元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

金興旺 費子賢

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 金興旺は来歴が定かでは無い。威武衛指揮僉事となり、指揮同知に昇進した。洪武元年、大将軍徐達が河南から陝西へ侵入すると、増援して潼関の守備を要請したので、金興旺と副将郭興にこれを守らせ、指揮使に昇進した。翌年に臨洮府を攻撃すると、金興旺は鳳翔府に移鎮し、軍糧を運搬した。しばらくして、賀宗哲が鳳翔府を攻撃すると、金興旺と知府周煥は籠城した。敵軍は茨を編んで大きな箕を作り、その形状は半ば船の様であった。箕毎に五人が入り、これを背負って城を攻撃したので、矢石が通用しなかった。藁を投げ入れて焼き払おうとしても、忽ちにして舞い上がってしまった。そこで藁の中に鉤を仕込み、箕の隙間を狙って投げ込むと、遂に火が立ち昇り、敵軍は箕を捨てて敗走した。また坑道を掘って城に迫ると、城内では矛を突き出して迎え撃ち、敵軍は大量の戦死者を出したものの、攻勢を中断しなかった。金興旺と周煥は策を練って言った。「連中は我々の援軍が到来せず、絶対に出撃する事は無いと言っている。その不意に乗じて攻撃すれば、打ち破れようぞ。」密かに西北門を出ると、奮戦の結果、敵軍はやや退いた。たまたま百戸王輅が臨洮府より李思斉の降兵を収容して帰還したので、その軍を入城させて共に防御した。敵軍が陣営を引き払って移動すると、皆は追撃しようとしたが、王輅は言った。「敗れてもいないのに退くのは、我々を誘っているからです。」騎兵を出して偵察させると、五里坡に差し掛かった所で、果たして伏兵が現れ、敵軍は戻って再び城を包囲した。皆は城を棄てて逃げようとしたので、金興旺は叱咤した。「陛下よりお預かりした城を、どうして投げ出す事など出来ようか!」王輅の配下は皆新参であり、変事を警戒して、城内の貨畜の全てを庭に積み上げ、命じて言った。「敵軍はやや緩んでおるから、今の内に新兵を労おうぞ。」新兵は歓喜して、防御に協力した。対峙すること十五日、敵軍は慶陽府が陥落した事を聞くと、撤退した。洪武帝(朱元璋)は遣使して金綺を以て金興旺らを労った。
 翌年、徐達が沔州に侵攻すると、金興旺と張竜を派遣して鳳翔府より連雲桟に侵攻させ、興元路を合撃した。守将が降伏すると、金興旺が当地を鎮守し、大都督府都督僉事に抜擢された。蜀(明昇)将呉友仁が三万の軍を率いて興元路に侵攻すると、金興旺は城内の兵三千を結集して敵軍を防いだ。顔面に流矢を受けるも、矢を抜いて再び戦い、数百人を斬首した。敵軍は多勢であり、兵を収容して入城した。呉友仁は濠を決壊させ、堀を埋め、必勝の策を準備した。徐達は報告を受けると、傅友徳に命じて木槽関を夜襲し、斗山寨を攻撃し、一人当たり十本の篝火を持たせて山上に連ねた。呉友仁は驚愕して遁走した。金興旺は出兵してこれを追撃し、岩塊を落として殺害した敵兵は数え切れず、呉友仁は意気を喪失した。当時、金興旺は威勢を以て隴蜀の地を鎮守した。国初の諸都督の内、守城の功労者としては、金興旺の他には費子賢が最たる例であろう。

 費子賢もまた来歴は定かでは無い。長江渡河に従い、広徳翼元帥となり、何度も功績を挙げた。武康県を奪取し、また安吉県を奪取し、城を築いて当地を鎮守した。張士誠の兵は侵攻する度に撃退された。最終的に、張左丞が八万の兵を率いて攻め寄せた時は、費子賢の部隊は僅か三千人であったが、堅固に防御した。城壁に車弩を設け、勇将二人を射殺すると、敵軍は退却した。戦功によって指揮同知に昇進した。福建を奪取し、大都・定西州に勝利して共に功績を挙げ、大都督府都督僉事を授けられ、世襲指揮使となった。


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by su_shan | 2017-06-11 07:04 | 『明史』列伝第二十二