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by すーさん

汪広洋

『明史』巻一百二十七、列伝第十五

 
 汪広洋、字を朝宗、高郵府の人。太平路に移り住んだ。太祖(朱元璋)が長江を渡ると、招聘して元帥府令史とし、江南行中書省提控とした。正軍都諫司を設置すると、諫官に抜擢され、江南行中書省都事に遷り、中書省右司郎中に進んだ。次いで驍騎衛の事務を監督し、常遇春の軍務に参与した。贛州路を陥落させると、当地を鎮守し、江西行中書省参知政事を拝命した。
 洪武元年、山東地方を平定すると、汪広洋の清廉かつ明敏で慎重な様を評価して、山東行中書省の監督を命じ、新たに帰順した者を労わって受け入れたので、民衆は非常に安堵した。本年中に召還されて入朝し、中書省参知政事となった。翌年に陝西行中書省参知政事に出向した。(洪武)三年、李善長が病気になると、中書省の長官職が空席となった為、汪広洋を召還して左丞〔一〕とした。この当時、右丞〔一〕の楊憲が決裁を専断していた。汪広洋はこれに反抗した為に、楊憲に恨まれ、御史を唆して汪広洋が不徳にも母親を扶養していないと弾劾させた。洪武帝は叱責し、免官して郷里に帰らせた。楊憲は再び上奏し、海南に追放した。楊憲が粛清されると、召還された。その年の冬、忠勤伯に封じられ、食禄三百六十石とされた。その誥命は、繁雑な政務を的確に処理し、しばしば賢明な献策を行ったので、彼を張子房・諸葛孔明に準えて称賛したものである。李善長が病気によって引退すると、遂に汪広洋を右丞相とし、参知政事胡惟庸を左丞とした。汪広洋は何も建白しなかったので、しばらくして広東行中書省参知政事に左遷されたものの、洪武帝は内心で汪広洋に期待していたので、再び召還されて左御史大夫となった。(洪武)十年に再び右丞相を拝命した。汪広洋は酷く酒に耽り、胡惟庸と同調し、自らの地位を守る事にしか興味を示さなかった。洪武帝は何度か訓戒した。
 (洪武)十二年十二月、中丞涂節は劉基が胡惟庸によって毒殺された事、汪広洋がその事情を知っていた事を告発した。洪武帝が詰問すると、返答して言った。「その様な事はございません。」洪武帝は激怒し、汪広洋に僚友を庇い主君を欺いた罪を着せ、広南〔二〕に追放する事にした。船が太平府に差し掛かった頃、洪武帝は更に江西行中書省在任中に事実を偽って朱文正を庇っていた事、中書省在任中に楊憲の悪事を告発しなかった事についても追及し、勅を下して彼を誅殺した。
 汪広洋は若い頃、余闕に師事していたので、経書と史書に通じ、篆書体と隷書体に長け、歌詩に巧みであった。性格は柔和で慎み深いものであったが、悪人と同等の地位にあってはそれを排除する事が叶わず、その為に災禍が降りかかったのである。

【校勘記】
〔一〕左丞(汪広洋)・右丞(楊憲)、左丞の左は元は「右」、右丞の右は元は「左」であった。本書巻百九、宰輔年表によると、当時楊憲は右丞であり、汪広洋は左丞であった。『太祖実録』巻百二十八、洪武十二年十二月壬申条は、「汪広洋を召還して左丞とした。当時楊憲は山西行中書省参知政事の地位にあって、先に召還されて入朝し、右丞となっていた。汪広洋が着任すると、楊憲はその地位が自らを脅かす事を恐れ、事ある毎に多くの裁決を専断して譲らなかった。」とあるので、これに基づいて改めた。
〔二〕広南、本書巻百九、宰輔年表・『明史稿』伝十七、汪広洋伝・『太祖実録』巻百二十八、洪武十二年十二月壬辰条は何れも「海南」としている。


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by su_shan | 2016-12-24 16:20 | 『明史』列伝第十五