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by すーさん

唐鈬 沈溍

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 唐鈬、字を振之、虹県の人。太祖(朱元璋)の挙兵当初から側近に仕えた。濠州を守り、江州路平定に従軍し、西安県丞を授かり、召還されて中書省管勾となった。洪武元年、湯和が延平路に勝利すると、唐鈬を知府とし、新たに帰順した人々を慰撫したので、民衆は安堵した。三年が過ぎ、入朝して殿中侍御史となり、再び出向して紹興知府となった。(洪武)六年十二月に召還されて刑部尚書を拝命した。翌年に太常卿に異動した。母親の喪に際し、特別に半俸を支給された。
 (洪武)十四年、服喪を終えると、復帰して兵部尚書となった。翌年、初めて諫院が設置されると、諫議大夫となった。嘗て洪武帝(朱元璋)は侍臣と歴代王朝の興亡について語り合った事があった。「朕の子孫が成王や康王たらんとし、周公旦や召公奭の様な輔弼の臣が居れば、天に祈って命を永らえようが。」唐鈬は進み出て言った。「元より教育は良好でございますので、左右の者から輔導の臣をお選びなさいましたら、宗廟と社稷の祝福は万年に及びましょう。」また洪武帝は唐鈬に言った。「人には公私の別がある。故にその言葉には正邪が介在する。正言は規則や戒めを言い、邪言は誹謗や迎合を言うのだ。」唐鈬は言った。「誹謗の徒は忠誠を装って近付き、迎合の徒は親愛を装って近付きますが、目を眩まされる事さえ無ければ、讒侫の輩は勝手に遠のくものでございます。」間も無く、監察御史に左遷された。優秀で能力のある在京の官僚を選抜して各地の郡県を巡らせ、賢才を発掘し、官吏として登用し、経験豊富な年長者で声望のある人物を抜擢して、承宣布政使司や提刑按察使司の職務に命ずるよう提案した。洪武帝はこれを採用した。その後、再び右副都御史に抜擢され、刑・兵二部の尚書を歴任した。(洪武)二十二年、詹事院が設置されると、吏部に命じて言った。「太子を輔導する者には、必ずや端正かつ穏健な人物を選抜せねばならぬ。三代(夏・殷・周)の保傅の役目にあった者は、その礼節は非常に尊厳のあったものである。兵部尚書唐鈬よ、汝は謹厚有徳の人格者であり、故に詹事を命ずるが、従来通り尚書の俸給を受領せよ。」唐鈬が選ばれたのは、以前に教育の意義を進言した為であった。同年中に辞職した。
 (洪武)二十六年に太子の賓客として起用され、太子少保に昇進した。(洪武)二十八年、竜州土官の趙宗寿は鄭国公常茂の死に関して不実を上奏し、召喚を命じられたものの出頭しなかった為、洪武帝は激怒し、楊文に大軍を統率して討伐を命じる一方、唐鈬に説得を命じた。唐鈬が到着すると、実際は常茂が病死していた事が判明し、趙宗寿もまた罪を認めて来朝した。そこで楊文に詔して奉議諸州の諸蛮族討伐の為に軍を転進させ、唐鈬に軍事を参議させた。翌月、蛮族討伐が完了した。唐鈬は情勢を考慮し、奉議衛及び向武州・河池州・懐集県・武仙県・賀県等の地域に守御千戸所を設け、官軍を置いて鎮守させるよう提案した。全て認可された。
 唐鈬の人格が優れている点は、注意深い性格で、妄りに金品の授受をしなかった事である。洪武帝は古くからの付き合いで唐鈬と接し、次の様に言った。「唐鈬は友人から臣下となって今や三十数年が過ぎたが、他人との交際に関して、変節する事は無く、また一度の不正も聞いた事が無い。」また、次の様にも言った。「都御史詹徽は悪事を憎んで強硬に断を下し、胥吏の勝手を許さず、誹謗の声は朝廷に満ち溢れておる。唐鈬は落ち着いた人柄であるから、柔弱に物は言うが手は出さぬ。古来の気風が失われてしまったと言うのは、その通りであろうな。」後に詹徽は突然罪を得て誅殺されてしまったが、唐鈬の厚遇振りは変わる事が無かった。(洪武)三十年七月に京師で没した。六十九歳であった。贈賻は非常に手厚く、官署に命じてその亡骸を護衛して故郷へ帰し埋葬させたのであった。

 沈溍、字を尚賢、銭塘県の人。唐鈬と共に兵部に在籍し、明敏と称された。洪武帝は勲臣の子弟の多くが法律を蔑ろにしていた為に、『御製大誥』二十二編を選定し、各地に告諭して武臣は全て音読するよう命じ、気を引き締めさせた。次いで、諭戒八条を用いて将兵に頒布した。当時、沈溍は兵部侍郎として試用されながら部内を取り仕切っていたが、訓戒に関する一切の処置は、全て上意を得た後に実行した。次いで兵部尚書へ昇進した。広西都指揮使司が譙楼を建設し、青州衛が兵器を製造したが、何れも民間の資財を勝手に徴発して行われたものであった。沈溍は都指揮使司や衛所が行う営作は、必ず都督府が準えて上奏し、官庁が材料を支給し、勝手に民衆を使役させない事、違反者は取り調べて処分する事、更に武臣の民事関与を禁止する事を提案した。当時、軍事活動は沈静化していたが、武臣は横暴に振る舞い、しばしば法治に違えた。ここに至って統制されたのは、沈溍の力によるものであった。以前、洪武帝は国家の統治を安定させる為の秘訣は、賢才を進めて不才を退ける事だと説明した。そこで沈溍は言った。「君子は常に少なく、小人は常に多いものでございますから、吹き渡る風に晒して磨き上げるのみでございます。そうすれば賢者は頭角を現し、不仁の輩は遠ざかりましょう。」洪武帝はその発言に賛同した。(洪武)二十三年に沈溍と工部尚書秦逵が入れ替わりの異動となり、誥文を賜わって表彰を受けた。次いで旧職に戻されたが、後の事案によって罷免された。
 明朝初期、衛所世籍と兵卒勾補の規則は、全て沈溍が制定したものである。しかしながら、形式が細かく、帳簿は繁雑であり、胥吏は容易く悪事を働き、結果として明朝一代を通して特に民間にとって害悪と化した一方で、軍衛もまた日毎に摩耗していった事は、『明史』兵志に詳しい。潮州の生員陳質は、父親が戍籍に登録されていた。父親が死没すると、陳質は勾補されたので、帰郷して卒業する事を願い出た。洪武帝は陳質の戍籍を削除するよう命じた。沈溍は軍伍に欠員が生じるとして反対した。洪武帝は言った。「国家にとって、一兵卒は得易いが、一文士は得難いものである。」こうして陳質は戍籍から解放された。無論、これが特別な恩恵であった事は言うまでも無い。


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by su_shan | 2017-02-27 15:10 | 『明史』列伝第二十六