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by すーさん

蔡遷 陳文

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 蔡遷〔一〕、その出身とする郷里は不明であり、元朝末期に芝麻李(李二)に従って徐州を占拠した。芝麻李が敗退すると、太祖(朱元璋)に帰順し、先鋒となった。長江渡河に従い、采石鎮を陥落させ、太平路に勝利し、溧水州を奪取し、蛮子海牙(マンジハイヤ)の水寨及び陳野先(陳エセン)を破り、その全てに功績を挙げた。集慶路を平定すると、千戸を授けられた。徐達に従って広徳路・寧国路を奪取し、万戸に異動した。常州路に進攻し、黄元帥を捕らえ、遂に都先鋒となった。馬駄沙遠征に従軍し、池州路に勝利し、樅陽を攻撃し、衢州路・婺州路遠征に従軍し、帳前左翼元帥を授かった。竜江の戦いで陳友諒を破り、進軍して太平府を奪還し、安慶路の水寨を奪取し、九江(江州路)を制圧し、瑞昌〔二〕県の戦いで陳友諒の八個の陣営を破り、遂に南昌(竜興路)に勝利した。安豊路救援に従軍し、合肥県を攻撃し、鄱陽湖に戦い、武昌路遠征に従軍し、指揮同知に昇進した。常遇春に従って鄧克明の残党を討伐し、贛州路に進攻し、南安路・南雄路の諸郡を奪取し、兵を返して饒鼎臣を茶陵州に追い、竜驤衛指揮同知に異動した。徐達に従って高郵府に勝利し、馬港〔三〕を破り、武徳衛指揮使を授けられ、淮安府を鎮守し、黄州府に移鎮した。次いで湘潭州・辰州・全州・道州・永州等の諸州を陥落させ、荊州衛指揮使に異動した。進軍して広西に勝利し、広西行中書省参知政事に異動し、靖江王府相を兼任し、叛いた諸蛮族を討伐した。洪武三年九月に没すると、詔によって遺体は京師に送還されて葬られ、安遠侯を贈られ、武襄と諡された。
 蔡遷は将帥としての十五年間で独任した事は無く、多くの場合は諸将に従って征討に赴いた。自身は数十戦を経験し、その度に勇敢に突進し、大刀を振るって左右を撃ち払ったので、敵兵は慄いて敢えて近寄ろうとはしなかった。帰還すると、全身に戦傷を負い、他人からすれば見るに堪えない程であったが、蔡遷は殆ど意に介さなかった事から、太祖の偏愛を受けたものである。蔡遷が没するに及んで、太祖はこれを痛惜し、自ら弔文を記して祀ったのであった。

 合肥県の陳文という人物は、南北に転戦し、しばしば戦功を立て、蔡遷に次ぐものである。陳文は幼くして父を失い、よく母に孝行し、元朝の末期に家族を連れて太祖に帰順し、昇進を重ねて官位は都督僉事に達した。没すると、東海侯に追封され、孝男と諡された。明朝の臣下で孝の諡を得た人物は、陳文ただ一人である。

【校勘記】
〔一〕蔡遷、本書巻百五、功臣世表・『太祖実録』巻五十五、洪武三年八月丙子条・巻五十六洪武三年九月丙午条は全て「蔡僊」としている。
〔二〕瑞昌、元は「寿昌」であった。『太祖実録』巻五十六、洪武三年九月丙午条に基づき改めた。『明史考証』巻四には、「孫興祖伝の記載では、統軍元帥であった時に瑞昌の八陣営を破り、とあり、これが八陣指揮を指すので、その事であろう。当時の情勢を考えると、陳友諒は江西・湖広地方を有していたので、瑞昌に陣営を置いて明兵を防いだのであろう、従って寿昌は誤りである。」とある。
〔三〕馬港、本書巻百二十五、徐達伝は「馬騾港」、『明史稿』伝二十五、蔡遷伝は「馬邏港」としている。


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by su_shan | 2017-06-09 12:22 | 『明史』列伝第二十二