元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

葉旺 馬雲

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 葉旺、六安県の人。合肥県の馬雲と共に長鎗軍の謝再興に従い千戸となった。謝再興が叛くと、二人は自ら離脱して帰順した。しばしば遠征に従軍し、功績を重ねてどちらも指揮僉事を授かった。洪武四年には共に遼東を鎮守した。元朝の国主が北方へ逃走した当初、遼陽行中書省参知政事劉益は蓋州に駐屯する事で平章政事高家奴と互いに連携し、金県・復州等の地域を維持していた。洪武帝(朱元璋)は断事官黄儔に詔書を持たせて劉益に降伏を勧告させた。劉益は管内の兵馬・銭糧・輿地の数々を書物に記して帰順した。こうして遼陽指揮使司(※1)が設立されると、劉益は指揮同知となった。しばらくして、元朝の平章政事洪保保・馬彦翬が共謀して劉益を殺害した。右丞張良佐・左丞商暠が馬彦翬を捕らえて殺害すると、洪保保は黄儔を連行して納哈出(ナガチュ)の陣営へ向かった。張良佐は衛指揮使司に関する権限を掌握していた事から事態を報告し、重ねて申し立てた。「遼東の僻地は海沿いに在り、肘腋の地は全て敵と境界を接しております。平章政事高家奴は遼陽の山寨を守り、知院哈剌章(カラジャン)は瀋陽の古城に駐屯し、開元路は即ち右丞也先不花(エセンブカ)の、金山は即ち太尉納哈出の支配する所でございまして、彼らは互いに支援し合い、時として来寇を企んでおります。今や洪保保は逃げ去りましたが、必ずや紛糾が生じるでしょうから、断事官呉立殿を当地に留めて軍民を鎮撫させるよう要請致します。また捕縛致しました平章政事八丹(バダン)・知院僧孺らは拘束して京師へ護送致します。」洪武帝は呉立・張良佐・商暠を共に蓋州衛指揮僉事に命じた。更に遼陽の地を重鎮と見做し、都指揮使司を設置して各衛を統括させ、葉旺及び馬雲を都指揮使として赴任させた。次いで、黄儔が殺害された事が伝わり、納哈出の侵入が迫ると、葉旺らに勅を発して戦備を整えさせた。
 しばらくして納哈出は軍を率いて来襲したものの、強固な防御体制を目にすると敢えて攻撃せず、蓋州を無視して金州へ向かった。金州城は戦備が整っておらず、指揮使韋富・王勝らは兵卒を率いて各城門の守備を分担した。乃剌吾(ナイラウ)という人物は敵軍の猛将であり、精鋭数百騎を引き連れて城下で戦闘を挑んだが、潜ませていた弩が命中して落馬し、我が方の捕虜となった。敵軍は戦意を喪失した。韋富らが反撃に転じると敵は撤退したが、敢えて元の経路を取らず、蓋州城の南方十里を流れる柞河に沿って遁走した。葉旺は先んじて兵を配置し、柞河を抑えた。連雲島から窟駝寨までの十数里は、河岸に氷塊を積み上げて防壁を作り、その上から水を注ぐと、一夜にして城壁の様に凝結した。砂の中には釘を打ち付けた板を敷き、その傍らには落とし穴を設け、兵を伏せて待機した。馬雲及び指揮使周鶚・呉立らは城内に巨大な旗幟を掲げ、兵の移動を厳禁し、誰も居ないかの様な静穏を演出した。次いで、敵軍が蓋州城の南方に差し掛かると、四方から伏兵が現れ、両軍の旗幟が空を覆い、矢石が雨の様に降り注いだ。納哈出は恐慌に陥って連雲島へ向かったものの、氷壁に阻止されたので並走したが、従った者は全て落とし穴に落ち、遂に敵軍は壊滅したのであった。馬雲は城内から出撃し、兵を合流させて将軍山・畢栗河まで追撃すると捕殺及び凍死した者は数え切れず、勝勢に乗じて更に追撃し、猪児峪に到達した。納哈出は辛うじて単騎で脱出した。功績が評価され、葉旺・馬雲は共に都督僉事に昇進した。時に洪武八年の出来事である。
 (洪武)十二年、馬雲は大寧遠征を命じられた。勝報が届くと褒賞を受け、召還されて京師へ帰還した。その数年後に死没した。葉旺は依然として任地に留まった。たまたま高麗の使節が書状と礼物を携えて来訪し、竜州の鄭白らが朝廷への口添えを願い出た。葉旺は報告した。洪武帝は、臣下に外交権限は無く、これは間諜の欺瞞であるとして、軽々しく信用してはならず、彼らが我が方に対して殊更に弱味を示す事で辺境防備の不備を窺おうとしているので、これを送り返してしまえば、付け入る隙を与えずに済むと指示した。翌年、葉旺は再び周誼という高麗の使節を送って入京させた。洪武帝は高麗の国主弑逆と、国朝の使者を謀殺した事を理由に、その反覆振りを信用出来ず、葉旺らを叱責して断交させ、周誼を拘留して返さなかった。(洪武)十九年、葉旺は召還されて後軍都督府都督僉事となった。三ヶ月後、遼東から急報が届くと、再び任地へ戻るよう命じられた。(洪武)二十一年三月に死没した。
 葉旺と馬雲が遼東を鎮守した有様は、まるで茨の棘を刈る様なもので、軍府を設立し、軍民を按撫し、一万頃余りの田地を開墾した事は、結果として長年に及ぶ恩恵となった。葉旺は最も在任期間が長く、前後凡そ十七年であった。遼東の人々はこれに感謝したものである。嘉靖初年、遼東に於ける二人の功績が評価されると、役所に命じて祠堂が建立され、一年を通して祀られたのであった。

【注釈】
(※1)遼陽指揮使司、原文には「遼陽指揮使司」とあるが、正しくは「遼東衛指揮使司」である。『太祖実録』巻六十一、洪武四年二月壬午条には「主上は文章に目を通すとその誠実を称え、詔を発して遼東衛指揮使司を設置し、劉益を指揮同知とした(上覧表嘉其誠、詔置遼東衛指揮使司、以益為指揮同知)」とある。また同書巻六十五、洪武四年五月丙寅条には「旧元朝の平章政事洪保保・馬彥翬・八丹等らが叛き、遼東衛指揮同知劉益を殺害した(故元平章洪保保・馬彥翬・八丹等叛、殺遼東衛指揮同知劉益)」とあり、遼東衛指揮使司であった事は明らかである。


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by su_shan | 2017-04-11 20:35 | 『明史』列伝第二十二