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by すーさん

開済

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 開済、字を来学、洛陽県の人。元朝末期に察罕帖木児(チャガンテムル)の掌書記となった。洪武初年、明経として採用された。河南府訓導を授かり、入朝して国子監助教となった。病気により辞職して帰郷した。(洪武)十五年七月、御史大夫安然が開済の才幹を推薦した為に、召し出して刑部尚書として試用し、翌年に正式に任命した。
 開済は詳細に調査を行う事を自らに課し、各地の諸官庁に帳簿を備え付け、毎日の事務を書き記し、成否を評価し、また各部署は往復文書を照らし合わせ、規定を作り、功罪を定めるよう提案した。また軍民で些細な罪を犯した者については、即座に判決して処置すべきである、とも言った。数ヶ月で滞留した書類は一掃された。洪武帝(朱元璋)は大いにその才能を認めた。たまたま都御史趙仁が、以前「賢良方正」「孝弟力田」などの科目で採用された文士が郡県に列席しているが、その多くが役職を与えられず、去留を考査すべきであると発言した。開済が提出した意見は、「経明行修」を一科目とし、「工習文詞」を一科目とし、「通暁書義」を一科目とし、「人品俊秀」を一科目とし、「練達治理」を一科目とし、「言有条理」を一科目とし、六科目全てを備える人物を上とし、三科目以上であれば中とし、三科目未満であれば下とするものであった。この意見が採用された。
 開済は聡明で弁才があり、およそ国家の経制・田賦・獄訟・工役・河渠に関する事柄は、余人にはとても裁定出来るものでは無かったが、開済は一人で計画し、道理や筋道を備えていたので、代々遵守すべきものとなった。故に洪武帝からの信任は非常に厚く、何度も顧問として控え、他部の事に関与した。これによって人は毛嫌いし、悪評が立ち昇った。一方で開済も懸念し、法に則ってよく人を中傷した。嘗て、法律の不備改善を命じられた事があった。開済の指摘は精緻を極めた。洪武帝は言った。「細やかな網を張って民衆を縛れば良いと思っておるのか?」また「寅戌の書」と言う文書を用意して、属僚の入退を管理した。洪武帝は叱責した。「昔の人でも卯の刻から酉の刻とするのが常識であったのに、今になって朝は寅の刻から夜は戌の刻まで仕事をさせては、一体いつ父母を労わり、妻子と顔を合わせよと言うのか!」また属僚を戒める為の立て札を作り、文華殿に掲示するよう提案した。洪武帝は言った。「属僚を戒める言葉で以て、朝廷を牛耳りたいのであろう。それが人臣の礼であるものか。」開済は恥じて謝罪した。
 後に、開済の指示で郎中仇衍がある死刑囚を逃がしたが、獄官に摘発されてしまった。開済は侍郎王希哲・主事王叔徴と共に獄官を捕らえて殺害した。同年十二月、御史陶垕仲らがその事件を告発した。更に発言を続けた。「開済は上奏を行う時、奏文を懐中に留め、或いは隠して言わず、陛下の顔色を窺っており、職務に際してはどっちつかずの態度で、その狡猾さは想像を超えております。甥の娘を奴婢として扱っております。また妹は早くに寡婦となっておりますが、姑を追い出して家財を奪っております。」洪武帝は激怒して開済を獄に下し、王希哲・仇衍らと共に棄市に処したのであった。


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by su_shan | 2017-02-24 00:59 | 『明史』列伝第二十六