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by すーさん

楊元杲 阮弘道 汪河

(本伝は原書に基づき楊元杲と阮弘道と汪河の伝を分割せずにお届けしております)

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 楊元杲・阮弘道は、いずれも滁州の人であり、代々儒者の家柄であった。長江渡河に従い、共に江南行中書省左右司員外郎となり、陶安らと共に適宜交代で文章を起草した。楊元杲は郎中として金華府に於ける兵站管理の任務に抜擢され、また楊元杲は同年に郎中として大都督朱文正に従って南昌府を鎮守し、その全てに功績を挙げた。二人は何れも太祖(朱元璋)の最も初期からの臣下であり、また一人前の儒者として文学を嗜み、政治に熟練して深く通じ、しかも楊元杲の知慮は最も周密であった。嘗て洪武帝(朱元璋)は次の様に言ったことがある。「長江渡河に従った文臣で、帳簿と文章を掌り、勤労すること十数年、楊元杲・阮弘道・李夢庚・侯元善・樊景昭に勝る者は居ない。」後に、楊元杲は応天府尹を、阮弘道は福建・江西行中書省参知政事まで歴任し、何れも在職中に没した。
 楊元杲の子は楊賁と言い、博学で記憶力に優れ、詩文に巧みであるとの評判を得、推薦によって大名知県を授かり、周王府紀善に至った。
 侯元善は全椒県の人で、参知政事まで歴任しているが、樊景昭については記録が残っていない。

 また汪河という人物は、舒城県の人で、嘗て余闕に師事し、文章が巧みであるとの評判を得た。長江渡河に従い、江南行中書省掾となり、しばしば適切な提言を行った。太祖はその才能を評価し、大都督府都事に昇進させた。察罕帖木児(チャガンテムル)への使者を拝命し、上意を伝え論じ合った。後に命を奉じて銭楨を伴い河南へ赴き、拡廓帖木児(ココテムル)からの使節に対して報いたが、拘留されてしまった。太祖は七回も拡廓帖木児に書状を送ったが、遂に返答は無かった。洪武元年、大軍が河南府路・洛陽県を陥落させると、拡廓帖木児は定西州へ敗走し、汪河は漸く帰還することが出来たが、拘留されてから凡そ六年が経過していた。洪武帝はこれを喜び、吏部侍郎に昇進させ、西方攻略の方策を立案させた。(洪武)二年に御史台侍御史に改められた。(洪武)九年に晋王府左相を拝命した際には、洪武帝自ら御便殿にてこれを諭して派遣した。数年にして、在職中に没した。
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by su_shan | 2016-08-22 17:45 | 『明史』列伝第二十三