元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

繆大亨 武徳

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二


 繆大亨、定遠県の人。当初、義兵を糾合して元朝の為に濠州を攻撃したものの、果たせず、元軍が壊滅すると、繆大亨はただ二万の軍を率いて張知院と共に横澗山に布陣し、一月余り堅守した。太祖(朱元璋)は計略を用いてその陣営を夜襲し、これを打ち破ると、繆大亨は子と共に逃走した。翌朝、再び離散した兵卒を集めると、陣を構えて待ち受けた。太祖は叔父の繆貞を送って降伏するよう説得させ、部隊を率いて遠征に従軍するよう命じ、しばしば功績を挙げ、元帥に抜擢された。軍を率いて揚州路を攻略し、これに勝利した。青軍元帥張明鑑を降伏させた。
 当初、張明鑑は淮西地方の兵を集め、青色の布を目印にして「青軍」と自称し、また長鎗に巧みであった事から「長鎗軍」とも自称した。含山県から転じて揚州路を掠めたが、元朝の鎮南王孛羅普化(ボロトブカ)の招撫によって帰順し、濠泗義兵元帥となった。翌年、食糧が底を尽いたので、鎮南王を擁して叛乱を企てた。鎮南王は逃走先の淮安府で殺害されたので、遂に張明鑑は揚州城を拠点とし、住民を虐殺して飢えを凌いだ。繆大亨が太祖に告げた所によると、賊は飢餓に陥り、仮に四方へ掠奪に奔ればその統制は困難なれど、猛禽としては利用する価値が有るので、敢えて他人に獲得させる事は無い、というものであった。太祖は繆大亨に急襲を命じると、張明鑑は降伏し、数万の軍と馬二千頭余りを接収し、その将校らの妻子は全て応天府へ護送させた。淮海翼元帥府が江南分枢密院に改組されると、繆大亨は枢密院同僉となり、揚州府・鎮江府を総制した。
 繆大亨には治世の手腕が有り、寛容にして妄動しない一方で、厳粛に軍を統制し、暴虐を禁じて残虐を除いたので、民衆は非常に喜んだものである。しばらくして死没した。太祖は鎮江府に差し掛かると、悲嘆して言った。「繆将軍の一生は公明正大で、ただ一度の失敗も無かった。二度と見えぬ事が惜しいものである。」こうして使者を派遣してその墓を祀ったのであった。

 武徳、安豊県の人。元朝の至正年間に義兵千戸となった。元朝の崩壊が間近に迫っている事を悟ると、上官の張鑑に告げた。「我々の武勇は万夫に冠絶し、今や東西を挫いておりますが、時勢を鑑みるに、速やかに拠るべき所を選ぶに越した事はございません。」張鑑はその進言を聞き入れ、共に太祖に帰順した。李文忠に従い、池州路攻撃に従軍し、奮戦の最中に右股に流れ矢を受けたが、これを引き抜くと何事も無かったかの様に戦い続けた。於潜県・昌化県の攻略、厳州の勝利に寄与し、万戸に昇進した。苗軍元帥楊完者(楊オルジェイ)が烏竜嶺に布陣すると、武徳は言った。「襲撃を加えて奪取すべきです。」李文忠は根拠を尋ねた。武徳は答えた。「高所に登って観察致しますと、その部隊は落ち着きを見せず、騒々しい音を立てております。」李文忠は言った。「良いだろう。」こうして楊完者を襲撃し、その陣営を壊滅させた。蘭渓州を奪取し、諸曁州に勝利し、紹興路を攻撃し、その何れにも先頭を切って敵陣を粉砕し、右肘を負傷しても顧みる事は無かった。李文忠は感嘆して言った。「この様な武人を率いておれば、負け戦など有り得ぬ。」
 蔣英・賀仁徳が叛くと、浙東地方は大いに震撼した。李文忠に従って金華府を平定し、また処州府攻撃に従軍し、劉山で賀仁徳と遭遇すると、右股に戈を受けた。武徳は佩刀を抜いて戈を断ち切ると、これを追撃した。賀仁徳は再び戦い、また敗走し、最後は部下に殺害された。武徳は軍を帰還させて厳州府を鎮守した。二年後、官制が整備されると、管軍百戸に改められた。李文忠に従って諸曁州の戦いで張士誠の兵を破り、諸将と共に浦城県を救援し、道中の山寨は全て降伏させた。また李文忠に従って建寧・延安・汀州三路を陥落させ、全ての閩渓諸寨を平定し、管軍千戸に昇進し、衢州府の鎮守に移り、世襲を許された。最後は靖海侯呉禎に従って海上を巡視した。呉禎は武徳の才能を認め、平陽県を守らせた。在任八年にして引退した。雲南遠征に際して、洪武帝(朱元璋)は武徳が宿将である事から、諸軍に随行するよう命じたのであった。
 張鑑は、別名を張明鑑と言って、淮西地方の人である。太祖に帰順すると、遠征に際しては必ず武徳を伴い、武徳に先んじて他界した。官位は江淮行枢密院副使に昇った。


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by su_shan | 2017-04-18 12:42 | 『明史』列伝第二十二