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by すーさん

朱升

『明史』巻一百三十六、列伝第二十四

 朱升、字を允升、休寧県の人。元朝末期に郷薦に挙げられ、池州路学正となり、厳格な講義を行った。蘄州路・黄州路で叛乱が発生すると、辞職して石門県に隠遁した。何度も兵乱を避けて逃げ回ったものの、一日として勉学を怠った事は無かった。太祖(朱元璋)が徽州路を陥落させると、鄧愈の推薦によって召し出され、国政について諮問を受けた。答えて言った。「高く城壁を築き、多くの糧秣を積み上げ、鷹揚として王を名乗るのでございます。」太祖はこれを喜んだ。呉元年に侍講学士を授かり、知制誥同修国史となった。老齢を理由として、特別に参内を免除された。洪武元年に翰林学士に昇進し、宗廟・時享・斎戒に関する礼法を制定した。次いで儒官らと共に『女誡』の編修を命じられると、古来の賢后・賢妃の模範とすべき事例を採用して纏め上げたのであった。大規模な功臣封爵が行われた際には、制詞の多くは朱升が撰定したものであった為に、典雅にして正確であるとの評判を得たものである。翌年、帰郷を請願し、七十二歳で没した。
 朱升は幼少時より勉学に励み、老齢に至っても飽きる事は無かった。特に経書の学に精通し、幾つかの経書に付した注釈は、的確に文意を汲み取ったものであった。学者たちは楓林先生と呼んだものである。子の朱同は礼部侍郎まで昇進したものの、ある事案に連座して死亡した。


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by su_shan | 2017-01-16 22:02 | 『明史』列伝第二十四