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by すーさん

単安仁 朱守仁

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 単安仁、字を徳夫、濠州の人。若くして府吏となった。元朝末期に江淮地方で民衆叛乱が発生すると、単安仁は義兵を集めて郷里を守り、枢密院判官の地位を授かった。鎮南王孛羅普化(ボロトブカ)に従い揚州路を鎮守した。当時、群雄が四方に決起し、単安仁は悲嘆して言ったものである。「あの連中は放っておいても一掃されよう。王者の勃興は、自ずと別物なのだ。」鎮南王が長槍軍によって追い払われると、単安仁は所属する先を失ったが、太祖(朱元璋)が集慶路を平定した事を耳にすると、「これぞ本物の王者よ。」と言い放ち、一軍を率いて帰順したのであった。太祖は喜び、その軍を率いたまま鎮江府の鎮守を命じた。単安仁は軍伍を整え、敵は敢えて侵攻しなかった。常州府鎮守に移ると、単安仁の子が叛いて張士誠に降伏したものの、太祖は単安仁の忠誠を熟知していたので、疑う事は無かった。しばらくして、浙江提刑按察司副使に異動した。強引に将帥が民衆から徴発を行う事を「寨糧」と呼んでいたが、単安仁は法律によって規制した。按察使に昇進し、中書省左司郎中に取り立てられ、李善長の裁断を補佐した。瑞州守御千戸に派遣された後、入朝して将作監卿となった。
 洪武元年に工部尚書に抜擢されたものの、依然として将作監の業務を領導していた。単安仁は精密かつ敏捷で知略に優れ、諸々の造営事業は、規模の大小を問わず、非常に上手く上意を反映したものであった。翌年に兵部尚書へ異動し、老齢を理由に帰郷を申し出た。田地三千畝、牛七十頭を賜り、年間に尚書の俸給の半額を支給された。(洪武)六年に山東行中書省参知政事に起用されたものの、辞退を懇願し、認められた。自宅に在りながら、儀真県の南壩から朴樹湾に至る地点を浚渫して官民の舟運を助ける事、運河を通して江都府の港湾の水深を下げて泥の堆積を防ぐ事、瓜州の官倉を揚子橋の西側に移設し、長江の風潮被害を避ける事を提案した。洪武帝はその意見に賛同した。再び兵部尚書を授けられ、辞職した。当初、尚書の品級は正三品であった。(洪武)十三年に中書省が廃止されると、初めて正二品に昇格されたのであるが、単安仁の辞職はそれ以前の出来事であった。洪武帝は単安仁の勲功に配慮し、(洪武)二十年に特例として資善大夫を授けた。同年十二月に没した。八十五歳であった。

 徐州の朱守仁は、字を元夫と言い、元朝末期に郷里保全の功績によって枢密院同知の地位を手に入れ、舒城県を鎮守した。明軍が廬州路を陥落させると、城を挙げて帰順し、工部侍郎に累進した。洪武四年には尚書に昇進し、勅命を奉じて山東地方の官吏を監察し、上意に応えた。次いで北平行中書省参知政事に異動した。ところが食糧の供給を維持出来ず、蒼梧知県に左遷された。当初、朱守仁が袁州知州であった頃、上手く戦禍を治めたので、特に民衆の評判を得たものであった。そこで容州・高唐州の知州を兼任させた所、善政を敷いたのであった。(洪武)十年に四川承宣布政使に昇進しても、その統治は簡潔ながら厳かであった。老齢を理由に辞職した。ある事案に連座した為に労役を課されたものの、特別に釈放された。(洪武)十五年に雲南が平定され、威楚路・開南州等の宣撫司が楚雄府に改編されると、朱守仁は知府を命じられた。流民を招集し、徭役を均等にし、学校を建て、領内は安定した。(洪武)二十八年に提言の為に入朝しようとすると、現地の人々は涙を流して見送ったものである。太僕寺卿を拝命すると、最初に馬を飼育する為の草場を江北地方の滁州各所に設置するよう提案した。太僕寺は十四監九十八群の草場を所管し、多くの馬を繁殖した。馬政の発展は朱守仁の代に始まったのである。しばらくして辞職した。永楽初年に入朝したものの、病気を発症して没したのであった。


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by su_shan | 2017-03-06 12:03 | 『明史』列伝第二十六