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by すーさん

胡大海 養子徳済 欒鳳

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 胡大海、字を通甫、虹県の人。長身かつ鉄面皮で、知略に優れていた。太祖(朱元璋)の挙兵当初、胡大海は滁陽に出向いて謁見し、先鋒を命じられた。長江渡河に従い、諸将と共に各地を攻略し、功績によって右翼統軍元帥を授かり、帷幕に宿営した。従軍して寧国路を破り、判官鄧愈を補佐して当地を鎮守し、徽州路を突破して領内を攻略した。元朝の将帥楊完者(楊オルジェイ)が十万の軍を率いて攻め寄せると、胡大海は城下で戦い、これを打ち破って敗走させた。次いで鄧愈・李文忠と共に昱嶺関から建徳路へ侵攻した。淳安県の戦いで元軍を破り、遂に建徳路に勝利した。再び楊完者を破り、渓洞兵三万人を降伏させた。江南行枢密院判官に昇進した。蘭渓州に勝利し、従軍して婺州路を奪取し、江南行枢密院僉事に異動した。
 諸曁州を陥落させると、守将は夜陰に乗じて遁走し、万戸沈勝は降伏後に再び叛いた。胡大海はこれを打ち破り、四千人余りを生け捕りにした。諸曁州を諸全州と改称すると、兵を転進させて紹興路を攻め、再び張士誠の兵を破った。太祖は寧越の地を重鎮と見做して、胡大海を召還して当地を鎮守させた。張士誠の部将呂珍が諸全州を包囲すると、胡大海はこれを救援した。呂珍は堤防を決壊させて城を水没させたので、胡大海は堤防を奪還して逆に呂珍の陣営を水没させた。呂珍の軍勢は萎縮し、馬上で矢を折って撤兵を誓ったので、胡大海は許す事にした。郎中の王愷は言った。「呂珍は狡猾で信用に足りません。今討たずしてどうなさるのですか。」胡大海は答えた。「言い出した事に背けば不信を招く。既に見逃した者を討つのは武の道では無い。」軍が帰還すると、人々はみなその威信に感服したものである。次いで処州路を攻め、元朝の将帥石抹宜孫を敗走させ、遂に処州路の七郡を平定したのであった。
 陳友諒が竜湾に侵攻すると、軍を分けて信州路を突き、敵を牽制するよう命じられた。胡大海は王愷の提案を採用し、自ら兵を率いて向かい、遂に信州路に勝利し、広信府と改称した。広信府には食糧の備蓄が無く、ある者が撤退を進言した。胡大海は言った。「この地は閩楚の喉元であろう、放棄してはならぬ。」城壁を築き濠を浚渫して当地を防御した。以前、軍糧は乏しく、手中に収めた郡県では、将兵はみな民衆から寨糧と呼ばれる徴発を行い、民衆は非常に苦しめられた。胡大海の進言によって、初めて廃止が命じられた。江南行中書省参知政事に昇進し、金華府を鎮守した。
 当初、厳州路を陥落させると、苗軍の将帥であった蔣英・劉震・李福はみな桐廬県より到来して帰順した。胡大海はその武勇を歓迎し、麾下に留め置いた。その後、三人は叛乱を画策すると、早朝に寧越分中書省に参上し、胡大海に八詠楼で弩の観閲を提案した。胡大海が屋外へ出ると、蔣英はその一党を送って馬前に跪かせ、偽って蔣英の罪を訴えさせた。胡大海は答えず、蔣英の方向へ振り返った。蔣英は袖の中から槌を取り出して胡大海を殴り付けると、頭部を直撃して地面に倒れ込んだ。子の胡関住・郎中王愷は何れも殺害された。蔣英らは大々的に城中を掠奪すると、呉(張士誠)へ向かった。その後、李文忠が杭州路を攻撃すると、杭州の人々は蔣英を捕らえて降伏した。太祖は蔣英の誅殺を命じ、その血で胡大海を祀ったのであった。
 胡大海は用兵に長じ、日頃から語っていた。「吾は武人であるから書物などは知らぬが、ただ三つの事だけは知っておる。人を殺さぬ事、婦女を掠めぬ事、家を焼かぬ事だ。」これによって、胡大海の軍の行く先では遠近を問わず競う様に帰順していった。その死に際しては、訃報を耳にして涙を流さない者は居なかった。また士人を厚遇し、至る所で知勇に優れた人物を探し求めた。劉基・宋濂・葉琛・章溢の招聘は、実に胡大海による推薦の賜物なのである。越国公に追封され、武荘と諡され、功臣廟に肖像が置かれ、太廟に配列された。当初、太祖が婺州路に勝利した時に酒の醸造を禁じた(※1)ものの、胡大海の子が最初に違反を犯した。太祖は激怒し、法に基づき刑を執行しようとした。当時、胡大海は越地方の遠征途上にあり、都事王愷は誅殺の回避を進言し、胡大海の心中を和らげようとした。太祖は言った。「胡大海が我に叛いたとしても、我が法の執行を止める訳には行かぬ。」こうして自らの手で斬刑に処したのであった。胡関住もまた殺害されている為に、胡大海には後裔が存在しない。

 養子の胡徳済は字を世美と言い、何処の出身か判明しておらず、胡大海に連れられて太祖に帰順した。婺州路攻撃に従軍した際には囮を演じ、梅花門外の戦いで大いに元軍を打ち破り、その部将李弥章を捕らえた事で名を知られた。信州路を陥落させると、太祖は胡徳済を江南行枢密院同僉として当地を鎮守させた。陳友諒の部将李明道が来襲すると、胡徳済は奮戦した。胡大海が来援し、これを挟撃して李明道及び宣慰使王漢二を捕らえた。胡大海が蔣英によって殺害されると、処州府の降将李祐之もまた江南行枢密院判官の耿再成を殺害して叛いた。張士誠は浙東地方の混乱を聞き付けると、弟の張士信を派遣して諸全州へ侵攻させた。胡徳済は信州から救援に向かい、間隙に乗じて入城を果たし、知州の欒鳳や江南行枢密院判官の謝再興と共に分担して門を守備した。夜半、敵軍の不意を突き、張士信の陣営を襲撃すると、これを破って敗走させた。浙江行中書省参知政事に抜擢され、諸全新城の鎮守に移った。張士誠の部将李伯昇が歩騎兵を率いて大挙来襲した。胡徳済は堅守し、李文忠に援軍を要請した。李文忠が駆け付けると、胡徳済は兵を出して挟撃し、大いにこれを打ち破ったが、事の次第は李文忠伝に詳しい。
 当時、胡徳済の部隊には密かに諸全新城へ家を移す者が居たが、李文忠は胡徳済がそうさせたものと疑い、その都事羅彦敬を誅殺し、胡徳済を懲戒しようとした。将兵はみな激怒し、慌てて胡徳済に告発した。胡徳済は落ち着いて言った。「右丞(李文忠)が羅彦敬を殺害したのは、広信府で製作した戦袍に不備が有ったからに他ならない。次に同じ事を言う者は斬刑に処す。」こうして太祖は胡徳済を召還して称賛する一方で、李文忠が将兵を動揺させた事を叱責し、更に付け加えて言った。「胡徳済の力量は、汝の及ぶ所では無いな。」浙江行中書省右丞に抜擢され、駿馬を賜った。しばらくして、左丞に異動し、杭州府の鎮守に移った。大将軍徐達に従って定西州に進出した。胡徳済の軍は失態を犯し、徐達はその部将数人を斬殺し、胡徳済を拘束して京師へ送還した。洪武帝(朱元璋)はこれまでの功績に配慮し、胡徳済を釈放した。再び都指揮使となり、陝西地方を鎮守し、没した。

 欒鳳は高郵府の人で、諸全知州となり、有能との評判を得た。張士信が来襲すると、謝再興と共に防御に徹し、しばしば奇襲を敢行して敵軍を挫いた。謝再興は部下の将校に命じて杭州路の領域で通商を行わせていたが、太祖はそれが自軍の実体を露見させる事を恐れ、謝再興を召還し、参軍李夢庚に諸全州の兵馬を統括させた。一方で謝再興の功績には配慮し、太祖の兄の子である朱文正が謝再興の長女を娶っていた事から、徐達に謝再興の幼女を娶らせ、再び謝再興を諸全州の守備として派遣した。謝再興は李夢庚が自身の上位に居る事を怒り、欒鳳に対しても細事に託けて縄で縛り上げ、遂に叛き、欒鳳を殺害した。欒鳳の妻の王氏は身を以て欒鳳を庇い、共に殺害された。謝再興は李夢庚を捕らえ、張士誠に降伏し、李夢庚もまた殺害された。太祖は謝再興の数々の功績を思い、叛乱はその真意では無いと考えた。従って、欒鳳と李夢庚についてはどちらも憐れまなかったと言われている。

【注釈】
(※1)酒の醸造を禁じた、『国初事蹟』には「太祖於国初以軍儲不足禁造酒、違者罪之。」とあり、軍糧の不足を避ける為に酒の醸造を禁じたものである。


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by su_shan | 2017-03-25 23:20 | 『明史』列伝第二十一