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元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

孔克仁

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 孔克仁、句陽県の人。江南行中書省都事より郎中に昇進した。嘗て宋濂と共に太祖(朱元璋)に侍り、しばしば太祖と天下の形勢や歴代王朝の興亡について語り合った。陳友諒が滅亡すると、太祖は中原を攻略しようと志し、孔克仁に対して言った。「元朝の命運は既に傾き、豪傑は互いに争いを続けているので、その間隙に乗じるべきである。我は両淮・江南諸郡の民衆を監督し、時に耕種し、訓練を加え、兵農の源泉を兼ねた上で、進んでは取り、退いては守ろうと思う。そして両淮の間に食糧を運び込み、糧秣を備蓄して時機を待つのだ。軍糧が充足すれば、いよいよ中原攻略に取り掛かるべきだと思うが、卿はどう考えるか?」孔克仁は答えた。「糧秣を積み上げて兵卒を訓練し、間隙を観察して時機を待つ、これは遠大な計画にございます。」正にこの当時、江左の軍勢は日増しに強くなり、太祖は自らを漢朝の高祖(劉邦)に準え、孔克仁に対して言ったことがある。「秦朝の政治は暴虐であったから、漢朝の高祖は庶人より起ち、寛大に群雄を御して、遂に天下の主となったのである。今、群雄が蜂起したは良いが、みな法令を修めて軍政を明らかにすることを知らぬから、大成する者が居らんのだ。」孔克仁はしばらく感嘆していた。また次の様に言ったこともある。「天下の兵を用いる者には、河北に孛羅帖木児(ボロトテムル)があり、河南に拡廓帖木児(ココテムル)があり、関中に李思斉・張良弼がある。しかし兵を有していても紀律が無いのが河北であり、やや紀律を有していても軍勢が振るわないのが河南であり、道路が通じず、食糧の運搬が続かないのが関中だ。江南は我と張士誠だけである。張士誠は頻繁に謀略を用い、間諜を重んじ、配下には規律が無い。我は数十万人の衆を以て、軍政を修め、将帥を任じ、時機を見て動く、そもそも勢いだけで平定するには不足があるのだ。」孔克仁は平伏して言った。「主上はこの上なく優れた武徳をお持ちでございますから、必ずや天下を統一なさるでしょう。」
 嘗て『漢書』を講読していた時、宋濂と孔克仁が傍らに控えていた。太祖は言った。「漢朝の政治の良くない点は何であるか?」孔克仁は答えた。「王道と覇道を混同させたことでございましょう。」太祖は言った。「誰がその責を負うているか?」孔克仁は言った。「責は高祖にございます。」太祖は言った。「高祖の創業は、秦朝の学問排除に遭い、民衆は憔悴して立ち直ろうとしている所であったから、礼楽などを講じている場合では無かったのだ。孝文王(嬴柱)は名君たらんとし、礼を制定して楽を作り、三代(夏・殷・周)の制度を復古させようとしたが、あれこれ逡巡する暇さえ無く、結局はこの様に漢朝の帝業に至ったのだ。帝王の道とは、貴きものは時勢に逆らわないものである。三代の王は時機を得てよく事を成し、漢朝の文帝は時機を得ても成すことが出来なかったが、後周朝の世宗(柴栄)は時機が無くとも事を成した者である。」また嘗て孔克仁に対して質問したことがある。「漢朝の高祖は徒歩の身分より起って万乗の主となったが、どの様な方法を用いたのだ?」孔克仁は答えた。「人を知ってよく任用したのでございます。」太祖は言った。「項羽は南面して王位に就きながらも、仁義を与えること無く、自ら驕り昂ぶり傲慢に振る舞った。高祖はそうであることを知っていたので、柔和と謙遜を以て意見を聞き入れ、心を広く持ち情け深く助け、遂にこれに勝利したのである。今や豪傑は一人だけでは無く、我は江左の地を守り、賢材を任用して民衆を慰撫し、情勢の変化を観察しているが、もし共に武力を競うだけでは、早々に平定することは難しいのだ。」
 徐達らが淮東・淮西を陥落させるに及んで、また孔克仁に対して言ったことがある。「壬辰の年の兵乱で、民衆は塗炭の苦しみを味わった。中原の諸将では、孛羅帖木児は兵を擁して宮殿に侵入し、倫理を乱して規律を犯し、敵対者を葬り去った。拡廓帖木児は皇太子を擁立して戦端を開き、私怨を優先し、本来の敵を滅ぼそうとする意志を持たなかった。李思斉などはただ平凡なだけで、ひっそりと一地方に割拠し、民衆はその害を受けている。張士誠は表面上は元朝の名を立ててはいるが、実際は二心を抱えている。明玉珍父子は蜀の地に割拠して帝号を僭称したが、喜々として好き勝手に振る舞うだけで遠謀を持ち合わせていない。連中の所為を見た所、みな大成することは出来ないであろう。予は天の与え給うた機会に謀り、人として最善を尽くし、平定の機会を得ることが出来た。今、軍は西に襄・樊の地に進出し、東に淮・泗の地を越え、首尾は相応しく、これを撃てば必ず勝利し、大事は成就し、天下は難無く平定出来るであろう。一たび平定されてしまえば、生き永らえることは難しく、その労苦に思いを致さんばかりである。」孔克仁は帷幕に侍っていた期間が最も長く、故に太祖の謀略に関与する機会も多かった。洪武二年四月に孔克仁らに命じて諸子に経書を講義させ、功臣の子弟もまた入学を命じた。江州知府に出向した後、入朝して参議となったが、ある事案に連座して処刑された。
by su_shan | 2016-08-23 23:17 | 『明史』列伝第二十三