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by すーさん

濮英 于光等

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 濮英、廬州路の人。当初、武勇に優れていた事から百夫長となり、功績を重ねて官位は西安衛指揮使に到達したが、軍政不備の罪によって召還され、叱責を受けた結果、その代行として葉昇が派遣された。葉昇は前任者である濮英の賢才を擁護したので、濮英は西安衛への復帰を命じられた。洪武十九年、太祖(朱元璋)は耿炳文に命じて陝西都指揮使司管内の衛所から兵卒を選抜して辺境防備に充てた所、濮英が練兵を担当した部隊は精強という評判を得た為に、都督僉事を加官された。翌年、部隊を率いて大将軍馮勝の北征に従軍した。金山に到達し、納哈出(ナガチュ)を降伏させると、軍を帰還させる事になり、濮英は遊兵三千を率いて殿軍となった。納哈出の残党で密かに潜伏する者は尚も数十万を数え、明軍の帰還を察知すると、その道中に伏兵を忍ばせ、大軍の通過を待って密かに襲撃しようと企み、攻勢を行わなかった。濮英の背後に遷移し、突如として襲い掛かると、両軍が激突して濮英は身動きが取れず、馬が倒れて遂に捕縛されてしまった。敵軍は濮英を手に入れると、人質として利用する事を考えた。濮英は絶食した上に一言も発さず、隙を見て佩刀を引き抜き、腹部を割って自決した。その報告を受けると、金山侯を贈られ、忠襄と諡された。翌年には楽浪公を進贈された。子の濮璵は西涼侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)二十三年、東昌府に於いて練兵を命じられ、また臨清県に駐屯し、兵卒の訓練を命じられた。(洪武)二十五年に召還され、宋国公馮勝らと共に山西地方の兵馬を監査した。濮璵は父の職務をよく修得し、洪武帝(朱元璋)はそれを非常に喜んだ。また山西地方の民兵の登録を命じられると、濮璵が登録を実施した州県は最も多く、措置が完了すると混乱は発生しなかった。翌年、藍玉党に連座し、五開衛の守備に回されて死没した。

 洪武年間で指揮使の地位に在って殉職を遂げた人物に、于光・厳徳・孫虎が居る。
于光は都昌県の人である。当初は徐寿輝に仕え、浮梁州を鎮守した。陳友諒が徐寿輝を弑逆すると、于光は浮梁州を挙げて帰順し、枢密院判官を授かり、功績を重ねて鷹揚衛指揮使となり、鞏昌府を鎮守した。拡廓帖木児(ココテムル)が蘭州(※1)を包囲すると、于光は救援に赴き、馬蘭灘に差し掛かった所で戦闘に敗北して捕らえられ、蘭州城下へ連行された。于光は大声で叫んだ。「公らはただ堅守なされよ、徐将軍(徐達)が大軍を率いてすぐにでも来て下さるぞ!」賊は激怒し、その頬を殴り、遂に殺害されたのであった。功臣廟に祀られた。
 厳徳は太平路〔一〕の人である。挙兵に従い、功績を重ねて海寧衛指揮使となった。朱亮祖に従って方国珍を討伐し、台州路に於いて戦没した。天水郡公に追封された。
 孫虎は何処の出身か判明していない〔二〕。池州府救援に従軍し、於潜県・昌化県を陥落させ、建徳路・諸全州を平定し、その何れにも功績を挙げ、千戸を授かった。新城県・桐廬県に勝利し、海寧衛指揮使に昇進した。嘉興府の盗賊を鎮圧した。副将軍李文忠に従って北征し、東路より応昌路へ侵入し、落馬河に差し掛かった所で元軍と交戦し死亡した。康安郡伯に追封された。
 また指揮僉事劉広は永平府を守り、敵軍の来襲を防いだ際に戦死した。涼州衛百戸劉林は涼州衛を守っていた際に也先帖木児(エセンテムル)の叛乱に遭い、戦死した。辺境の人々はこれを称え、その最期の地となった竇融台を劉林台と呼んだのであった。銭塘衛千戸袁興は全椒県の人で、雲南遠征に従軍し、自ら先鋒に名乗り出て、陣没した。彼らには差を設けて褒賞が贈られた。

【注釈】
(※1)本書巻四十二、地理志三に拠ると、蘭州は洪武二年九月に県に降格されているので、ここでは「蘭県」とするのが正しい。


【校勘記】
〔一〕太平路(原文は太平)、『明史稿』伝十六、濮英付伝は「濠州の人(濠人)」としている。※訳者補注、『太祖実録』巻二十五、呉元年九月丁酉条、厳徳卒伝には「厳徳、采石鎮の人(徳、采石人)」とあり、采石鎮は太平路管内であるから、『明史』本伝の記述と矛盾しない。
〔二〕何処の出身か判明していない、『明史稿』伝十六、濮英付伝は「寿州の人(寿州人)」としている。


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by su_shan | 2017-03-30 17:57 | 『明史』列伝第二十一