元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

章溢 子存道

『明史』巻一百二十八、列伝第十六

 章溢、字を三益、竜泉県の人。生まれた時の泣き声は鐘の様であったと言う。弱冠にして、胡深と共に王毅に師事した。王毅は、字を叔剛と言い、許謙の門人であり、郷里で教鞭を執り、経義を講釈し、聴講した者の多くが感銘を受けたものである。章溢は彼に従って遊歴し、共に聖賢の学を志し、生まれついての兄弟の様であった。嘗て金華県に遊歴した時、元朝の憲使禿堅不花(トゥジェンブカ)に礼遇され、彼が秦中へ転出する際には同行を求められた。虎林に差し掛かった頃、気が変わり、謝礼して立ち去った。帰郷後八日にして父親が没し、埋葬をしない内に、庵から火が立ち昇った。章溢は額を打ち付け、天を仰ぎ叫んだが、火は棺を安置していた場所にまで及び、焼き尽くしてしまった。
 蘄州路・黄州路の賊徒が竜泉県に侵入すると、章溢の甥の章存仁が捕らえられた為、章溢は身を挺して賊に告げた。「我が兄者が儲けたるは一子のみ。私が身代わりとなろう。」賊は章溢の名声を耳にしていたので、恭順させようと考え、柱に縛り付けたが、章溢は屈しなかった。夜半になり見張りを欺いて逃げ帰ると、里民を集めて義兵を組織し、賊を撃ち破った。俄かに官軍が到来し、乱を扇動した者全てを処刑しようとした。章溢は慌てて石抹宜孫に弁明した。「貧民は寒さに震え、腹を空かせております。それを成敗なさるとは何という事でございますか。」石抹宜孫はその通りであると思い、指示して兵を収め、章溢を帷幕に留めた。慶元県と浦城県の盗賊鎮圧に従軍した。竜泉県主簿を授かったが、受け取る事無く帰郷した。石抹宜孫は台州路を鎮守していたが、賊軍に包囲されてしまった。章溢は郷兵を率いて救援に駆け付け、賊を退けた。後に賊が竜泉県を陥落させると、監県宝忽丁が逃亡した為、章溢は師匠の王毅と共に壮丁を率いて賊を撃退した。宝忽丁は戻って来ると、内心恥じていたので、王毅を殺害して叛逆した。この時章溢は石抹宜孫の幕府にあったが、報告を受けると急いで戻り、胡深を伴って元凶を捕らえて殺戮し、兵を引き連れて松陽県・麗水県の諸賊を鎮圧した。長槍軍が婺州路に侵攻したが、章溢の兵が迫っている事を聞き付けると、散開して退いた。功績が評価されて浙東都元帥府僉事を授かる事になった。章溢は、「私が率いる者は全て郷里の子弟でございまして、彼らが臓腑を地に撒き散らしながらも、私だけが功名を貪るというのは忍びないものです。」と言って、辞退して受け取らなかった。義兵は子の章存道に委ねて、匡山に隠棲してしまった。
 明軍が処州路に勝利すると、これを避けて閩(福建)へ入った。太祖(朱元璋)は彼を招聘し、劉基・葉琛・宋濂と共に応天府へ赴いた。太祖は劉基らを労って言った。「我は天下の為に四先生に膝を折りますぞ。今や天下は紛糾しておりますが、何時になれば平定されますかな。」章溢が答えた。「天道に常道はございません。ただ徳のみこれを助け、殺人を嗜まざる者だけがこれを一とするのでございます。」太祖はその言葉を称え、営田司僉事を授けた。江東・両淮の田地を見て回り、地籍を分かち、税糧を定めたので、民衆の利便性は非常に高まった。病気を理由にしばらくの帰郷を申し出ると、太祖は章溢の母を思う気持ちを知り、手厚く恩賞を賜って帰省させる一方で、子の章存道を京師に留めた。浙東に提刑按察使が設置されると、章溢に僉事を命じた。胡深が温州路に出兵し、章溢に処州府鎮守を命じた所、糧秣の供給が遅滞する事は無く、民衆は苦労をしなかった。山賊が襲来したが、これを敗走させた。湖広道提刑按察僉事に遷った。時に荊州・襄樊の平定当初は、土地の多くが荒廃しており、兵を分かち屯田を実施し、更に北方を牽制させる事を提案した。この案は採用された。たまたま浙東道提刑按察使〔一〕の宋子顔・孔克仁らが職務に関連して逮捕されると、章溢に追及が及んだ。太祖は太史令劉基を送って諭した。「元より章溢殿は法令を遵守する事を御存知です。疑う余地はございません。」
 たまたま胡深が閩に侵攻して敗死すると、処州府が動揺したので、章溢に浙東道提刑按察副使を命じて当地の鎮守に向かわせた。章溢は処罰を許された経緯から、昇進には応じず、副使就任を辞退し、依然として僉事のままであった。到着すると、詔旨を発布し、叛乱の首謀者を誅殺し、全ての残党を鎮圧した。嘗ての義兵を召集して要害の地に割り当てた。賊が慶元県・竜泉県に押し寄せると、章溢は木柵を並べて陣営を構築したので、賊は敢えて侵入しなかった。浦城県の兵卒の食糧が欠乏すると、李文忠は処州府の糧秣を運搬して供給しようと考えた。章溢は船も車も通行に窮し、更に軍中での横領も多かった事から、官を介して等しく供給する様に要請し、漸く食糧は充足した。温州路の茗洋が賊となって暴れ回ると、章溢は子の章存道に命じてこれを捕らえ、斬殺した。朱亮祖が温州路を奪取すると、軍中に掠奪された子女が非常に多く、章溢はその全員を照合して家に帰らせた。呉(張士誠)が平定されると、章存道に詔して処州府を鎮守させ、章溢を召し出して入朝させた。太祖は群臣を諭して言った。「章溢は儒臣でありながら、地方に於いて父子共に尽力し、全ての盗賊を平定したのである。その功績は諸将に後れを取るものでは無い。」また章溢に対しては閩遠征に起用する諸将を尋ねた。章溢は答えた。「湯和殿は海路より、胡美殿は江西より攻めれば、必ずや勝てましょう。しかし、閩中に最も威信を轟かせておられる方は李文忠殿でございます。もし李文忠殿に浦城県より建寧路を奪取するようお命じなさいましたら、万全の策となりましょう。」太祖は章溢の方策に沿って李文忠に詔を授け、出兵させた。元々処州府の税糧は一万三千石であったが、軍事行動が頻繁に行われる様になるとそれは十倍に達した。章溢は丞相に事態を報告し、以前の状態に戻す為に上奏した。浙東地方では海船を建造する為に、処州府から大木を徴発していた。章溢は言った。「処州・婺州に於ける交通につきましては、山岳は険峻にして、木材は幾らでもございますが、一体どの経路より搬出なさると仰るのでございますか。」行中書省に建白して撤回させたのであった。
 洪武元年には劉基と共に御史中丞兼賛善大夫を拝命した。当時、廷臣が洪武帝の顔色を窺おうとして、多くの者が水面下で苛烈な闘争を繰り広げていたが、章溢だけは堂々としていた。ある者が理由を尋ねると、章溢は答えた。「御史台は百司の模範であって、他者に廉恥の別を教示せねばならぬのに、どうして打ち合いに頼って事を為そうとするものか。」洪武帝が自ら社稷壇を祀った時、たまたま激しい風雨に襲われたので、戻って来て外朝に腰を落ち着けると、儀礼に無い事象に怒り、天変が発生したものと考えた。章溢は丁寧に罪が無い事を説明したので、怒りを収めたという出来事があった。李文忠の閩遠征に際しては、章存道が郷兵一万五千人を率いて従軍した。閩が平定されると、章存道に詔して部隊を率いて海路より北征させようとした。章溢は反対して言った。「郷兵は全て農民でございます。兵事が収まれば生業に復帰する事を許すものでございますのに、今また徴集なさるとは、信義に悖る行いでございます。」洪武帝は喜ばなかった。改めて上奏した。「既に閩遠征に参加した兵は、郷里に帰らせましょう。以前叛逆した民衆を軍籍に編入した上で北進させれば、一挙に恩義と威信を高めるでしょう。」洪武帝は喜んで言った。「誰が儒者を迂闊と言ったのか。先生の御一行で無ければ、上手く処置できる者など居らぬよ。」章溢は処州府に赴いたが、母の逝去に遭った。守制に服する事を申し出たが、認められなかった。既に郷兵の召集は完了していたので、章存道に永嘉県より海路を進んで北上するよう命じ、再び上書して終制に服する事を申し出た所、詔によって認められた。章溢は過度の悲哀に暮れ、埋葬に際しては自ら土石を運んだが、病を発症して病没した。五十六歳〔二〕であった。洪武帝は悲痛の余り、自ら弔文を記し、一族に祀らせたのであった。

 章存道、章溢の長男である。章溢が太祖の招聘に応じると、章存道は義兵を率いて総管孫炎の指揮下に入った。孫炎は上流の守備を命じ、しばしば陳友定の兵を退けた。後に処州翼元帥副使を授かり、浦城県に駐屯した。総制胡深が戦死すると、その軍を代行して統率する事を命じられ、遊撃の役割を与えられた。章溢は処州城にあって当地を鎮守した。章溢は父子で指揮を執る事は軍律上の問題があるとして、章存道を役職から罷免するよう上奏したが、認められなかった。兵を転進させて閩に遠征した際には、処州府を鎮守していた章存道に詔して、再び郷兵を率いて、李文忠に従って閩に侵攻させた。帰還すると、海路より京師へ赴いた。洪武帝は彼を称え、馮勝に従って北征を命じた。功績により処州衛指揮副使を授かった。洪武三年には徐達の西征に従い、興元路を留守し、蜀(明昇)の部将呉友仁を破り、再び平陽県を鎮守し、平陽左衛指揮同知に転出した。(洪武)五年、湯和に従って出塞し陽和へ遠征したが、断頭山に於いて敵軍と遭遇し、奮闘するも戦死した。

【校勘記】
〔一〕浙東道提刑按察使、宋思顔の官職名について、本書巻百三十五、本伝は「河南道按察僉事」であり、『明書』巻百十六、章溢伝は「河南按察使」であり、孔克仁と並んで「浙東按察使」となっているのが間違いであれば、伝文に錯誤があるのだろう。
〔二〕五十六歳、元は「六十五歳」であり、『太祖実録』巻四十一、洪武二年五月辛酉条・『国榷』巻三、頁三百九十一・『国朝献徴録』巻五十四、御史中丞章公溢神道碑銘に基づき改めた。


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by su_shan | 2017-01-24 00:34 | 『明史』列伝第十六