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元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

花雲 朱文遜 許瑗等

『明史』巻二百八十九、列伝第一百七十七、忠義一

 花雲、懐遠県の人。立派な体躯で色黒く、驍勇冠絶の人であった。至正十三年癸巳の年、臨濠にて太祖(朱元璋)に謁見した。太祖はその才幹を奇とし、花雲を各地の平定に従え、至る所で勝利を収めた。懐遠県を破り、その守将を捕らえた。全椒県を攻撃し、これを突破した。繆家寨を襲撃すると、群盗は潰走した。太祖は滁州を攻略しようとした時、数騎を率いて先行し、花雲は扈従した。突然、数千人の賊徒に遭遇すると、花雲は長矛を手に太祖を援護し、剣を抜いて馬を躍らせ敵陣を突いて進んだ。賊は驚いて言った。「黒将軍の勇猛甚だしき事よ、鋭鋒に当たる事すら出来ぬではないか。」本隊が到着すると、遂に滁州に勝利した。甲午の年、和州攻略に従軍し、兵卒三百人を捕らえ、功績によって管勾を授けられた。乙未の年、太祖が長江を渡った時は、花雲が先んじて渡河を行った。次いで太平路に勝利すると、その忠勇によって左右に宿衛する事になった。集慶路攻略に従軍し、兵卒三千人を捕らえ、総管に抜擢された。鎮江路・丹陽県・丹徒県・金壇県を巡り、全てに勝利を収めた。馬駄沙に差し掛かった時、強賊数百人が街道を遮って戦闘を仕掛けた。花雲は三昼夜行軍と戦闘を続け、全員を捕らえて殺害し、前部先鋒を授かった。次いで常州路を突破し、牛塘営を鎮守した。太祖が太平府に行枢密院を設立すると、花雲を抜擢して院判とした。丁酉の年、常熟州に勝利し、兵卒一万人余りを捕らえた。命によって寧国路へ向かい、群盗は互いに結託して街道を封鎖した。花雲は矛を操り鼓譟して突入すると、斬首千百人を数え、その身には一本の矢も受けなかった。
 帰還すると太平府を鎮守した。庚子の年の閏五月、陳友諒が水軍を率いて来襲した。花雲と元帥朱文遜・知府許瑗・院判王鼎は陣形を整えて迎撃し、朱文遜が戦死した。賊軍は三日間の攻撃で侵入出来ず、巨艦を持ち出して増水に乗じ、艦尾から城壁に取り付いた。太平城が陥落すると、賊は花雲を拘束した。花雲は奮起して絶叫すると、縄を全て引き千切り、見張りの刀を奪い取って、五・六人を殺害し、罵声を浴びせた。「貴様らなど我が主君の敵ではないぞ、早々に降伏する事だ!」賊は怒って花雲の頭を打ち砕き、船檣に縛り付けて矢を射掛けたが、罵声は少しも衰えず、絶命する瞬間まで声音は勇壮であった。当時三十九歳である。許瑗・王鼎も抵抗して敵を罵りながら殺害された。太祖は呉王に即位すると、花雲を東丘郡侯に追封し、許瑗は高陽郡侯に、王鼎は太原郡侯とし、忠臣祠を建立し、共に彼らを祀ったのであった。
 太平城の危機に際して、花雲の妻の郜氏は家廟に祭告し、三歳になる子供を連れて、泣きながら家人に伝えた。「城が破られれば、必ずや夫は死ぬでしょう。義として一人生き永らえる事など出来ようか、とは言っても花氏の後裔を絶やす訳にもいかない、だから汝らはよくこの子の面倒を見てやっておくれ。」花雲が捕らわれると、郜氏は水に身を投げて死んだ。世話役の孫という者が遺体の埋葬を済ませると、子を抱えて脱出したものの、九江に差し掛かった所で追剝に遭った。孫は夜な夜な漁家を訪ね、簪や耳環の類を渡して子を養った。漢軍(陳友諒)が敗北すると、孫は隙を見て子を連れて長江を渡ろうとしたが、敗走する軍が舟を奪って二人を長江に突き落としたので、孫は木の切れ端に掴まって葦原に隠れ、蓮の実を採って子に与え、七日間生き延びた。夜になって、雷老という老人に助け出され、年が明けた頃に太祖の下へ到着した。孫氏は子を抱えて泣きながら拝謁すると、太祖もまた涙を流し、膝の上に子を乗せて言った。「正に花将軍の子息である。」褒美として雷老に衣服を与えようとすると、雷老は忽然と姿を消してしまった。子は煒という名を賜わり、昇進を重ねて水軍衛指揮僉事となった。その五世孫にあたる花遼は復州衛指揮使となり、世宗(朱翊鈞)に請願した結果、郜氏は貞烈夫人を贈られ、孫は安人となり、祠堂を建立して祭祀が執り行われたのであった。

 朱文遜は太祖の養子である。嘗て、元帥秦友諒と共に無為州に侵攻して勝利を収めた。許瑗は字を栗夫と言って、楽平県の人である。元朝末期、二度も郷試第一に挙げられた。太祖が婺州路に駐屯した時、許瑗は謁見して言った。「もし貴殿が天下を平定しようとお望みであれば、広く英雄を集めなければ、成功を得る事は難しいでしょう。」太祖は喜び、許瑗を帷幕に留め、軍務に参与させた。次いで、太平府の鎮守を命じた。王鼎は儀徴の人である。当初、趙忠の養子となった。趙忠は総管になると、太平路に勝利し、行枢密院判を授けられ、池州府を鎮守した。趙普勝が来襲すると、趙忠は戦没した。王鼎がその職位を継承すると、元の姓に戻し、太平府に駐屯した。こうして、三人全員が死亡したのである。
 当時、劉斉という人物は、江西行中書省参知政事として吉安府を鎮守していた。守将の李明道が開門して陳友諒の兵を迎え入れると、参知政事曾万中・陳海を殺害し、劉斉及び知府宋叔華を捕らえ、彼らを脅迫して帰順させようとしたものの、全員が拒絶した。また臨安路が突破されると、同知趙天麟が捕らわれたが、やはり屈服せず、共に陳友諒の下へ送致された。陳友諒は洪都府を攻撃している最中で、三人を殺害して城下に晒した。無為州が陥落し、知州董曾が捕らわれると、董曾は抵抗して罵声を浴びせて屈服しなかったので、長江に沈められた。


by su_shan | 2017-06-19 01:15 | 『明史』列伝第一百七十七