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by すーさん

周徳興

『明史』巻一百三十二、列伝第二十

 周徳興、濠州の人。太祖(朱元璋)と同郷で、幼少時より面識が有った。滁州・和州平定に従軍した。長江を渡河すると、数戦して何れも功績を挙げ、左翼大元帥に遷った。金華府・安慶路・高郵府奪取に従軍し、安豊路を救援し、廬州路を制圧し、指揮使に昇進した。贛州路・安福州・永新州討伐に従軍し、吉安路を突破し、改めて湖広行中書省左丞に昇進した。楊璟と共に広西地方を征討し、永州路を攻撃した。元朝の平章政事阿思蘭(アスラン)及び周文貴が全州路より来援した。周徳興はこれを打ち破り、朱院判を斬殺し、追撃して全州路に到達し、遂に勝利を収めた。道州路・寧州・藍山県は全て陥落した。進撃して武岡州に勝利し、兵を分けて要害を抑え、靖江からの応援を遮断した。広西地方の平定に際して、多くの功績を挙げたのであった。
 洪武三年、江夏侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。同年、慈利土酋の覃垕が芧岡諸寨と結託して叛乱し、長沙洞の苗族も同調して蠢動を始めた。太祖は周徳興に征南将軍〔一〕を命じ、軍を率いてこれを討伐させた。翌年に蜀(明昇)を討ち、湯和を補佐して征西左将軍となり、保寧府に勝利した。これに先んじて、既に傅友徳が階州・文州に勝利していたが、湯和の率いる水軍は進撃していなかった。保寧府を陥落させるに及んで、両軍は初めて合流を果たしたのである。蜀地方が平定されると、論功行賞に際して、洪武帝(朱元璋)は湯和の功績が周徳興に帰するものと考え、周徳興を称賛する一方で湯和を叱責した。更に蛮族討伐を重ね、覃垕戦役では、楊璟は勝利出来ず、趙庸は道中で引き返し、その功績で周徳興に比肩する者は居なかった。また鄧愈を補佐して征南左将軍となり、趙庸・左君弼を率いて南寧府に進出し、婪鳳・安田諸州の蛮族を平定し、泗城州に勝利すると、またしてもその功績は諸将を上回った。周徳興の獲得した褒賞は大将の二倍に達し、中立府代行を命じられ、行大都督府事となった。周徳興の功績は膨大であり、更に洪武帝の旧知という事もあり、度を越して豪華な邸宅を造営したものである。役人がその罪状を並べ立てたが、詔を発して特赦したのであった。
 (洪武)十三年に福建地方の軍務の監督を命じられ、次いで召還された。翌年、五渓の蛮族が叛乱すると、周徳興は老齢でありながら、強引に出征を申し出た。洪武帝は感心して周徳興を派遣し、自ら書状を記して伝えた。「趙充国は西羌を制圧せんと企図し、馬援は交阯を討伐せんと申し出たものである。朕は常にその故事を素晴らしく思う。今の人間には難しい事だからだ。卿の忠勤は一度も衰えておらず、どうして先賢に引けを取る事が有ろうか。乱を鎮め民を安んじる機会は、今ここに有るのだ。」五渓に到達すると、全ての蛮族が逃げ散って行った。たまたま四川地方の水尽源・通塔平諸洞の蛮族が叛乱すると、周徳興に命じてこれを討伐させた。(洪武)十八年、楚王(朱楨)が思州府の五開蛮を討伐した際には、再び周徳興を副将軍としたのであった。
 周徳興は楚地方に長く在留し、運用していた楚地方出身の兵卒は、周辺の蛮族を震え上がらせたものである。武昌衛などの十五衛を制定し、一年で四万四千八百人の兵卒を練兵した。荊州府〔二〕の嶽山壩を切り崩して田地に引水し、一年に税収を四千三百石増加させた。楚地方の人々はこれに感謝した。帰郷すると、黄金二百両、白金二千両、文綺百匹を下賜された。しばらくの間は何も無く、洪武帝は周徳興に言った。「福建での戦功は未だに完結しておらぬ。卿は老いたりと言えども、今一度朕の為に腰を上げてはくれぬか。」周徳興は閩(福建)に到着すると、戸籍を調査した上で集めて練兵を行い、民兵十万人余り〔三〕を確保した。要害の地を視察し、十六ヶ所に築城し、四十五ヶ所に巡検司を設置した事で、初めて海防措置が備わったのである。三年後に帰還すると、再び鳳陽留守司の統括を命じられ、併せて属衛の兵卒を訓練した。勲功の臣の内、生存している者は周徳興が最年長であり、毎年入朝し、財物の下賜が途絶えた事は無かった。(洪武)二十五年八月、子の周驥が宮中で狼藉を働いた為に、周徳興は連座して誅殺されたのであった。

【校勘記】
〔一〕征南将軍、南の字は元は「蛮」であり、本書巻一、太祖本紀・巻三百十、湖広土司伝・『太祖実録』巻五十七、洪武三年十月癸亥条に基づき改めた。
〔二〕荊州府、荊州の字は元は「荊山」であり、本書巻八十八、河渠志・『明史稿』伝十五、周徳興伝・『太祖実録』巻百六十、洪武十七年三月丁未条に基づき改めた。
〔三〕民兵十万人余り、本書巻九十一、兵志は「兵一万五千人」とある。


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by su_shan | 2017-03-16 11:46 | 『明史』列伝第二十