元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

胡深

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 胡深、字を仲淵、処州路竜泉県の人。知略に優れ、経史や諸子百家の学問に精通した。元朝末期の兵乱に際して、悲嘆して言った。「浙東の情勢は真っ白であるが、直に災禍が降り掛かろう。」そこで同郷の子弟を集めて自らの身を守った。石抹宜孫が万戸として処州府を鎮守すると、参軍に招き、数千人を募兵し、各地の山賊を捕らえた。温州路の韓虎らが主将を殺害して叛くと、胡深が出向いてこれを説得した。軍民は感泣し、韓虎を殺害し、城を挙げて降伏した。次いで、章溢を伴って竜泉県の叛乱を討伐し、隣県の盗賊を捜索し、立て続けにこれを平定した。この時、石抹宜孫は江浙行中書省参知政事に昇進しており、承制によって胡深を元帥に命じた。戊戌十二月、太祖(朱元璋)が婺州路へ親征すると、胡深は戦車数百両を率いて来援し、松渓県に到達したものの救援出来ず、敗退した為に、婺州路は陥落した。翌年、耿再成が処州路へ侵攻すると、石抹宜孫は元帥葉琛・参謀林彬祖・鎮撫陳中真及び胡深を分遣し、兵を率いて抗戦させた。丁度、胡大海の兵が到着し、耿再成と合流すると、これを打ち破り、進撃して城下へ到達した。石抹宜孫は敗北し、葉琛・章溢と共に建寧路へ脱出し、処州路は陥落した。胡深は竜泉・慶元・松陽・遂昌四県を携えて降伏した。
 太祖は元より胡深の名声を耳にしていたので、召し出し、左司員外郎を授け、処州府へ戻らせ、部隊を招集させた。江西遠征に従軍し、平定後、親軍指揮使として吉安府の鎮守を命じられた。処州府の苗軍が叛き、守将耿再成を殺害すると、胡深は平章政事邵栄に従ってこれを討伐した。寧越中書分省が浙東行中書省に改組されると、胡深は行中書省左右司郎中となり、処州府の軍民に関する事務を総括した。当時は山賊が頻発し、人心は定まらなかった。胡深は一万人余りを募兵し、首魁を捕らえて誅殺した。沿海地域の軍は元より粗暴であり、中でも最も悪質な者数人を誅殺すると、弊害は終息した。癸卯九月、諸全州の叛将謝再興は張士誠の兵を率いて東陽県へ侵攻した。左丞李文忠は胡深に兵を率いて先鋒を命じ、謝再興を敗走させた。胡深は諸全州を浙東地方の藩屏とするよう建言し、調査の結果、諸全州城から五十里の地点にある五指山に新城を築き、兵を分遣して鎮守させた。太祖は謝再興叛乱の報告を受けた当初、李文忠に急使を派遣する一方で、別に守城の策を用意するよう命じたが、その工作はここに成就したのである。後に張士誠の部将李伯昇が大挙侵攻したが、新城で阻止され、突破する事が出来ずに敗退した。太祖はその功績を評価し、名馬を賜った。
 太祖が呉王を称すると、胡深を王府参軍としたが、従来通り処州府を鎮守させた。温州路の富豪周宗道が民衆を集めて平陽州を占拠すると、しばしば方国珍の従弟である方明善の圧迫を受け、城を挙げて帰順した。方明善は激怒してこれを攻撃した。胡深は兵を送って方明善を敗走させ、遂に瑞安州を陥落させ、温州路へ兵を進めた。方氏は恐れ、軍費として年間銀三万両を供出すると申し出た。そこで胡深に命じて軍を撤退させ、また任地へ戻らせた。陳友定の兵が侵攻すると、これを破り、追撃して浦城県に到達すると、またその守兵を破り、城を陥落させた。進撃して松渓県を突破し、その守将張子玉を捕らえた。これによって、広信・撫州・建昌三路の兵を発し、八閩の地を攻略するよう提案した。太祖は喜んで言った。「張子玉は勇将である。これを捕らえたのだから、陳友定は肝を潰しておろう。勝勢に乗じてこれを攻めれば、勝てぬ道理は無い。」そこで広信衛指揮使朱亮祖は鉛山県・建昌府から、左丞王溥は杉関から、胡深と同時に進撃するよう命じたのであった。
 朱亮祖らは崇安県に勝利すると、建寧路へ侵攻した。陳友定の部将阮徳柔は堅守した。胡深は立ち昇る妖気を不利に感じ、攻撃を緩めようとした。朱亮祖は言った。「既に軍はここまでやって来ているのに、何故手を緩めなければならんのだ?しかも、天道とは奥深く、山沢の雲気は常に変化するものではないか。何の兆候にもならん。」この時、阮徳柔の兵が錦江に布陣しており、胡深の陣営の背後へ迫っていたが、朱亮祖は督戦して攻勢を強めた。胡深は兵を引き上げ、二ヶ所の陣地を撃破した。阮徳柔の軍は奮戦し、陳友定も精鋭を率いて挟撃した。日没になり、胡深は包囲を突破して脱出したものの、馬が倒れて捕縛され、遂に殺害された。五十二歳であった。縉雲郡伯に追封された。
 以前、太祖は宋濂に質問した事が有った。「胡深とはどの様な人物であるか。」宋濂は答えた。「文武の才がございます。」太祖は言った。「さもあろう。浙東の守りは、それに頼っておるのだ。」胡深は郷郡に長く在任し、閩地方の平定を目指し、功績を挙げて恩に報い、最期は自身の命を殉じた。胡深の指導は寛容であり、十数年に及ぶ用兵の中で、一人として妄りに殺害した事は無かった。処州府を鎮守していた頃は、学問を振興して文士を養成した。縉雲県の田税は重く、新たに没収した田租を用いてそれを補った。塩税は十分の一であったが、半分を徴収するよう提案し、それによって商業を活性化させた。軍民は皆、その恩恵を懐かしんだと言われている。


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by su_shan | 2017-03-29 23:03 | 『明史』列伝第二十一