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by すーさん

周禎 劉惟謙 周湞 端復初 李質 黎光 劉敏

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 周禎、字を文典、江寧県の人。元朝末期に湖南地方へ移り住んだ。太祖(朱元璋)が武昌路を平定すると、登用されて江西行中書省僉事となり、大理寺卿を歴任した。太祖は唐・宋時代の完成した律令には断獄の条が有ったが、元朝は事有る毎に条格を作成するだけで、胥吏の不正は容易であったと考えた。周禎と李善長・劉基・陶安・滕毅らに詔して律令の制定を命じ、周禎は大理寺少卿の劉惟謙・大理寺丞の周湞と共に作業に当たった。律令が完成すると、太祖は称賛した。
 洪武元年に刑部が設置されると、周禎は刑部尚書となり、次いで治書侍御史へ異動した。翌年に出向して広東行中書省参知政事となった。当時、行中書省の省庁は開設されたばかりで、正規の官僚の多くが欠員状態にあり、地方官の業績にも善事悪事が乏しかった。香山県丞の沖敬は善政を敷いたが、疲労から在任中に没し、周禎は文章を記して彼を祀った。これを聞いた者は感動した。その当時の郡邑で評判の有った官、雷州同知の余騏孫・恵州知府の万迪・乳源知県の張安仁・清流知県の李鈬・掲陽県丞の許徳・廉州知府の脱因(トイン)・帰善知県の木寅については、周禎が全員の業績を列挙して報告したものである。木寅は土司で、脱因は蒙古人であった。こうして、麾下の官吏は益々精励した。(洪武)三年九月に召還されて御史中丞となった。次いで病気により引退した。洪武帝(朱元璋)の即位当初は、元朝による放漫経営への反省から、法令を厳格に運用したので、執行する者は恐々としていた。律令が完成すると、官吏は初めて遵守する事を覚えたのであった。律令は後に何度も改正されたが、それらは全て周禎の手による物を発端としているのである。

 劉惟謙は何処の出身か判明していない。呉元年に才学として挙げられた。洪武初年に刑部尚書まで歴任した。(洪武)六年に新律の詳定を命じられると、無駄な部分や古い部分を削除し、適切に調整した。洪武帝は自ら裁定を加えた上で頒布した。後にある事案によって罷免された。
 周湞は字を伯寧と言い、鄱陽県の人である。江西十才子の一人であり、官職は刑部尚書に達した。
 洪武朝一代を通して、刑部尚書となった者は四十数人、中でも楊靖は最も著名であるが、端復初・李質・黎光・劉敏もまた名声を得ている。
 端復初は字を以善と言い、溧水州の人である。子貢(端木賜)の末裔で、姓を一字省略し、端氏を名乗った。元朝末期に胥吏となった。常遇春が金華府を鎮守していた際に帷幕に招かれた。間も無くして辞去した。太祖はその名声を聞き、召し出して徽州府経歴とした。民衆に自ら所有する田地を申告させ、図籍を編纂し、数々の悪弊を一掃した。しばらくして磨勘司令に異動した。当時は官庁が新設されたばかりで、行政文書が山積みされていたが、端復初は精査して何一つ残さなかった。洪武帝はそれを称賛した。その性格は峻厳で、他人は私的な交際を避けた。属僚の多くが汚職により失脚する中、端復初だけは潔白の為に難を逃れたものである。洪武四年に刑部尚書を拝命し、公正に法律を執行した。杭州府での糧秣横領事件が発覚すると、百人以上が逮捕された。詔を発して端復初に調査させ、真偽を立証し、知府以下の容疑者は全て罪に服した。翌年に出向して湖広行中書省参知政事になると、新たに帰順した民衆には一年間の賦税を免除させた。果たして流民は集まり、その行政手腕は評判になった。ある事案によって召還され、没した。子の端孝文は翰林院待詔となり、端孝思は翰林院侍書となった。前後して両名とも朝鮮に遣使され、何れも清節著しい人柄であった事から、朝鮮の人々は双清館を建設したと言われている。
 李質は字を文彬と言い、徳慶路の人である。才幹と知略に優れていた。元朝末期には何真の麾下に属し、募兵して徳慶路の民乱を鎮圧したので、近隣地域の多くがその保障を頼った。嶺南地方の名士、茶陵州の劉三吾・江右の伯顔子中・羊城の孫蕡(※1)・建安県の張智らは、みな彼に礼節を尽くしたものである。洪武元年に何真に従って降伏し、中書省断事を授かった。翌年に大都督府断事に異動し、強力に法律を執行した。(洪武)五年に刑部侍郎に抜擢され、刑部尚書に昇進すると、公平寛大に判決を下した。山東地方の飢饉復興の為に派遣されると、洪武帝は手ずから詩文を贈った。次いで出向して浙江行中書省参知政事となった。在任期間三年の間に、その業績は著しく知れ渡った。洪武帝は李質の年齢に配慮して召還した。以前、便殿に呼び出され、行政に関する事を尋ねられた。李質は包み隠さず直言した。靖江王(朱守謙)の右相を拝命した。靖江王が罪を得て廃絶されると、その責任から李質は処刑されたのであった。
 黎光は東莞県の人である。郷薦として御史を拝命し、蘇州府を巡察した際には、水害復興を要請し、生活を取り戻した者は非常に多かった。鳳陽府を巡察した際には、封事を提出し、悪習の悉くを取り払ったものである。洪武帝はこれを称賛した。洪武九年に刑部侍郎に抜擢され、法律の執行は公正無私であったが、御史大夫陳寧の恨みを買い、ある事案によって死に追いやられた。
 劉敏は粛寧県の人である。孝廉に挙げられ、中書省の胥吏となった。その生活振りは、夕方に竜江で蘆葦を買い求め、朝方には荷車に載せて帰宅し、妻に筵を織らせ、それを売って母親を世話し、その後に入朝して職務に当たったものである。清廉潔白な人柄で、ある者が陶器瓦を贈っても受け取らなかった程である。楚相府録事に就任すると、中書省は官没処分を受けた家の女性を文臣の家に給付していた為に、周囲の者は給付を要請して母親を世話させるよう勧めた。劉敏は固辞して言った。「母親の世話は息子や嫁の務めで、他人にさせるものでは無い。」中書省の官僚が失脚し、胥吏の多くが粛清されるに及んでも、劉敏だけは無関係であった。洪武帝はこれを評価し、工部侍郎に抜擢し、刑部侍郎へ異動させた。出向して徽州府同知となると、善政を敷いたが、在任中に没したのであった。

【注釈】
(※1)羊城の孫蕡、羊城は広州の別称。『曝書亭集』巻六十三、伝二、孫蕡伝には「孫蕡、字を仲衍、広州順徳の人」とある。


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by su_shan | 2017-03-12 15:11 | 『明史』列伝第二十六