元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

孫炎 王道同 朱文剛

『明史』巻二百八十九、列伝第一百七十七、忠義一

 孫炎、字を伯融、句容県の人。鉄の様な顔色で、片足が不自由であった。活発な議論を好み、経世の術を自負していた。丁復・夏煜と交遊し、詩文によって名を馳せた。太祖(朱元璋)が集慶路を陥落させると、孫炎を召し出し、孫炎は賢人を招聘して大業を成就するよう提案した。当時は江南行中書省が設立されて間も無く、登用されて首掾となった。浙東地方遠征に従軍し、池州路同知を授けられ、華陽府知府(※1)に昇進し、江南行中書省都事に抜擢された。処州路に勝利すると、総制の地位を授けられた。太祖の命によって劉基・章溢・葉琛らを招聘したものの、劉基は出仕しなかった。孫炎は再度使者を派遣すると、劉基は一振りの宝剣を贈った。孫炎は詩を作り、宝剣とは正に天子に献上し、命に従わない者を斬り捨てるものであるから、人臣としてこれを自身のものとする訳にはいかないとして、宝剣を封印して返還した。更に、劉基に対して数千言に及ぶ書状を送ると、劉基はようやく姿を現したので、孫炎は彼を建康へ送り届けたのであった。
 当時、処州城の周辺は賊軍ばかりであったが、城の守備は一兵も存在しなかった。苗軍が造反すると、枢密院判耿再成を殺害し、孫炎及び知府王道同・元帥朱文剛を捕らえ、空室に幽閉し、脅迫して投降を迫ったが、屈する事は無かった。賊帥賀仁徳は炙った雁の肉と斗酒を孫炎に差し出すと、孫炎は酒を呷りながら罵声を浴びせた。賊は怒り、刀を抜き怒鳴って服を引き剝がすと、孫炎は言った。「その紫の綺裘は主上より賜わりしもの、吾は死を受け入れようぞ。」こうして孫炎は王道同・朱文剛と共に殺害された。この時、四十歳であった。丹陽県男を追贈され、耿再成の祠堂に塑像が建立された。

 王道同は中書省宣使から処州府知府となった人物で、太原郡侯を追贈された。 
 朱文剛は太祖の養子であり、小字を柴舎と言った。変事に際して、耿再成と共に兵を集めて賊徒の殺害を試みたが、力及ばず、遂に落命した。鎮国将軍を追贈され、功臣廟に合祀された。

【注釈】
(※1)華陽府知府とあるが、華陽府は九華府の誤りである。『罪惟録』伝巻十二上、致命諸臣列伝、孫炎には、「浙東地方遠征に従軍し、池州路同知に抜擢され、次いで池州路が華陽府に改称された(従征浙東、擢同知池州、尋改池為華陽府。)」とあり、また『明史』巻四十、志第十六、地理一、南京、池州府には、「池州府は元代の池州路であり、江浙行中書省江東道に属した。太祖の辛丑(1361)年八月に九華府と呼称し、次いで池州府と呼称した(池州府〔元池州路、属江浙行省江東道。〕太祖辛丑年八月曰九華府、尋曰池州府。)」とあり、池州路・九華府・池州府の順で改称されている。


[PR]
by su_shan | 2017-08-08 21:52 | 『明史』列伝第一百七十七