元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

沐英(続)

(文字数制限に抵触する為、本伝は二頁に分けてお送りしております)

 沐春、字を景春、父親同様に勇武の才能が有った。十七歳の時、沐英に従って西番に遠征し、また雲南遠征に従軍し、江西の叛乱平定に従軍し、その全てに先陣を切った。功績を重ねて後軍都督府都督僉事を授かった。群臣は任職に当たって試験を要請したが、洪武帝は答えた。「この子は、我が家人であるから、試験は必要無いのだ。」こうして正式に授官したのであった。以前、烈山の囚人の調査を命じられ、また蔚州に於いて賊徒の懲罰を命じられた際には、それぞれ釈放を許された者が数百人に達した。沐英が没すると、爵位継承を命じられ、雲南府に鎮守した。洪武二十六年、維摩十一寨が叛乱すると、瞿能を派遣してこれを討伐させた。翌年に越嶲蛮を平定し、瀾滄衛を設立した。その年の冬、阿資が又もや叛いた為、何福と共にこれを討伐した。沐春は言った。「この賊めが長年誅殺から逃れる事が出来たのは、諸々の土酋長と婚姻関係を結び、各地を転々として身を隠れているのだ。今、全ての諸酋長に号令を発して軍に従わせ、これを繋ぎとめておき、多くの堡塁を築き、その出入を統制すれば、必ずや首を取ることが出来よう。」こうして越州へ向かい、経路を分けてその州城へ迫り、街道沿いに精兵を伏せ、弱兵を用いて賊軍を誘い出し、欲しいままに攻撃してこれを大いに打ち破った。阿資は山中に落ち延びたので、沐春は密かに近隣の土官と結託して、その所在を伺い、木で堡塁を築きその糧道を遮断した。賊軍は非常に困窮した。それから不意にその根城を突き、遂に阿資を捕らえ、併せて徒党二百四十人を誅殺した。越州は遂に平定された。広南の酋長儂貞佑が一党を糾合して官軍を拒むと、破ってこれを捕らえ、一千人を捕殺した。寧遠州の酋長刀拝爛は交阯を頼みにして命令に従わなかったので、何福を派遣してこれを討伐し降伏させた。
 (洪武)三十年、麓川宣慰使思倫発は部下の刀幹孟に追放されて、逃げ込んで来た。沐春は連れ立って共に入朝し、洪武帝より方略を授かり、遂に沐春は征虜前将軍を拝命し、何福・徐凱を率いてこれを討伐することになった。これに先んじて、兵に命じて思倫発を金歯へ護送させ、刀幹孟に檄を発して迎えさせようとした。これには応じなかった。そこで兵卒五千人を選抜し、何福と瞿能に指揮を命じて、高良公山〔一〕を越え、直に南甸を突き、大いにこれを破り、その酋長刀名孟を斬殺した。軍を転進して景罕寨を攻撃した。賊軍は高所に拠って堅守したので、官軍の食料は底を尽き、何福は救援を求めた。沐春は五百騎を率いてこれを救援しようとし、夜中に怒江(サルウィン川)を渡り、夜明けには寨に到着すると、下令して騎兵を駆け回らせ、空を蔽う程の土煙を立てさせた。賊軍は驚愕して潰走した。勝勢に乗じて崆峒寨を攻撃し、また潰走させた。これに前後して降伏した者は七万人に達した。将兵はこれを皆殺しにしようとしたが、沐春は認めなかった。刀幹孟は降伏を申し出たが、洪武帝は許さず、沐春に滇・黔・蜀の地の兵を率いてこれを攻撃するよう命じようとした。ところが発令される前に沐春は没してしまった。三十六歳であった。恵襄と諡された。
 沐春は鎮に在任すること七年の間、屯田行政を大きく改善し、三十数万畝を開墾し、鉄池河を開削し、宜良県の乾田数万畝を灌漑し、民業に復帰した者は五千戸余りに達したので、祠を建立してこれを祀った。子は無く、弟の沐晟が跡を継いだ。

 沐晟、字を景茂、幼少より慎重で、寡黙温和で、読書を好んだ。太祖はこれを可愛がった。昇進を重ねて後軍都督府左都督に到達した。建文元年に侯爵位を継承した。任地に赴いた所、既に何福が刀幹孟を捕らえていたので、思倫発を帰らせた。間も無く思倫発が死に、諸蛮族が各地で蜂起したので、沐晟はこれを討伐した。その地域には三府二州五長官司を置き、また怒江の西側に屯衛千戸所を置いてこれを鎮守させたので、遂に麓川は安定した。当初、岷王(朱楩)が雲南に封じられたが、法を順守しなかったので、建文帝(朱允炆)に捕らえられてしまった。成祖が即位すると、藩地へ戻らせたが、以前より増して傲慢に振る舞った。沐晟は手を抜いて応接した。岷王は怒り、沐晟を讒言した。永楽帝(朱棣)は岷王の告発によって詔を下して沐晟を訓戒し、岷王には書状を送って、沐晟の父親の功績を称え、過失を咎めない様にした。
 永楽三年、八百(ラーンナー)大甸の賊徒が辺境を掠奪し、朝貢使節を遮った為、沐晟は車里(シーサンパンナ)・木邦(シャン)と共同してこれを鎮定した。翌年に交阯討伐の為に大軍を発すると、沐晟は征夷左副将軍を拝命し、大将軍張輔と分かれて雲南府より進攻した。こうして蒙自県より野蒲を経て木を切り倒しながら道を開き、猛烈・弸華といった要害の地を奪取した。船を担いで夜中に洮水に入り、富良江を渡り、張輔と軍を合流させた。共同して多邦城を破り、その東西二都を突き、複数の拠点を粉砕し、偽王黎季犛を捕らえたが、事は張輔伝に詳しい。論功行賞によって黔国公に封じられ、食禄三千石とされ、世券を与えられた。
 交阯の簡定が再び叛くと、沐晟に征夷将軍の印章を与えてこれを討伐させたが、生厥江の戦いで敗北した。再び張輔が出陣したので軍を合流させてこれを討伐し、簡定を捕らえて京師へ送った。張輔は帰還したが、沐晟は留まって陳季拡を追討したが、何度交戦しても降伏させることが出来なかった。張輔は再び出陣して沐晟と合流し、急追して占城に到達し、陳季拡を捕らえたので、軍を返し、沐晟もまた表彰を受けた。(永楽)十七年、富州の蛮族が叛くと、沐晟は兵を率いてこれに対応したが、戦闘は行わず、人を遣わして説得し、遂にこれを降伏させた。
 仁宗(朱高熾)が即位すると、太傅を加官され、征南将軍の印章を鋳造して支給された。沐氏が任地を引き継ぐ際には、印章を与えることが通例となった。宣徳元年、交阯の黎利の勢力が拡大すると、沐晟に詔を下して安遠侯柳升と合流して討伐するよう命じた。柳升は敗死し、沐晟もまた兵を引き上げた。群臣は口々に沐晟を弾劾したので、宣徳帝(朱瞻基)はその印章を取り上げて懲戒を示した。正統三年、麓川の思任発が叛いた。沐晟は金歯に赴き、弟の沐昂及び都督方政と兵を合流させた。方政は前鋒となり、河沿いの諸寨に篭る賊を破り、大軍は追撃して高黎共山の麓に至り、再びこれを破った。翌年にまたその旧寨を破った。方政は伏兵に殺害され、官軍は敗退した。沐晟は退却したが、慚愧して病に罹り、楚雄府に差し掛かった所で死没した。定遠王を贈られ、忠敬と諡された。
 沐晟は父兄の業績を引き継いだが、用兵は得意では無く、何度も苦戦を強いられた。朝廷は遠隔地であること、更に功臣に連なる将帥であることから、これを大目に見た。滇の人々は沐晟父子の威信を畏怖し、あたかも朝廷に対するかの様に厳かに仕えた。書信を下せば、土着の酋長は威儀を正して城郭を出て迎え、手を清めてから開封し、「これは令旨である。」と言った。沐晟は長年在任し、三百六十ヶ所もの田園を設置し、資財を充満させ、中央の高位者に対しては恭しく仕え、絶えず贈賄したので、内外に名声を得る事が出来たのである。沐晟には沐斌という子が居り、字を文輝と言ったが、幼くして公爵位を継ぎ、京師に在住したことから、沐昂に鎮守の任を代行させる事となった。
 
 沐昂、字を景高、当初、府軍左衛指揮僉事となった。成祖が沐晟を南方遠征に起用しようとした際に、沐昂を都指揮同知に抜擢し、雲南都指揮使司を拝領し、昇進して右都督に至った。正統四年に将印を帯び、麓川を討伐しようとし、金歯に到着した。賊軍の強盛さに萎縮し、長い間討伐を先延ばしにした。参将張栄が先駆して芒部へ向かったが敗れると、沐昂は救援せずに退却した為、俸禄を二等級落された。続いて思任発が蠢動したので、攻撃してこれを退け、また師宗州の賊徒を捕殺した。(正統)六年、兵部尚書王驥・定西伯蒋貴が大軍を率いて思任発を討伐した際に、沐昂は兵站を担当した。賊が鎮圧されると、沐昂は復職し、軍を率いて思任発の追討を命じられたが、達成は出来なかった。(正統)十年、沐昂は没した。定辺伯を贈られ、武襄と諡された。
 沐斌が初めて任地に赴いた頃、たまたま緬甸(ミャンマー)が思任発を捕らえて京師へ送致したが、その子である思機発が来襲したので、沐斌はこれを撃退した。思機発はまた孟養を拠点とした。(正統)十三年に再び大軍を発し、王驥らにこれを討伐させた際には、沐斌は後詰となり、兵站を管理したので不足する事は無かった。没すると太傅を贈られ、栄康と諡された。
 子の沐琮は幼く、景泰初年、沐昂の孫の沐璘に命じて都督同知として任を代行させた。沐璘、字を廷章、上品で学問の素養があり、滇の人々はこれを御し易いと考えたものの、果たして号令は粛然として違反する事は出来なかったが、天順初年に没した。沐琮は依然として幼く、沐璘の弟の錦衣衛副千戸沐瓚を都督同知に抜擢し、代行させた。在任七年の間に、霑禄諸寨及び土官で争乱した者を討伐し、思卜発を降伏させ、諸蛮族の侵攻した地域を整然と奪還した。多くの功績を挙げたが、また贈賄も多かった。
 成化三年の春、沐琮は初めて任地に赴くと、沐瓚を副総兵とし、金歯に拠点を移した。沐琮、字を廷芳、経書に通じ、詩歌や文章に長け、配下の蛮族から貢物を贈られても受け取る事は無かった。尋甸府のある酋長が兄の子を殺害し、自らを鎮守の任に充てんと要望したが、沐琮はこれを捕らえて誅殺した。広西の土官が暴政を布いた事から、所部が叛乱を起こすと、沐琮は改めて流官(※1)を設置する様に要請したので、民衆は非常に喜んだ。次いで馬竜州・麗江軍民府・剣川州・順寧府・羅雄州の諸蛮族の叛乱を討伐し、橋甸・南窩の賊徒を捕らえた。死没すると、太師を贈られ、武僖と諡された。子は無く、沐瓚の孫の沐崑が跡を継いだ。
 沐崑、字を元中、当初は錦衣衛指揮僉事を世襲した。沐琮が養子に迎え、沐崑は西平侯の後裔である事から侯爵位を継承させるべしとの評議が提出されたものの、守臣の間で議論が紛糾し、滇の人々は黔国公を知っていても西平侯を知らないと言い、西平侯が軽んじられる事を警戒した。孝宗(朱祐樘)はそれもそうだと考え、公爵位を継ぐよう命じ、通例の様に印章を帯びさせた。弘治十二年に亀山・竹箐の諸蛮族を平定し、また普安州の賊徒を平定し、再び食禄を加増された。正徳二年、師宗州の民であった阿本が叛乱を起こすと、都御史呉文度と共に兵を率いて三路に分かれて進発した。一つは師宗州へ向かい、一つは羅雄州に向かい、一つは弥勒州に向かい、また別に一軍を派遣して盤江に伏せ、賊軍の巣窟を掃討し、遂にこれを打ち破った。(正徳)七年、安南長官司那代が世襲を争い、土官を殺害したので、再び都御史顧源と共にこれを討伐して捕らえ、また太子太傅を加官された。沐崑は当初こそ文学を嗜み、自らを厳しく律していたが、後に贈賄して中央に取り入ると、要望して通らない事は無くなった。驕り昂ぶり、三司(※2)を見下して、角門より入庁させた。司法官で弾劾を行った者が何人か居たが、罪を着せられて失脚した。死没すると、太師を贈られ、荘襄と諡された。
 子の沐紹勛が跡を継いだ。尋甸府の土舎(※3)であった安銓が叛くと、都御史傅習がこれを討伐したが、敗北した。武定軍民府の土舎であった鳳朝文もまた叛き、安銓と兵を連ねて雲南府に攻め入り、大混乱を巻き起こした。世宗(朱厚熜)は尚書伍文定に大軍を与えて派遣し、これを討伐させた。これの到着以前に、沐紹勛は所部を引き連れて先発し、土官の子弟で世襲を望む者は、予め冠帯を与え、賊を破った後に要請する旨を通告した。大勢が奮戦し、賊軍は大敗を喫した。鳳朝文は普渡河を堰き止めて逃走したが、東川軍民府で追いつかれて斬殺された。安銓は尋甸府へ戻り、数十ヶ所も砦を連ねたが、官軍はこれを破り、芒部に於いて安銓を捕らえた。これに前後して捕縛した賊徒は千人余り、捕殺は数え切れなかった。時に嘉靖七年の事である。勝報が届くと、太子太傅を加官され、食禄を加増された。一方で、この当時は老撾(ラオス)・木邦・孟養(カチン)・緬甸・孟密らは仇敵の間柄で、師宗州・納楼茶甸長官司・思陀甸長官司・八寨長官司は何れも混乱し、長期間解消されなかった。沐紹勛は使者を派遣して諸蛮族を歴訪させ、武定軍民府・尋甸府の事例を引き合いに出すと、皆平伏したので、侵犯した地を返還するよう要望した所、木邦・孟養は共に宝物を貢いで罪過を詫びた。こうして南中の地の悉くが平定された。沐紹勛は勇気と才略に優れ、兵を用いれば勝利した。死没すると、太師を贈られ、敏靖と諡された。
 子の沐朝輔が跡を継いだ。都御史劉渠が賄賂を求めたので、沐朝輔はこれに与え、更に上章して言った。「臣の一族が代々この地を守ること、脈々と受け継がれております。今や役人は法制を無闇矢鱈に改め、守臣が職務に精励しても、有るがままに報告されず、接見しても前例に従いません。臣は遠方の地で危険にも孤立し、行動は掣肘を受けるので、蛮人を弾圧する事はございません。どうか諸臣に対して訓戒頂き、万事旧例に則ってお取り計らい下さいますようお願い申し上げます。」詔を下してこれを認めた。給事中万虞愷が沐朝輔を弾劾し、追及は劉渠にも及んだ。詔を下して劉渠を罷免する一方、沐朝輔には引き続き従来の職務を命じた。死没すると、太保を贈られ、恭僖と諡された。
 二人の子、沐融・沐鞏は何れも幼かった。詔を下して沐琮・沐璘の故事に倣い、沐融に公爵位を継承させ、食禄の半分を支給し、沐朝輔の弟の沐朝弼に都督僉事の地位を授け、印章を与えて鎮守の任を代行させた。在任三年にして、沐融は没し、沐鞏が跡を継ぐことになったが、沐朝弼は内心快く思わなかったので、沐朝輔の生母である李氏は沐鞏を京師に安住させて、その成長を待って任地へ戻らせるよう申し出た。認可された。沐鞏は京師に到着する前に死没し、沐朝弼は遂に後継する事が出来た。嘉靖三十年、元江軍民府の土舎であった那鑑が叛いた。詔を下して沐朝弼と都御史石簡にこれを討伐させると、五軍に分かれてその城に迫った。城を陥落寸前まで追い込んだ時、瘴気が発生した為に退却する事になった。詔を下して石簡を罷免し、再度出撃させようとした。那鑑は恐れて毒薬を仰いで死んだので、出兵は取り止めになった。(嘉靖)四十四年に叛旗を翻した蛮族の阿方・李向陽を討伐して捕らえた。隆慶初年、武定軍民府の叛徒の首魁であった鳳継祖を鎮圧し、賊の拠点三十ヶ所余りを撃破した。沐朝弼は元より驕慢な性格で、母や嫂への接し方は礼節を欠き、兄の田宅を奪い、罪人の蒋旭らを匿い、兵や召使を使って京師を探らせた。こうして沐朝弼は罷免され、その子である沐昌祚が跡を継ぎ、食禄の半分を支給された。沐朝弼は怏怏として楽しまず、ますます勝手な振る舞いをする様になった。母を埋葬する為に京師に到着すると、ある都御史がこれを拘留する様に要請した。詔を下して滇の地に戻る事が認められたが、当地の軍政に関与する事は許されなかった。沐朝弼は憤慨し、沐昌祚を殺害しようとした。巡撫・按察使の任にある者が立て続けに現状を報告し、更に殺人や蛮族との内通など数々の不法行為を告発した為に、逮捕投獄された上で死刑を検討された。これまでの功績が助けとなり、南京にて禁錮処分となり、死没した。
 沐昌祚は当初都督僉事総兵官として鎮守の任に当たり、しばらくして公爵位を継承した。万暦元年、姚安軍民府の蛮族羅思らが叛き、郡守を殺害した。沐昌祚は都御史鄒応竜と共に現地人と漢人双方の兵を発してこれを討伐し、向寧・鮓摩など十数ヶ所の寨を破り、その拠点を掃討し、羅思ら全員を捕らえた。(万暦)十一年、隴川宣撫司の賊徒岳鳳が叛いて緬甸に帰順すると、その兵を引き入れて近隣の土司に侵攻した。沐昌祚は洱海(アルハイ)に塁壁を築き、裨将鄧子竜・劉綖らを率いて木邦の叛徒の首魁である罕虔を斬殺したが、猛暑と瘴気の為に軍を引き上げた。翌年に再び罕虔の旧拠点を攻撃し、三路より同時に進攻し、その酋長罕招らを捕らえ、また猛臉長官司に於いて緬甸の兵を破った。岳鳳は降伏した。論功行賞により太子太保を加官され、食禄は元の全額となった。また羅雄州で叛旗を翻した諸蛮族を平定し、再び銀幣を賜った。緬甸の兵が猛広を攻撃すると、沐昌祚は軍を集結させて永昌軍民府に塁壁を築き、緬甸人が遁走すると、那莫江まで追撃したが、瘴気の為に撤退した。(万暦)二十一年、緬甸人が再び侵攻したが、沐昌祚はこれを駆逐した。連戦連勝の結果、遂に緬甸を従属させたものの、たまたま蛮族間で内乱が発生した為に撤退した。
 沐氏は滇の地に在任すること長く、権勢は日増しに強まり、あたかも親王の様に尊重された。沐昌祚が外出した時、僉事楊寅秋が道を譲らなかったので、沐昌祚はその輿丁を鞭打ったという事が有った。楊寅秋が朝廷に訴えた事で、詔が下されて叱責を受けた。それ以降は病により、子の沐叡が任地を引き継いだ。武定軍民府の土酋阿克が叛き、府城を攻め、脅迫して府印を持ち去ってしまった。沐叡は逮捕投獄され、再び沐昌祚が任地を掌握した。死没すると、孫の沐啓元が跡を継いだ。その死没後、子の沐天波が跡を継いだ。十余年にして土司沙定洲が叛乱し、沐天波は永昌軍民府へ逃れた。叛乱が鎮圧されると、滇に復帰した。永明王朱由榔が滇に入ると、沐天波は元の職務に任じられた。次いで、緬甸への脱出に従った。緬甸人はこれを脅そうとしたが、屈服せず死んだ。初め、沙定洲の乱に際して、沐天波の母の陳氏・妻の焦氏は自ら火を放って死んだ。後に沐天波は緬甸に逃れたが、愛妾の夏氏は付いて行けず、自ら縊死した。数十日を経てから埋葬したものの、その遺体は腐敗しておらず、人々は節義の賜物だと口々に言い合ったものである。

【注釈】
(※1)流官、世襲に依らない官。世官と対を成す。
(※2)三司、明代では承宣布政使司・提刑按察使司・都指揮使司を指す。
(※3)土舎、土司の属官。

【校勘記】
〔一〕高良公山、本書内では「高黎共山」或いは「高黎貢山」となっている。
[PR]
by su_shan | 2016-09-08 18:40 | 『明史』列伝第十四