人気ブログランキング | 話題のタグを見る

元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

楊思義 滕徳懋 范敏 費震 張琬

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 楊思義は本籍が判明していない。太祖(朱元璋)が呉王を称すると、起居注を授かった。当初、銭穀に関する権限は中書省に属していた。呉元年に初めて司農卿が設けられると、楊思義が就任した。翌年に六部が設けられると、戸部尚書に異動した。甚大な戦禍の後であり、人々の多くが生業を失っていた。楊思義は民間で桑や麻を栽培させ、四年後からその税を徴収し、桑を植えない者は絹を、麻を植えない者は布を納めさせるという、『周官』の里布法の様な提案を行った。詔が発せられ、認可された。洪武帝(朱元璋)は洪水や旱魃が思いがけず発生すると、事態が切迫してからでは手の施しようが無いと考え、楊思義に命じて各地に予備倉を用意させ、洪水や旱魃の害を予防させた。楊思義にとって国家の大計とは、農耕と養蚕によって備蓄を積み上げる事が急務であった。凡そ事業を興した部分は、それが上意によるものであっても、計画は精緻を極め、当時ではその能力を高く評価されたものである。陝西行中書省参知政事に異動し、在任中に没した。

 洪武朝一代を通して見ると、戸部尚書となった者は四十人余りを数えたが、何れも在任期間が短く、著しく功績を挙げた者は少ない。ただ茹太素・楊靖・滕徳懋・范敏・費震らは、程度の差はあれど名声を得ている。茹太素・楊靖については自伝がある。
 滕徳懋は字を思勉と言い、呉県の人である。中書省掾から外官を歴任した。洪武三年に召還されて兵部尚書を拝命し、次いで戸部尚書に異動した。その為人は弁才が有り、器量は広く、奏疏に長じ、一時は招来や詔諭文の多くがその手によったものである。ある事案によって罷免され、没した。
 范敏は閿郷県の人である。洪武八年に秀才に挙げられ、戸部郎中に抜擢された。(洪武)十三年に戸部尚書として試用された。老齢の儒者である王本らを推薦し、何れも四輔官を拝命した。洪武帝は徭役が均等では無い事から、黄冊の編集を命じた。范敏は百十戸を一里とし、人数の多い戸の十人を里長とし、里内の事務を統括する役目を一年間担当させ、十年で一周させ、残りの百戸は十甲とするよう提案し、この制度は後々まで踏襲されて廃止されなかった。職務に耐えず、翌年に罷免された。
 費震は鄱陽県の人である。洪武初年に賢良として登用され、吉永知州となり、寛容な統治によって民心を集め、漢中知州に抜擢された。その年は凶作で盗賊が発生したので、官倉を開放して粟十数万斛を民衆に貸与し、秋には収穫を官倉へ回収させた。盗賊はこれを聞くと、皆が帰順した。居宅に住まわせて保伍を構成させる事で数千家を得た。報告を受けた洪武帝はこれを喜んだ。後にある事案によって逮捕されたものの、善政の功績によって特赦され、宝鈔提挙となった。(洪武)十一年、洪武帝は吏部に指示した。「資格とは手順の為だけに設けられたものである。才能ある人物は順序に関係無く登用せよ。」こうして九十五人が抜擢され、費震は戸部侍郎を拝命し、次いで戸部尚書に昇進した。勅命を奉じて丞相・御史大夫以下の食禄の制度を規定した。湖広承宣布政使に出向し、老齢を理由に引退した。
 洪武初年には、張琬という人物が居り、鄱陽県の人である。貢士試高等として登用され、給事中を授かり、戸部主事へ異動した。ある日、洪武帝は各地の財政・戸数人口について尋ねた。張琬は余す所無く即答した。洪武帝は喜び、取り立てて戸部左侍郎に抜擢した。謹身殿が罹災した時には、行政の問題点を指摘した。飢餓が発生した年には、百万石余りの租税を免除するよう提案した。何れの件についても聞き入れられた。張琬の敏才は計画性に富んでいたが、二十七歳にして在任中に没した。当時の人々はその死を惜しんだものである。


by su_shan | 2017-03-08 20:59 | 『明史』列伝第二十六