧海県」の何れであるか判然としないが、『罪惟録』巻七、逸運外臣列伝、葉兌伝に「葉兌、字を良仲、浙の寧海の人」とあるので、浙江の台州路「寧海県」とした。

【校勘記】
〔一〕城を封鎖する方法、元は「城を銷かす方法(銷城法)」となっていた。「城を封鎖する方法」と次の文「別に長大な包囲柵を築き」、「その出入りする経路を遮断し」は対応する物なので、『明史稿』伝二十二、葉兌伝により改めた。
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by su_shan | 2016-08-20 15:31 | 『明史』列伝第二十三