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by すーさん

兪通海 弟通源 淵

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 兪通海、字を碧泉、その先祖は濠州の人であった。父の兪廷玉は巣県に移り住み、兪通海・兪通源・兪淵の三子を儲けた。元朝末期、盗賊が汝州・潁州で発生した。兪廷玉父子は趙普勝・廖永安らと共に巣湖に砦を築き、水軍千艘を擁したものの、しばしば廬州路の左君弼から圧迫を受けた為に、間道から兪通海を派遣して太祖(朱元璋)に帰順した。太祖は和陽に駐屯していた頃、長江の渡河を計画したが、手元に船が無かった。兪通海が到着すると、非常に喜んで言った。「天の助けだ。」太祖は自ら出向いてその軍を掌握〔一〕したが、趙普勝は背いて出奔した。元軍は楼船を用いて馬場河などの河口を抑えていた一方で、湖沿いの港が一つだけ手薄であったが、連日の天候から水量が不足していた。たまたま大雨が降り、水深が一丈余りに達したので、船を曳いて長江へ進出し、和陽へ到達したのであった。
 兪通海は冷静な性格で、軍の統率は厳格ながら恩情が有ったので、兵卒は進んで従った。巣湖の諸将はみな水戦に長じ、中でも兪通海は最も熟練した人物であった。蛮子海牙(マンジハイヤ)の水上陣地群の撃破に従軍し、万戸を授かった。長江渡河に従い、采石鎮に勝利し、太平路を奪取し、属県を巡って陥落させた。蛮子海牙が再び軍船を率いて采石鎮を攻撃すると、陳兆先は淮兵二十万を糾合して方山に布陣し、互いに掎角の形を作った。兪通海と廖永安らはこれを攻撃してその軍を打ち破り、蛮子海牙は遁走した。進軍して陳兆先を破り、集慶路を奪取した。湯和に従って鎮江路を突破し、秦淮翼元帥に異動した。諸将を伴って丹陽県・金壇県・常州路を奪取し、江南行枢密院判官に異動した。寧国路攻略に従軍し、水陽を陥落させ、水軍を率いて太湖へ侵攻し、馬蹟山の戦いで張士誠の守将を降伏させ、胥口に停泊して準備を整えた。突然、呂珍の兵が襲来すると、諸将は後退しようとした。兪通海は言った。「それは認められない。敵軍は多く、我が軍は少ない。後退すればそれを知られてしまうではないか。迎え撃つに越した事は無いのだ。」そうして自身を先頭に突入したものの、雨の様に矢が降り注ぎ、右目に命中して戦えなくなった為に、幕下の兵卒に自身の甲冑を着せて督戦させた。敵軍は兪通海の姿を認めると、敢えて接近する者は居らず、徐々に引き上げて行った。この時の負傷により、兪通海は片目を失った。次いで、廖永安らと伴って石牌の守備に勝利し、馬駄沙を奪取して帰還した。先に太祖に背いて陳友諒に帰順した趙普勝は、池州府を陥落させると、別将を派遣して鎮守させる一方で、自身は樅陽の水上陣地を拠点とした。太祖は浙東地方の制圧途上にあり、樅陽は悩みの種であった。兪通海はこれを攻撃し、大いに打ち破った。趙普勝は陸路から逃走したので、その船の全てを鹵獲し、遂に池州府を奪還したのであった。江南行枢密院僉事に異動した。陳友諒が竜湾に侵攻すると、諸将を伴って迎撃し、これを敗走させ、追撃してその船を慈湖で焼き払い、七人の将帥を捕らえ、遂に北進して采石鎮に到達した。兪通海は戦功第一となり、江南行枢密院同知に昇進した。
 陳友諒攻撃に従軍し、銅陵県を陥落させ、九江に勝利し、蘄州路・黄州路を攻略した。徐達に従って叛将祝宗・康泰を討ち、南昌(※1)を奪還した。安豊路救援に従軍して張士誠の兵を破り、帰還して廬州路を攻撃した。陳友諒が大挙して南昌を包囲すると、太祖に従ってこれを迎え撃った。康郎山付近で接敵したものの、自軍の船は小さく高所の敵を攻撃出来ず、奮戦を重ねても支え切れなかった。兪通海は風向きを利用して二十艘余りを焼き払い、僅かながら敵軍の戦意を挫いた。太祖の旗艦が座礁すると、陳友諒の勇将張定辺が太祖の旗艦目掛けて突進した。常遇春は張定辺を狙撃し、兪通海は小船を駆って来援した。俄かに水位が上昇すると、太祖の旗艦は離礁に成功した。一方で兪通海の船は敵の巨艦に圧迫される形になり、兵卒はみな正面から敵艦に挑み、兜が割れる様な熾烈な戦いを交え、なんとか窮地を脱した。翌日に再び戦闘が行われると、廖永忠らと共に七艘の船に火薬を仕込み、敵船数百艘を焼き払った。二日後、再び六艘の船で突入を敢行した。敵は巨艦を連ねて抗戦した。太祖は舵楼に上って様子を見ていたが、しばらく待っても変化は訪れず、意気消沈した。突然、六艘の船が敵艦の周囲に現れると、竜が泳ぐ様に飄々と駆け巡った。兵卒は沸き立ち、士気は百倍し、一層果敢に戦った。陳友諒の兵は大敗を喫した。軍が左蠡に到達すると、兪通海は進言した。「鄱陽湖には浅瀬が有り、船の回頭は難しいものです。敵は上流に占位しているのですから、長江に出るに越した事はございません。奴らの船が出て来れば捕捉出来ましょうぞ。」こうして軍を転進して鄱陽湖を離れ、水陸の陣地を結合させた。陳友諒は敢えて出撃せず、湖上で一ヶ月を過ごしたが、食糧が尽きた為に兵を引き連れて突入し、敗死を遂げた。この戦役では、兪通海の功績が最も優れていた。軍が帰還すると、良田と金帛を賜った。
 翌年、武昌路平定に従軍した。中書省平章政事を拝命した。兵を率いて劉家港を攻略し、進撃して通州に迫ると、張士誠の兵を破り、その部将朱瓊・陳勝を捕らえた。江淮行中書省の代行役に昇進し、廬州府を鎮守した。徐達に従って安豊路を平定した。また従軍して湖州路に勝利し、太倉を攻略したが、掠奪は一切行わず、民衆は非常に喜んだものである。平江路を包囲すると滅渡橋に戦い、桃花塢を攻めた際に流れ矢が命中して重傷を負い、金陵へ帰還した。太祖はその邸宅に行幸し、様子を尋ねた。「平章政事は予の言っている事が分かるか。」兪通海は一言も話せなかった。太祖は涙を流して退出した。翌日に死没した。三十八歳であった。太祖は遺体を前にして悲嘆に暮れ、扈従した官僚や衛士はみな感傷に浸って涙を流した。兪通海は豫国公に追封され、太廟に配列され、功臣廟に肖像が置かれた。洪武三年には虢国公に改封され、忠烈と諡された。兪通海の父の兪廷玉は江南行枢密院僉事となったが、先に死没しており、河間郡公に追封された。兪通海には子が無く、弟の兪通源がその官位を継承したのであった。

 兪通源、字を百川。大将軍(徐達)の中原遠征に従軍し、副将軍馮勝らと共に兵を太原に集結させ、河中府を平定し、黄河を渡り、鹿台に勝利し、鳳翔府・鞏昌府・涇州を奪取し、開城を鎮守した。たまたま張良臣が慶陽府を拠点として叛くと、大将軍(徐達)は諸将に命じて兵を分かち、これを圧迫させた。兪通源は臨洮路より急行して涇州に到達すると、その西方を抑え、顧時はその北方を抑え、傅友徳はその東方を抑え、陳徳はその南方を抑え、大将軍(徐達)は城下に迫った。張良臣は救援を断たれた上に食糧が尽きて敗死し、遂に慶陽府は陥落した。定西州を制圧し、興元路に勝利し、その全てに先陣を切った。洪武三年に南安侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)四年には廖永忠に従って蜀(明昇)を討伐し、また徐達の塞外遠征に従軍し、甘粛地方を鎮定し、功績を挙げた。江南地方の富豪十四万人を移住させて鳳陽府を開墾した。また雲南を攻め、広南の蛮族を征服し、数万人を捕殺した。(洪武)二十二年、詔によって帰郷し、鈔五万を賜り、巣県に邸宅を設けたが、その前に死没した。子の兪祖は病弱で跡を継ぐ事が出来なかった。翌年、胡惟庸党に追認されたものの、既に兪通源は故人となっていた事から不問とされ、爵位の剥奪に止まったのであった。
 兪淵〔二〕は父兄の縁故によって参侍舎人となった。従軍の功績を重ねて都督僉事を授かった。兪通源は胡惟庸党に連座したが、太祖は兪廷玉・兪通海の功績に配慮し、(洪武)二十五年に兪淵は越巂侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。軍を率いて建昌の叛徒を討伐し、越巂に築城した。翌年、ある事案に連座して侯爵位を失い、郷里へ送還された。建文元年に召還されて爵位を回復し、大軍に従って燕王(朱棣)を討伐したものの、白溝河の戦いで戦没した。次男の兪靖が官位を継承した。

【注釈】
(※1)南昌、元朝下の竜興路であり、本書巻四十三、志第十九、地理志四によると壬寅年(1362)正月に太祖が「洪都府」と改称、更に癸卯(1363)年八月に「南昌府」と改称している為、本伝の時期を考えると、ここでは洪都とするのが正しい。

【校勘記】
〔一〕掌握(撫)、元は「抜」の字であった。本書巻一、太祖紀、元至正十五年五月「巣湖の将帥廖永安・兪通海が水軍千艘を率いて帰順すると、太祖は非常に喜び、自ら出向いてその軍を掌握した(巣湖帥廖永安・俞通海以水軍千艘来付、太祖大喜、往撫其衆)」に基づき改めた。
〔二〕兪淵、本書巻百四十二、瞿能伝・『明史稿』伝十六、兪通海伝付通淵伝・『国榷』巻九、七百三十頁は何れも「兪通淵」としている。


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by su_shan | 2017-03-25 12:05 | 『明史』列伝第二十一