元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

王銘

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 王銘、字を子敬、和州の人。初めは元帥兪通海の麾下に属し、次いで采石鎮に蛮子海牙(マンジハイヤ)を攻撃した。王銘は勇敢であった事から、奇兵に選抜された。戦闘が始まると、決死隊を率いて喚声を上げながら突撃し、その水寨を突破した。これ以降、数々の功績を挙げた。呉軍(張士誠)と太湖に戦い、流れ矢が右肘に当たると、佩刀を引いてその矢尻を抉り出し、再び戦った。兪通海はこれを労った。また通州の黄橋・鵝項諸寨を突破した。白金文綺を賜った。竜湾に戦い、追撃して北方の采石鎮に到達すると、王銘は単独で突撃した。敵兵は槊を突き出して王銘を狙い、頬を負傷した。王銘は三度突撃して三度突入し、多くの敵兵を殺傷した。文綺銀椀を賜り、宿衛に選抜された。次いで江州路を奪取し、康郎山及び涇江口に戦い、また英山諸寨に勝利し、管軍百戸に抜擢された。副将軍常遇春に従って湖州路の昇山〔一〕に戦い、また旧館に戦い、次いで烏鎮に戦った。前後数十戦、功績は大きく、松江府の鎮守を命じられた。太倉に移鎮し、倭寇千人余りを捕殺し、再び金幣を賜った。
 洪武四年に都試百戸の任にあって槍術を得意とする者の中には、王銘に敵う者は居なかった。昇進を重ねて長淮衛指揮僉事に到達し、温州府に移鎮した。王銘は上疏して言った。「臣の拝領致しました鎮につきましては、外部に島夷を控えている状況であるにも関わらず、依然として城壁や楼櫓は狭小であり、ただ国威を発揚するに足りないばかりか、俄かに風潮の変でもございましたら、防ぐどころでは無く、直ちに改修しなければなりません。」洪武帝(朱元璋)は認可の旨を回答した。こうして城壁を補修して濠を浚ったので、旧来に倍する様相となった。加えて外垣を築き、海神山より郭公山に至るまでの二千丈余りは、広敞壮麗にして、屹然たる浙東の巨鎮となったのであった。洪武帝はこれを喜び、世襲を認めた。嘗て王銘は休暇の為に和州へ戻った事があった。温州府の士女は道を遮る様にして送迎した。長吏はみな互いに感嘆して言ったものである。「我々は官員ではあるが、民衆が我々の去来を眺める様は漠然としておるのに、王指揮の見送りの多き事には恥じ入るばかりよ。」王銘は右軍都督府都督僉事を歴任したが、(洪武)二十六年、藍玉党に連座して処刑された。

【校勘記】
〔一〕昇山、元は「弁山」であり、本書巻百二十三、張士誠伝・巻百二十五、徐達伝・常遇春伝は全て「昇山」としている。湖州路に昇山があり、また弁山(別名を卞山と言う)もある事を考えると、弁山では進軍経路と一致しない為、「昇山」として改めた。


[PR]
by su_shan | 2017-06-10 00:24 | 『明史』列伝第二十二