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元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

明玉珍

『明史』巻一百二十三、列伝第十一

 明玉珍、隋州の人。身長は八尺余りで、生まれつき重瞳の相であった。徐寿輝が挙兵すると、明玉珍は郷里の父老と共に千人余りを結集し、青山に駐屯した。徐寿輝が皇帝を僭称すると、人を送って明玉珍を招聘して言った。「来たらば共に富貴を得よう、来たらざれば兵を挙げて汝を屠ろうぞ。」明玉珍は部衆を引き連れて投降し、元帥となって沔陽府を鎮守した。元朝の将帥哈麻禿(ハマトゥ)と湖中に戦った際に、流れ矢が右目を射抜き、遂に隻眼となった。しばらくして、明玉珍は軍船五十艘を率いて川・峡の間を掠奪した後、引き揚げようとした。この時、元朝の右丞完者都(オルジェイドゥ)は重慶路で兵を募っており、義兵元帥楊漢が徴募に応じて駆け付け、明玉珍を殺害して軍を吸収しようとしたが、果たせなかった。楊漢は敗走して峡を脱出したが、明玉珍に遭遇すると洗い浚い白状して言った。「重慶路には大軍が居ない上に、完者都と左丞哈麻禿は折り合いが悪く、もし船を出して不意を突いて襲撃すれば、或いは占領できるかも知れませんぞ。」明玉珍が決めかねていると、部将の載寿が発言した。「好機を見逃す手はありませんぞ。船団を二つに分け、半分には糧秣を載せて沔陽府に戻し、残りの半分で漢兵が重慶路を攻める事として、上手くいかなければ財物を掠め取って帰れば良いのです。」明玉珍はその策を採用し、重慶路を襲撃し、完者都を敗走させ、哈麻禿を捕らえて徐寿輝の面前に献じた。徐寿輝は明玉珍に隴蜀行中書省右丞の地位を授けた。時に至正十七年の出来事である。
 程無くして、完者都が果州より侵攻して来ると、平章政事朗革歹(ランゲタイ)・参知政事趙資と合流し、重慶路を奪還しようと企図し、嘉定府路の大仏寺に駐屯したので、明玉珍は万勝を派遣してこれを防いだ。万勝は黄陂県の人で、智勇に優れ、明玉珍は特に重用し、自らの姓を名乗らせたので、周囲からは明二と呼ばれた事もあったが、後に元の姓に戻している。万勝は嘉定府路を攻撃したが、半年を費やしても占領できなかった。そこで明玉珍は軍を率いてこれを包囲し、万勝を派遣して軽装兵を用いて成都路を陥落させ、朗革歹及び趙資の妻子を捕らえた。朗革歹の妻は自ら長江に身を投じた。趙資の妻子は嘉定府路に送られ、趙資への降伏勧告に利用された。趙資は弓を引いて妻を射殺した。俄かに城が破られると、趙資及び完者都・朗革歹を捕らえて重慶路に帰還し、治平寺に軟禁し、登用しようとした。三人は聞き入れず、市中で斬殺されたが、礼節を以て埋葬され、蜀の人々は彼らを「三忠」と称えた。こうして、諸郡県は相次いで帰順していった。
 (至正)二十年、陳友諒が徐寿輝を弑逆して自立した。明玉珍は言った。「陳友諒とは共に徐氏に仕える臣下であったのに、このように正道に背くとは!」そこで兵を用いて瞿塘関を閉塞し、街道を封鎖した。徐寿輝の廟堂を城の南端に建立し、折々に祭祀を執り行った。自立して隴蜀王となり、劉楨を参謀とした。
 劉楨は、字を維周と言い、瀘州の人で、元朝の進士である。嘗て大名路経歴となったが、官を辞して自邸に戻っていた。明玉珍が重慶路を攻略するに際して、瀘州を通り掛かり、部将の劉沢民が彼を推薦したものである。明玉珍が往訪すると、共に語らって意気投合し、即日船中に招き入れ、礼節を尽くして歓待した。翌年、劉楨は人払いをして提案を行った。「西蜀は優れた地勢でございまして、大王はよくこの地を統治なさっておられます。戦乱の傷跡を休養し、賢人を登用して軍備を整える事で、不世出の偉業を成し遂げられましょうぞ。とは言うものの、この時に大号を用いて人心を繫ぎ留めず、一度でも将兵たちが故郷を思う様な事があれば、集団は分裂瓦解し、大王は建国する事すらままなりますまい。」明玉珍はこの提案を是とし、群臣と議論した結果、(至正)二十二年の春に重慶路に於いて皇帝位を僭称し、国号を夏とし、天統と改元した。妻彭氏を皇后として冊立し、子の明昇を太子とした。周制に倣い、六卿を設け、劉楨を宗伯とした。蜀の地を八道に分け、府州県の官名を改めて設置した。一方で、蜀の兵は諸国に比べて弱体で、精兵は一万に満たなかった。明玉珍には元々遠謀は無かったものの、性格は質素であり、有能な人材を重用した。即位すると、国子監を設け、公卿の子弟に教育を施し、提挙司教授〔一〕を設け、社稷宗廟を建立し、雅楽を振興し、進士科を開設し、賦税を定め、収穫の十分の一を徴収した。蜀の人々はみな安堵した。これらは何れも劉楨の発案によるものであった。
 翌年、万勝は界首より、鄒興は建昌路より、また指揮李某は八番より派遣して、経路を分けて雲南に侵攻した。その内の二路は到達しなかったが、ただ万勝の兵だけは深く侵入し、元朝の梁王を金馬山に敗走させた。翌年、梁王は大理の兵を伴って万勝に反撃し、万勝は孤立して支援が続かず退却した。再び鄒興を派遣して巴州を奪取した。しばらくして、六卿を改めて中書省枢密院とし、冢宰載寿・司馬万勝をそれぞれ左・右丞相に改め、司寇向大亨・司空張文炳は枢密院事を拝領し、司徒鄒興は成都路を鎮守し、呉友仁は保寧府を鎮守し、司寇莫仁寿は夔関を鎮守し、みな平章政事を与った。
 この年、万勝を派遣して興元路を奪取し、参知政事江儼を送って太祖(朱元璋)に好を通じた。太祖は都事孫養浩を派遣して返礼し、明玉珍に書状を送って言った。「貴殿は西蜀にあり、我は江左にある。まるで後漢末期の孫権と劉備の様ではないか。この頃、王保保(拡廓帖木児、ココテムル)は鉄騎精兵を率いて中原に割拠し、その意志は曹操に劣らず、荀攸や荀彧の様な謀臣、張遼や張郃の様な猛将を抱えているので、我ら両名は安心して休む事などできよう筈が無い。我と貴殿は正に親密な間柄の国であるのだから、願わくは孫権劉備の相克を教訓となされる様に。」これ以降、信使の往来が絶える事は無かった。
 (至正)二十六年春、明玉珍の病が重篤になると、載寿らを召し出して諭して言った。「西蜀の地は堅固であるから、もし皆が協力して一つになり、後継を補佐してくれれば、自然と守り切る事ができよう。そうでなければ、後の事は知った事では無いぞ。」こうして病没した。凡そ即位より五年、三十六歳であった。
 
 子の明昇が跡を継ぎ、開熙と改元し、明玉珍を長江の北岸に埋葬し、これを永昌陵と呼び、太祖と廟号した。母彭氏を称えて皇太后とし、政務に参画させた。明昇は僅か十歳であり、諸大臣はみな粗暴であった為、他者の下風に立つ事を潔しとしなかった。更に万勝と張文炳は仲違いし、万勝は密かに人を送って彼を殺害した。張文炳は明玉珍の養子であった明昭の覚えが厚かった為、また彭氏の令旨を偽造して万勝を縊り殺した。万勝は明氏にとって最も功績が多く、その死に際して、蜀の人々の多くが彼を憐れんだ。呉友仁は保寧府から檄文を飛ばし、君側の粛清を名目とした。明昇は載寿に命じてこれを討伐させた。呉友仁は載寿に書状を送って言った。「明昭を誅殺しなければ、必ずや国家は不安定になり、必ずや民衆は服従しなくなるであろう。朝方に明昭を誅殺すれば、我は夕方には帰参するものである。」そこで載寿は明昭の誅殺を上奏し、呉友仁は入朝して謝罪した。こうして諸大臣が物事を決裁するに際しては、呉友仁が最も専権を振るい、国勢は凋落し、益々衰えていった。万勝の死後、劉楨が右丞相となり、三年後に没した。この年、明昇は太祖に遣使して告哀し、次いで再び遣使して聘問した。太祖もまた侍御史蔡哲を派遣して返礼した。
 洪武元年、太祖が元朝の首都を占領すると、明昇は書状を奉じて祝賀した。翌年、太祖は遣使して大木を求めた。明昇は方物を献上した。洪武帝は璽書を用いて返答した。この年の冬、平章政事楊璟を派遣して明昇に帰順を要求した。明昇は拒絶した。楊璟は再び明昇に書状を送って言った。
  古来の国家というものは、同じ力を持つ者は徳を共にし、同じ徳を持つ者は義を共にするものでございます。故に自身も家系も全うする事ができ、果てしなく名誉が広まるのでございますが、これに背く者はただ敗れ去るのみでございます。貴殿は幼少であらせられますが、先人の偉業を受け継がれ、巴・蜀の地を支配なされた事により、諮らずとも計略はできあがる上に、群臣の提案を採用なされば、瞿塘関・剣閣の要害を頼みに、一人が戈を構えれば、万人を以てしても手が出せるものではございません。これらの全てが変化の到来を妨げ、貴殿のお言葉を誤らせているのでございます。嘗て蜀の地に拠って最も栄えた者の中で、漢の昭烈帝(劉備)に勝る者は居りません。更に諸葛武侯(諸葛亮)がこれを補佐し、官吏を選抜して守らせ、兵卒を訓練し、不足する資財は、全て南詔より調達したものでございます。ところが情勢が逼迫すると、僅かながら自らを守る事が精一杯でございました。今や貴殿の版図は、南は播州を越えず、北は漢中を越えず、これでは先例に対して遙かに隔絶しておられますのに、一隅の地に割拠し、僅かに生き永らえようとしても、賢明とは申せますまい。
  我が主上は仁聖威武にして、帰順する者に恩義を与えなかった事は無く、地勢の堅固に拠る者には後に征討を加えました。貴殿の先人とは好を通じていた事もあって、軍を動かすには忍びず、しばしば使節を遣わして意を示しました。また貴殿は年若くあれせられ、未だに事変を経験なされず、狂言に恐惑され、遠謀大計を見失っておられますので、再び私、楊璟を遣わして直接禍福を申し上げているのでございます。深仁厚徳にして、明氏は浅慮ではあらせられませんので、果たして貴殿のお考えが深からぬものでございましょうか。
  更に先の陳友諒や張士誠の輩は、密かに呉・楚の地に拠り、軍船を建造して江河を塞ぎ、糧秣を積載して山岳を抜け、勇将精兵を擁して、自らを無敵と称しました。ところが鄱陽湖で一戦すると、陳友諒は討ち死に、軍を返して東征すると、張氏は面縛致しました。これは人の力に頼ったものでは無く、正に天命にございました。貴殿はこれを如何にお考えでございますか。
  陳友諒の子は密かに江夏へ逃げ帰ったので、王の軍は討伐を敢行し、その勢いは逼塞して璧玉を咥える事になりました。主上はその罪過を許され、爵位を授けられましたが、その恩寵の盛んなる事は、天下の知る所でございます。貴殿はかの様な罪過もございませんので、心構えを翻され、自ら多くの幸福を求められるのであれば、必ずや封爵を授かり、先人の祭祀を守り、代々絶えず受け継ぐ事になりましょう。これが賢明では無い筈がございません。もし一隅に割拠し、僅かに生き永らえようと望まれたとしても、それは煮え滾る鼎に泳ぐ魚、帷幕の上に巣を作る燕の様なものでございまして、正に災禍が降りかかろうとしても、平然として気付かれる事もございますまい。私、楊璟は天朝の兵の到来を危惧致しますが、凡そ今日の貴殿の計略は、後日に自身の為の計略として、富貴を得ようとされておられるのでございましょう。正にこの時、老母や幼子は、何処に行き着くと仰るのでございますか。禍福にせよ利害にせよ、それを白日の下に晒す事ができるのは、貴殿の下す決断以外にございません。
明昇は遂に従わなかった。
 その翌年、興元路の守将が城を挙げて降伏した。呉友仁はしばしばこの地に侵攻したが、勝利を収める事はできなかった。この年、太祖は街道を借用して雲南へ遠征する為に遣使したが、明昇は詔を奉じなかった。
 (洪武)四年正月、命により征西将軍湯和は副将軍廖永忠らを率いて水軍を用いて瞿塘関より重慶路へ向かわせ、前将軍傅友徳は副将軍顧時らを率いて歩騎兵を用いて秦・隴より成都路へ向かわせ、蜀を討伐させた。当初、載寿は明昇に告げた。「王保保や李思斉の様な強者であっても明朝に対抗する事はできなかったのです。ましてや我々蜀ではどうする事もできないでしょう。一度でも危険があれば、いっそのこと出奔されては如何でございますか。」呉友仁は言った。「それは違う、我が蜀の地は山に囲まれ長江に面することは中原の比では無く、外交によって好を通じる一方、内々に備えを整えておくに勝るものはございません。」明昇はその案を採用し、莫仁寿を派遣して瞿塘峡の入り口に鉄索を張り巡らせた。そして載寿・呉友仁・鄒興らを派遣して兵を増強して支援させた。北は羊角山を拠点とし、南は南城砦を拠点とし、両岸の断崖を削り、鉄索を渡して飛橋を作り、木板を置いて砲を並べ敵を防いだ。湯和の軍は到着しても前進できなかった。傅友徳は階州・文州の備えが手薄である事を察知すると、前進してこれを破り、また綿州を破った。載寿は鄒興らを留めて瞿塘関を守らせ、自らは呉友仁と共に帰還し、向大亨の軍と合流して漢州を救援した。数度交戦して全て大敗を喫し、載寿・向大亨は成都路に敗走し、呉友仁は保寧府に敗走した。この時に廖永忠は瞿塘関を破っていた。飛橋鉄索は全て焼き落とされ、鄒興は矢に当たって戦死し、夏兵は全て潰走した。遂に夔州路を陥落させると、軍は銅鑼峡に差し掛かった。明昇は大いに恐れ、右丞劉仁は成都路へ脱出するよう勧めた。明昇の母彭氏は涙ながらに訴えた。「成都路に逃れた所で、僅かながら命を長らえるだけ。大軍の向かう所、その勢いは破竹の如く、早々に降伏して市井の民として生きる事に及ぶものはありませんよ。」こうして遣使して表を届け、降伏を申し出たのであった。面縛して口に璧玉を咥え、棺を担ぎ、母彭氏と属官を伴って軍門に降った。湯和は璧玉を受け取り、廖永忠は束縛を解き、申し出を受け入れて慰撫し、諸将に下令して掠奪を禁じた。一方で載寿・向大亨もまた成都路を挙げて傅友徳に降伏した。明昇ら全員を京師へ送致すると、礼部の臣が上奏した。「皇帝陛下は奉天殿に御座なされ、明昇らは平伏して午門の外で罪を請い、官吏が赦免文を読み上げるのです。孟昶が宋朝に降伏した時の故事に倣いましょう。」洪武帝は言った。「明昇は幼く、臣下であって、孟昶とは異なるものである。地に伏して表を差し出し罪を請うの部分は削除せよ。」この日、明昇に帰義侯の爵位を授け、京師に邸宅を下賜した。
 冬十月、湯和らは川・蜀諸郡県の悉くを平定し、保寧府に於いて呉友仁を捕らえ、遂に軍を帰還させた。載寿・向大亨・莫仁寿は船に穴を穿って自ら溺死した。
 丁世貞〔二〕という人物は、文州の守将であり、傅友徳は文州を攻撃した際、要害に拠って奮戦し、汪興祖を戦死させたものである。文州が破られると、遁走した。すぐさま再び兵を率いて文州を破り、朱顕忠を殺害したが、傅友徳が反撃してこれを敗走させた。夏が滅亡すると、残兵を集めて秦州を五十日間包囲した。軍が敗北し、夜になって梓潼廟に宿営していた所、その部下に殺害された。呉友仁は京師に到着すると、洪武帝は彼が漢中に侵攻し、初めに戦端を開き、明氏の亡国を導いたとして、市中で処刑された。他の将校には徐州を守らせた。翌年、明昇を高麗へ移した。

【校勘記】
〔一〕提挙司教授、『明史稿』伝九、明玉珍伝・『太祖実録』巻十六、丙午二月「是月」条はいずれも「提挙司教授所」としている。
〔二〕丁世貞、本書巻百二十九、傅友徳伝・『国朝献徴録』巻六、潁国公傅友徳伝は「丁世珍」としている。
by su_shan | 2016-12-18 20:12 | 『明史』列伝第十一