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by すーさん

丁玉

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 丁玉、当初の名は丁国珍と言い、河中府の人である。韓林児に仕えて御史となり、衆人に卓越する名声があった。呂珍が安豊路を破ると、丁玉は帰順した。彭蠡(鄱陽湖)遠征に従い、九江知府となった。大軍が建康(応天府)に帰還すると、彭沢県の山民が蜂起したので、丁玉は郷兵を集めてこれを討伐した。太祖(朱元璋)はその武略を称え、指揮使兼任を命じ名を玉に改めさせた。傅友徳に従って衡州路に勝利し、指揮同知として当地を鎮守し、また永州路に調遣された。丁玉には文武の才能があり、新付者を慰撫するなど、その威光は非常に著しいものであった。
 洪武元年に都指揮使に昇進すると、次いで行中書省参知政事を兼任し、広西を鎮守した。(洪武)十年、召還されて右御史大夫となった。四川威茂土酋董貼里(董テリク)が叛くと、丁玉は平羌将軍としてこれを討伐した。威州に到達すると、董貼里は降伏した。命を受けて威州千戸所を設置した。(洪武)十二年には松州を平定し、丁玉は指揮使高顕らを派遣して当地に築城し、軍衛の設立を要請した。洪武帝(朱元璋)は松州一帯に山が多く田が少ない事から、耕種して軍に供給する事は出来ず、当地を鎮守するのは得策ではないと言った。丁玉は松州が西羌の要地であり、軍衛を廃止すべきでは無いと主張し、遂に丁玉の建議の通り、官を設けて防御施設を築いた。たまたま四川の妖人彭普貴が十四もの州県を掠奪すると、指揮使普亮らは鎮圧出来ず、丁玉に命じて軍を移してこれを討伐させた。洪武帝は自ら勅書を記して褒賞し、左御史大夫に転出させた。軍が帰還すると、大都督府左都督を拝命した。(洪武)十三年、胡惟庸の血縁を理由に誅殺された。


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by su_shan | 2017-06-12 20:50 | 『明史』列伝第二十二