人気ブログランキング |

元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

楊靖 凌漢 厳徳珉

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 楊靖、字を仲寧、山陽県の人。洪武十八年の進士で、吏科庶吉士〔一〕に選抜された。翌年に戸部侍郎に抜擢された。当時、諸官庁に配属される者は、進士及び太学生から構成されていたが、時には例外もあった。洪武帝(朱元璋)は『御製大誥』を編纂すると、通政使蔡瑄・左通政茹瑺・工部侍郎秦逵及び楊靖を挙げ、揚言した。「彼らもまた進士・太学生である。よく職責を果たし、朕の意志を広められよう。」その称賛振りは、この様なものであった。
 (洪武)二十二年には戸部尚書に昇進した。翌年五月に詔が発せられ、在京の官僚は三年で異動する事が定められた。こうして刑部尚書趙勉と楊靖は官職を交替した。洪武帝は諭して言った。「愚民共はまるで飲み食いをするかの様に法律を犯しおる。新たな法律を設けて防げば、それを犯す者は益々増えてゆく。寛容を広めて仁徳を行き渡らせれば、或いは感化出来るやも知れぬ。たった今より、十悪の罪を犯した者及び人を殺めた者は死刑とし、他の罪を犯した者は全て北辺へ粟を運ばせよ。」また次の様にも言った。「在京の獄囚は、卿らが覆奏し、朕自ら判決を下しておるが、尚も誤断の恐れが有る。ましてや在外の各官が処理した案件など、どうして適切であると言えようか。卿らが審判し、その後に官を派遣して判決せねばならぬ。」上意に従って楊靖が検証すると、多くの案件で冤罪が確認された。洪武帝は喜んで報告を受け入れた。以前、ある武官を取り調べた時、門番がその身体を検査すると、大きな珠玉を発見し、属僚たちが驚いた事が有った。楊靖は落ち着き払って、「これは偽物である。この様な巨大な珠玉などあろう筈が無かろう。」と言い放ち、砕いてしまった。その出来事が耳に入ると、洪武帝は感心して言ったものである。「この楊靖の処置には、四つの美点が有る。一つ目は、珠玉を朕に献じて歓心を買おうとしなかった事。二つ目は、珠玉を譲り渡すよう強要しなかった事。三つめは、門番を称賛せず、小人の僥倖を阻止した事。四つ目は、千金の価値はあろう珠玉が突然目の前に現れても、ほぼ動揺せず、人に勝る知恵と、臨機応変の才能を持っておる事だ。」
 (洪武)二十六年には太子賓客を兼任し、両方の俸禄を支給された。後に、ある事案によって罷免された。竜州の趙宗寿討伐に際して、楊靖に詔して安南から粟を運び討伐軍に供給するよう説得させる事にした。楊靖は庶民の格好で出立した。安南の宰相である黎一元は、陸運では道中が険しく実現困難として、詔を承諾しようとしなかった。楊靖は繰り返し説得を行い、水運による実施を認めさせた。黎一元は粟二万を運んで沲海江に到着し、そこから浮橋を設置して竜州に到達した。洪武帝は非常に喜び、楊靖は左都御史を拝命した。楊靖は忠実で知略に優れ、多忙な業務を上手く処理し、審理は的確でありながら、過酷なまでに法律を執行する事は無かった。その厚遇振りは最も顕著で、同輩で並ぶ者は居なかった。(洪武)三十年七月、楊靖は同郷人が申し出た冤罪の訴えを意図的に粉飾した為に、御史の弾劾を受けた。洪武帝は激怒し、楊靖は死を賜った。当時三十八歳であった。

 同時期の人物で、凌漢は字を斗南と言い、原武県の人である。秀才として挙げられ、『烏鵲論』という作品を提出した。官職を授かり、御史を歴任した。陝西を巡察し、管内の何点かの問題を報告した。洪武帝は喜び、凌漢の子を呼び出して衣裳と宝鈔を賜った。凌漢の取り調べは公平であった。京師に帰還すると、凌漢に肖ろうとする者が酒を持参し、金を渡そうとした。凌漢は言った。「酒は飲めるが、金は受け取れぬ。」洪武帝はそれを聞いて喜び、右都御史に抜擢した。当時、左都御史は詹徽であったが、議論が嚙み合わず、凌漢は毎回詹徽に譲歩したものの、詹徽は心に含んでいた。刑部侍郎に左遷され、礼部侍郎に異動した。後に詹徽によって弾劾され、左僉都御史に降格された。洪武帝はその凋落振りを憐れみ、帰郷を命じた。凌漢は詹徽の健在を理由に後難を恐れ、敢えて帰郷しなかった。一年余りして詹徽が誅殺されると、再び右僉都御史に抜擢され、次いで引退し帰郷した。凌漢は不用意な発言が多く、在任中は何度も失敗を演じた。しかしながら、その廉直を洪武帝に評価されていた為に、最後に保身を達成する事が出来たのであった。
 また呉県出身の厳徳珉という人物は、御史より左僉都御史に抜擢されたものの、病気を理由に帰郷を申し出た。洪武帝は激怒し、その顔に刺青を入れ、南丹州へ追放したが、特赦によって処分は解除された。質素な衣服に身を包み、徒歩で暮らし、自ら庶人となって、宣徳年間まで生存したのであった。以前、ある事件で御史に逮捕された事が有った。厳徳珉は堂下に跪き、自分は嘗て御史台に勤めていて、法律には詳しいと弁明した。御史が何の官職にあったかと質問すると、答えた。「洪武年間の御史台長官、早い話が厳徳珉である。」御史は驚愕し、拝揖して厳徳珉を起こした。翌日、御史が往訪すると、厳徳珉は袋を担いで歩き回っていた。教わりたい事が有ると言って飲み交わしていると、その顔の刺青や、頭に載せた古ぼけた冠が目に入ったので、質問した。「御老体は一体何の罪を犯されたのでありますか。」厳徳珉は昔の出来事を語り聞かせ、次の様に言った。「先の時代は国法が非常に厳しく、朝廷に仕える者は長官たる地位を保てなかったもの。この冠は易々と載せるものでは無いぞ。」そして北を向いて拱手し、「天子様の聖恩にございます、天子様の聖恩にございます。」と呟いたと言われている。


【校勘記】
〔一〕吏科庶吉士、『明史稿』伝二十一、楊靖伝・『国朝献徴録』巻四十四、楊公靖伝は何れも「庶吉士に選ばれ、吏科として試用された」とあり、より明確である。


by su_shan | 2017-03-15 12:13 | 『明史』列伝第二十六