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by すーさん

孫興祖

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 孫興祖、濠州の人。太祖(朱元璋)の長江渡河に従い、功績を重ねて都先鋒となった。竜江に戦い、統軍元帥へ異動した。瑞昌県の八陣営を破り、天策衛指揮使に抜擢された。孫興祖は冷静沈着で知謀に長け、大将軍徐達は彼を重用した。泰州に勝利すると、徐達の要請によって海陵県の鎮守を命じられた。海陵県は張士誠の兵が淮地方に進む為の要地であり、孫興祖は軍令を厳粛に徹底し、隊伍を錬成し、強固に防御を整えた。呉(張士誠)軍が海口部より侵攻すると、これを撃退し、彭元帥を捕らえた。平江路を陥落させると、孫興祖は通州奪取を命じられたが、既に張士誠の守将は徐達の軍門に降っていた。大都督府副使に昇進し、彭城の鎮守に移った。徐達は関陝西地方を平定すると、軍を北方へ転進させ、孫興祖に檄を発して東昌路で合流した。元朝の首都に勝利し、燕山六衛が設置されると、兵卒三万を残し、孫興祖は当地を鎮守し、分都督府の業務を掌握するよう命じられた。大軍の西征に際して、拡廓帖木児(ココテムル)は居庸関から北平府を狙ったが、徐達は諸将に対して「北平府には孫都督が居る。案ずるには及ばぬ。」と明言し、太原を直撃したのであるが、事の次第は徐達伝に詳しい。洪武三年、燕山六衛の兵卒を率いて徐達の塞外遠征に従軍し、三不剌川(サンブラ河)に差し掛かった所で敵軍と遭遇し、奮戦するも戦死した。三十五歳であった。太祖はその死を惜しみ、燕山侯に追封し、忠愍と諡し、通州の常遇春の祠に配列したのであった。
 しばらくして、中書省は都督同知汪興祖の兼職分の俸禄支給について上奏を行った。洪武帝(朱元璋)は上奏文の中に「興祖」の名を見出すと、嘆息し、故燕山侯孫興祖の家に月俸を支給するよう命じたのであった。長男の孫恪は武徳衛指揮使の地位を継いだ。しばらくして、都督僉事まで歴任した。(洪武)二十一年、右参将藍玉の北征に従軍し、捕魚児海(ブユル湖)に到達し、論功行賞によって全寧侯に封じられ、食禄二千石とされ、世券を与えられた。孫恪は謹み深く敏捷で、学者の風格を有する武人であった。楚・蜀地方の征討に従軍し、帰還して沔陽府に駐屯し、各衛所軍の辺防体制を監査した。(洪武)二十五年、太子太保を兼任した。しばらくして、山西地方で徴兵を行い、宋国公馮勝に従って練兵を実施した。召還されると、中都に邸宅を下賜された。後に、藍玉党に連座して処刑された。


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by su_shan | 2017-03-30 10:40 | 『明史』列伝第二十一