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by すーさん

藍玉 曹震 張翼 張温 陳桓 朱寿 曹興

『明史』巻一百三十二、列伝第二十

 藍玉、定遠県の人。開平王常遇春の義弟である。当初は常遇春の帷幕に従い、敵に臨んでは勇敢に戦い、向かう所全てに勝利を収めた。常遇春は何度も太祖(朱元璋)に報告し、管軍鎮撫より功績を重ねて大都督府僉事に到達した。洪武四年に傅友徳の蜀(明昇)討伐に従軍し、綿州に勝利した。(洪武)五年には徐達の北征に従い、先行して雁門関を越え、乱山の戦いで元軍を破り、再び土剌河(トゥール河)の戦いで撃破した。(洪武)七年には兵を率いて興和路を突破し、国公帖里密赤(テリクムスチ)ら五十九人を捕らえた。(洪武)十一年には西平侯沐英と共に西番(チベット)を討伐し、その酋長三副使を捕らえ、捕殺千人を数えた。翌年に軍を帰還させると、永昌侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)十四年、征南左副将軍〔一〕として潁川侯傅友徳の雲南遠征に従軍し、曲靖路の戦いで元朝の平章政事達里麻(タリマ)を捕らえ、梁王(把匝剌瓦爾密、バツァラワルミ)は逃げ延びた先で死んだ。滇地方は完全に平定され、藍玉の功績は多大であった。五百石を加増された。藍玉の娘は蜀王(朱椿)妃として冊立された。
 (洪武)二十年、征虜左副将軍として大将軍馮勝の納哈出(ナガチュ)討伐に従軍し、通州に差し掛かった。元軍が慶州に駐屯しているという情報を入手し、藍玉は大雪に乗じて軽騎兵を率いて襲撃、これを撃破し、平章政事果来(ゴライ)を殺害し、子の不蘭渓(ブランシ)を捕らえて帰投した。大軍を結集して金山へ進撃すると、納哈出は使者を派遣して大将軍の陣営に降伏を申し入れたので、藍玉が出向いて降伏を受諾する事になった。納哈出が数百騎を引き連れて到着すると、藍玉は非常に喜び、酒席を設けた。納哈出が藍玉の杯に酒を注ぐと、藍玉は着物を脱いで納哈出に被せ、言った。「これを着て飲め。」納哈出が渋っていると、藍玉も酒を飲まず、しばらく言い争いになった。納哈出は地面に酒をぶちまけると、部下を向いてぶつぶつと呟き、その場から退去しようとした。同席していた鄭国公常茂が寸前で納哈出を斬り付け、都督耿忠が一同を連れて馮勝の面前に赴いた。納哈出の所部は大混乱に陥ったので、馮勝は降将観童(ガントン)を送って投降するよう説得させた。帰還の途上で亦迷河に到達すると、残党を完全に降伏させた。たまたま馮勝が罪を得て、大将軍の印綬を剥奪されると、藍玉は総兵官を代行するよう命じられ、後に軍中では藍玉を大将軍と仰ぐようになり、薊州に軍を移した。
 当時は順帝(妥懽貼睦爾、トゴンテムル)の孫にあたる脱古思帖木児(トグステムル)が元朝の後継者となって、北辺を擾乱していた。(洪武)二十一年三月、藍玉に命じて十五万の軍を率いてこれを討伐させた。大寧を出撃し、慶州に到達すると、諜報により脱古思帖木児が捕魚児海(ブユル湖)に滞在している事が判明したので、間道伝いに百眼井まで進軍した。湖から四十里を捜索しても敵を発見出来なかったので、藍玉は引き返そうと考えた。定遠侯王弼は言った。「我々は十数万の兵を率いて漠北へ侵入したのです。何一つ得る事無く軍を帰せば、一体何と報告なさるのですか。」藍玉は言った。「その通りである。」そこで兵卒に命じて地面に穴を掘って炊事させ、夜陰に乗じて湖の南方へ進出した。敵の陣営は湖の北東八十里余りの地点に在り、藍玉は王弼に先鋒を命じて陣営を急襲させた。敵は我が軍の水や飼葉が乏しく、奥地まで進撃出来ないと考えていた為に、防備を固めていなかった。また強風によって砂埃が舞い上がり、周囲の視界を奪っていた。王弼軍が接近しても、敵軍は察知しなかった。突如として王弼軍が前面に出現すると、敵軍は驚愕し、迎え撃ったものの敗北した。太尉蛮子(マンジ)らが殺害され、その軍は降伏した。脱古思帖木児と太子の天保奴(ティポヌ)は数十騎を連れて遁走した。藍玉は精鋭の騎兵を送って追撃したものの、捕捉に失敗した。次男の地保奴(ティボヌ)や妃・公主以下百人余りを捕らえた。更に追撃して呉王朶児只(ドルジ)・代王達里麻(タリマ)及び平章政事以下の官吏三千人・男女七万七千人余りを捕らえ、宝璽・勅符・金牌・金銀印などの物品、馬・駱駝・牛・羊十五万頭余りを鹵獲し、数え切れない程の武器甲冑を焼き払った。京師に勝利を報告すると、洪武帝(朱元璋)は非常に喜び、詔勅を賜って慰労し、藍玉の功績を衛青・李靖に準えて称賛した。更に藍玉は哈剌章(カラジャン)の陣営を破り、人畜六万を獲得した。軍が帰還すると、涼国公に進封された。
 翌年には四川各地の城郭修復事業の監督を命じられた。(洪武)二十三年、施南・忠建二宣撫司の蛮族が叛乱を起こしたので、藍玉に討伐を命じた。更に都匀安撫司の散毛諸洞を平定し、五百石を加増され、詔によって帰郷を許された。(洪武)二十四年、藍玉は蘭州衛・荘浪衛など七衛の兵を統率して、逃亡中の盗賊祁者孫の追討を命じられ、遂には西番の罕東地方まで攻略した。土酋哈昝〔二〕(ガザン)は遁走した。たまたま建昌衛指揮使の月魯帖木児(オルクテムル)が叛乱すると、詔によって軍を転進させて討伐に向かった。到着すると既に都指揮使瞿能らがその軍を撃破しており、月魯帖木児は柏興州へ敗走していた。藍玉は百戸毛海を送って月魯帖木児父子を誘き出して捕縛し、京師へ送致して誅殺し、その軍を完全に降伏させ、屯衛の増設を要請し、認可された。また民衆の戸籍を調査して徴兵し、朶甘(ダカン)・百夷を討伐するよう提案した。詔は認可せず、遂に軍を帰還させた。
 藍玉は長身の赤ら顔で、勇気と知略に優れ、大将としての才幹が有った。中山王(徐達)・開平王(常遇春)が故人となって以降、何度も大軍を統べ、多くの戦功を挙げた。太祖は藍玉を厚遇した。ところが次第に驕慢になり、多くの奴隷や義子を養い、権勢を利用して横暴に振る舞うようになった。以前、東昌府の民田を占拠し、御史の尋問を受けた事が有った。藍玉は激怒して御史を追い払った。北征からの帰還途上、夜になって喜峰関に差し掛かった。関吏は刻限を理由に開門を拒絶すると、藍玉は兵を放ち、関門を破壊して通過した。その報告を受け、洪武帝は不快になった。また脱古思帖木児の妃を暴行し、妃は恥じて自ら命を絶ったという噂が流れると、洪武帝は藍玉を叱責した。当初、洪武帝は藍玉を梁国公に封じようとしたが、過失を考慮して涼国公に変更し、その咎を世券に刻み付けた。その後も藍玉は態度を改めず、宴席の度に傲慢な言辞を吐き、軍中に在っては勝手に将校を任免し、思いのままに振る舞ったので、洪武帝は何度も譴責を加えた。西征から帰還すると、太子太傅を命じられた。藍玉は宋国公(馮勝)・潁国公(傅友徳)両公の下位に甘んじるのが面白く無く、言い放った。「我では太師に足らんと言うのか!」この上奏は数回に及んだが認められず、藍玉は更に不満を募らせた。
 (洪武)二十六年二月、錦衣衛指揮使蔣瓛が藍玉の謀叛を告発し、獄吏に下して取り調べを行った。その調書によると、「藍玉は景川侯曹震・鶴慶侯張翼・舳艫侯朱寿・東莞伯何栄及び吏部尚書詹徽・戸部侍郎傅友文らと共に変事を画策し、洪武帝が耤田儀式に出向いた隙に乗じて決行しようとした。」というものであった。結審すると、一族は誅殺された。侯爵以下で一党に連座して粛清された者は数え切れない程であった。洪武帝は自らの手で詔を記して各地に布告し、被告の供述を列挙した『逆臣録』を刊行した。同年九月、更に詔を発して言った。「藍賊めは叛乱を画策したが、その計画は露見し、一万五千人が族誅処分を受けた。今後、胡党及び藍党は赦免して不問に付す。」胡とは、丞相胡惟庸の事である。こうして、開国の宿将たちは相次いで世を去った。凡そ『逆臣録』に名を連ねられた者は、公爵一名・侯爵十三名・伯爵二名であった。葉昇はそれ以前に罪を得て誅殺されており、胡玉ら下位の者については別に参照されたい。曹震・張翼・張温・陳桓・朱寿・曹興の六侯については、左方に伝記を付しておく。

 曹震は濠州の人である。太祖の挙兵に従い、官位は指揮使に達した。洪武十二年、西番遠征の戦功によって景川侯に封じられ、食禄二千石とされた。藍玉に従って雲南へ遠征し、別路から臨安諸路を奪取し、威楚県に到達し、元朝の平章政事閻乃馬歹(ヤンナイマダイ)らを降伏させた。雲南が平定されると、容美・散毛諸洞の蛮族及び西番の朶甘・思曩日諸族の討伐を提案した。詔は認可しなかった。また貴州・四川二都指揮使司が交易によって入手した外地の馬を、陝西・河南地方の将兵に支給するよう提案した。また次の様にも発言した。「四川から建昌に至る交通は、道中に大渡河を挟みますが、往来する者の多くが熱病に倒れております。地元の老爺に尋ねた所、眉州の娥眉山〔三〕から建昌へ向かうならば、嘗ての古道が有って、平坦で瘴気も無いとの事ですので、既に軍民に命じて補修させております。従いまして、瀘州より建昌へ至るまでの駅馬を娥眉新駅へ移置するよう提案致します。」この案は採用された。(洪武)二十一年、靖寧侯葉昇と共に叛乱を起こした東川軍民府の蛮族を討伐し、五千人余りの捕虜を獲得した。次いで四川地方の軍務の監督を命じられ、藍玉と共に南征に従事した将兵を考査した。
 たまたま永寧宣慰司が言うには、所管地域に存在する百九十ヶ所の湿地の内、八十ヶ所余りで道路が塞がり交通に不便との事であった。そこで曹震に詔を発してこれを浚渫させた。曹震は瀘州を巡察すると、永寧を通る支流が有ったので、川岸を掘削して幅と水深を広げ、漕運を可能にした。また陸路が開通すると、駅舎や郵亭を建設し、橋や桟を架け、茂州より一路は松潘へ、一路は貴州へ向かい、保寧府へ到達した。これより以前、行人の許穆が次の様に発言していた。「松州一帯は礫の多い痩せた土地で、屯田には不向きであり、守兵三千人の食糧供給が追い付かない為、彼らを茂州の守備へ移し、近く屯田を行わせる事を提案致します。」洪武帝は松州が西番への牽制である事から、移動を認めなかった。その後、輸送路が開通したので、松潘は重鎮となり、洪武帝はその功績を評価した。翌年、曹震は四つの上奏を行った。一つは、雲南の大寧境界で井塩を生産し、商人を募集して粟を運ばせ、辺境の食料事情の足しにする事。一つは、商人に雲南の建昌へ粟を運ばせる代わりに、重慶府・綦江県で馬を売買する権利を付与する事。一つは、馬湖府の租税滞納を免除する事。一つは、施州衛の食糧供給は湖広地方からの輸送に頼っているが、長江を遡上する為に険阻で時間も掛かる為、重慶府の粟を用いて順流で輸送する事、であった。何れも認可された。
 曹震は蜀に長年在任し、実施した計画は極めて用意周到な物であった。蜀の人々はこれに感謝した。藍玉が粛清されると、曹震及び朱寿と共に指揮使荘成らを抱き込んで謀叛を企図したものとされた。逆党に認定されると、曹震が筆頭として扱われ、子の曹炳と共に誅殺されたのであった。

 張翼は臨淮県の人である。父の張聚は前翼元帥として江南・淮東地方平定に従軍し、功績を重ねて大同衛指揮同知となり、引退した。張翼は父の軍中に従い、勇敢にして善戦し、副千戸として父の職位を継承した。陝西遠征に従軍し、叛徒を捕らえた。都指揮僉事に抜擢され、都督府僉事に昇進した。藍玉に従って雲南へ遠征し、普定路・曲靖路に勝利し、鶴慶路・麗江路を奪取し、七百房の山寨を掃討し、剣川県を攻撃し、石門を撃破した。(洪武)十七年、論功行賞によって鶴慶侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)二十六年、藍玉党に連座して処刑された。
 
 張温は何処の出身か判明していない。太祖の長江渡河に従い、千戸を授かり、功績を重ねて天策衛指揮僉事に達した。大軍に従って中原を平定し、陝西地方に勝利し、蘭州を陥落させた後に鎮守した。元朝の将帥拡廓帖木児(ココテムル)は諜報によって大将軍(徐達)が南方へ帰還した事を知ると、甘粛より歩騎両軍を率いて突如襲来した。諸将は防御を固めて味方の来援を待つよう提案した。張温は言った。「敵は遠方より到来しておるから、未だに我が軍の実際の兵数を知らない。薄暮に乗じて奇襲し、その先鋒を挫くのだ。連中が撤退しなければ、それから防御を固めても遅くはあるまい。」こうして兵を整えて出撃すると、元軍はやや後退した。すぐに城は何重にも包囲されたので、張温は兵を収めて堅守すると、敵軍は攻撃しても陥落させる事が出来ず、漸く退却して行った。太祖はその奇功を称賛し、張温を大都督府僉事に抜擢した。次いで、また陝西行都督府僉事の兼任を命じた。
 蘭州(※1)が包囲された時、元軍は夜陰に乗じて城壁に梯子を掛け、よじ登った。千戸郭佑は泥酔して気付かず、城壁を巡回していた他の者がこれを撃退した。包囲が解かれると、張温は郭佑を斬殺しようとして、天策衛知事の朱有聞と口論になった。「正に賊軍が城を破ろうとしている時、将軍が郭佑殿をお斬りになって周囲に示しを付けるならば、それは軍法に適ったものでございましょう。しかし、既に賊軍が退いた以上、追撃してこれを殺戮すべきでありますのに、それを果たせないばかりか、勝手に部下を殺害したという汚名まで着せられてしまいますぞ。」張温は謝罪して言った。「君の意見で無ければ聞かなかった所だ。」こうして郭佑を杖刑処分として死罪を免じたのである。洪武帝は報告を受けると、双方を称え、更に朱有聞に対しては綺帛を賜ったのであった。
 その翌年、参将として傅友徳の蜀討伐に従軍し、多くの功績を挙げた。(洪武)十一年、副将として王弼らを糾合し、西羌を討伐した。翌年の論功行賞で会寧侯に封じられ、食禄二千石とされた。また翌年に河南地方の軍務の監督を命じられた。(洪武)十四年には傅友徳の雲南遠征に従軍した。(洪武)二十年の秋には軍を率いて納哈出の残党を討伐し、北伐に従軍し、全てに功績を挙げた。後に、過度に贅沢な居室や食器を用いているとの理由で罪を得、遂に藍玉党に連座して処刑された。

 陳桓は濠州の人である。従軍して滁州・和州に勝利した。長江渡河に従い、集慶路の勝利に際しては先陣を切った。寧国路・金華府の攻略に従軍し、竜江・彭蠡(鄱陽湖)に戦い、淮東・浙西地方を手中に収め、中原を平定した。功績を重ねて都督僉事を授かった。洪武四年には蜀討伐に従軍した。(洪武)十四年に雲南遠征に従軍し、胡海・郭英と共に兵五万を率いて永寧から烏撒へ向かった。その道中は険しく、赤河より軍を進め、烏撒の諸蛮族と激戦を繰り広げ、これを敗走させた。また芒部の土酋を破り、元朝の右丞実卜(シブ)を敗走させ、遂に烏撒に拠点を置き、東川の烏蒙諸蛮族を降伏させ、進軍して大理に勝利し、汝寧・靖寧諸州を攻略した。(洪武)十七年、普定侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)二十年、靖寧侯葉昇と共に東川に遠征し、大量の捕虜を獲得した。雲南諸軍の総括を命じられた。また九渓の洞蛮を平定し、堡塁を建設し、屯田を実施した。帰還すると、藍玉党に連座して処刑された。
 
 朱寿は何処の出身か判明していない。万戸として長江渡河に従い、江東地方の郡邑を陥落させ、総管に昇進した。常州路・婺州路を攻略し、武昌路に勝利し、蘇州府・湖州路を平定し、南北に転戦を繰り返し、功績を重ねて横海衛指揮使となり、都督僉事に昇進した。張赫と共に漕運を監督し、功績を挙げた。洪武二十年に舳艫侯に封じられ、食禄二千石とされ、世券を与えられた。藍玉党に連座して処刑された。

 曹興は別名を曹興才と言い、何処の出身か判明していない。武昌路平定に従軍し、指揮僉事を授かった。平江路を奪取すると、指揮使に昇進した。蘇九疇が立て籠もる炭山寨に勝利した。都督僉事に昇進し、太原衛指揮使を兼任した。山西行中書省参知政事に昇進すると、太原衛を監督し、晋王(朱棡)相となった。洪武十一年、沐英の洮州羌族討伐に従軍し、朶甘の酋長を降伏させ、三副使らを捕らえた。軍が帰還すると、懐遠侯に封じられ、指揮使の世襲を許された。山西地方の軍務を監督し、北征に従軍して功績を挙げた。数年後、藍玉党に連座して処刑された。
 同時期に藍玉党に連座した者の中で、都督の地位に在った者は、黄輅・湯泉・馬俊・王誠・聶緯・王銘・許亮・謝熊・汪信・蕭用・楊春・張政・祝哲・陶文・茆鼎ら十余人を数え、その多くが藍玉の麾下で副将を務めたものである。こうして、僅かな例外を除いて、勇気と力量に優れた武臣はほぼ一掃されたのであった。

【注釈】
(※1)本書巻四十二、地理志三に拠ると、蘭州は洪武二年九月に県に降格されているので、ここでは「蘭県」とするのが正しい。

【校勘記】
〔一〕征南左副将軍、左の字は元は「右」であった。本書巻百二十九、傅友徳伝には「左副将軍藍玉、右副将軍沐英を率い」とあり、本書巻二、太祖紀・『太祖実録』巻百三十九、洪武十四年九月壬午条は何れも「左副将軍」としており、これらに基づき改めた。
〔二〕哈昝、元は「哈咎」であり、本書巻百五十五、宋晟伝・巻三百三十、安定衛伝・『国榷』巻九、七百二十九頁に基づき改めた。
〔三〕眉州の娥眉山、二つの「眉」の字は、元は「嵋」であり、本書巻四十三、地理志に基づき改めた。


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by su_shan | 2017-03-19 14:06 | 『明史』列伝第二十