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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第十一( 5 )

列伝第十一 目次

陳友諒 張士誠 方国珍 明玉珍

 論賛、陳友諒・張士誠は小吏や行商より身を起こし、戦乱によって分不相応な地位を盗み取り、その富強を恃みとしたが、何れも最後はその恃みとする所によって敗れ去った。その始めから終わりまでの成功と失敗の原因を辿り、太祖(朱元璋)はこれを深く洞察したものである。方国珍は最も早くから叛乱を起こし、反覆を繰り返して節操を持たなかったものの、最期には良い死に様を遂げる事ができたのであるし、明玉珍は情勢に乗じて一隅に割拠したが、二代にわたって帝号を僭称したのであるから、いずれも幸福では無かったという訳では無いのである。方国珍は又の名を方谷珍と言うが、これは投降した後に明朝の諱を避けたものである。
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by su_shan | 2016-12-18 20:23 | 『明史』列伝第十一

明玉珍

『明史』巻一百二十三、列伝第十一

 明玉珍、隋州の人。身長は八尺余りで、生まれつき重瞳の相であった。徐寿輝が挙兵すると、明玉珍は郷里の父老と共に千人余りを結集し、青山に駐屯した。徐寿輝が皇帝を僭称すると、人を送って明玉珍を招聘して言った。「来たらば共に富貴を得よう、来たらざれば兵を挙げて汝を屠ろうぞ。」明玉珍は部衆を引き連れて投降し、元帥となって沔陽府を鎮守した。元朝の将帥哈麻禿(ハマトゥ)と湖中に戦った際に、流れ矢が右目を射抜き、遂に隻眼となった。しばらくして、明玉珍は軍船五十艘を率いて川・峡の間を掠奪した後、引き揚げようとした。この時、元朝の右丞完者都(オルジェイドゥ)は重慶路で兵を募っており、義兵元帥楊漢が徴募に応じて駆け付け、明玉珍を殺害して軍を吸収しようとしたが、果たせなかった。楊漢は敗走して峡を脱出したが、明玉珍に遭遇すると洗い浚い白状して言った。「重慶路には大軍が居ない上に、完者都と左丞哈麻禿は折り合いが悪く、もし船を出して不意を突いて襲撃すれば、或いは占領できるかも知れませんぞ。」明玉珍が決めかねていると、部将の載寿が発言した。「好機を見逃す手はありませんぞ。船団を二つに分け、半分には糧秣を載せて沔陽府に戻し、残りの半分で漢兵が重慶路を攻める事として、上手くいかなければ財物を掠め取って帰れば良いのです。」明玉珍はその策を採用し、重慶路を襲撃し、完者都を敗走させ、哈麻禿を捕らえて徐寿輝の面前に献じた。徐寿輝は明玉珍に隴蜀行中書省右丞の地位を授けた。時に至正十七年の出来事である。
 程無くして、完者都が果州より侵攻して来ると、平章政事朗革歹(ランゲタイ)・参知政事趙資と合流し、重慶路を奪還しようと企図し、嘉定府路の大仏寺に駐屯したので、明玉珍は万勝を派遣してこれを防いだ。万勝は黄陂県の人で、智勇に優れ、明玉珍は特に重用し、自らの姓を名乗らせたので、周囲からは明二と呼ばれた事もあったが、後に元の姓に戻している。万勝は嘉定府路を攻撃したが、半年を費やしても占領できなかった。そこで明玉珍は軍を率いてこれを包囲し、万勝を派遣して軽装兵を用いて成都路を陥落させ、朗革歹及び趙資の妻子を捕らえた。朗革歹の妻は自ら長江に身を投じた。趙資の妻子は嘉定府路に送られ、趙資への降伏勧告に利用された。趙資は弓を引いて妻を射殺した。俄かに城が破られると、趙資及び完者都・朗革歹を捕らえて重慶路に帰還し、治平寺に軟禁し、登用しようとした。三人は聞き入れず、市中で斬殺されたが、礼節を以て埋葬され、蜀の人々は彼らを「三忠」と称えた。こうして、諸郡県は相次いで帰順していった。
 (至正)二十年、陳友諒が徐寿輝を弑逆して自立した。明玉珍は言った。「陳友諒とは共に徐氏に仕える臣下であったのに、このように正道に背くとは!」そこで兵を用いて瞿塘関を閉塞し、街道を封鎖した。徐寿輝の廟堂を城の南端に建立し、折々に祭祀を執り行った。自立して隴蜀王となり、劉楨を参謀とした。
 劉楨は、字を維周と言い、瀘州の人で、元朝の進士である。嘗て大名路経歴となったが、官を辞して自邸に戻っていた。明玉珍が重慶路を攻略するに際して、瀘州を通り掛かり、部将の劉沢民が彼を推薦したものである。明玉珍が往訪すると、共に語らって意気投合し、即日船中に招き入れ、礼節を尽くして歓待した。翌年、劉楨は人払いをして提案を行った。「西蜀は優れた地勢でございまして、大王はよくこの地を統治なさっておられます。戦乱の傷跡を休養し、賢人を登用して軍備を整える事で、不世出の偉業を成し遂げられましょうぞ。とは言うものの、この時に大号を用いて人心を繫ぎ留めず、一度でも将兵たちが故郷を思う様な事があれば、集団は分裂瓦解し、大王は建国する事すらままなりますまい。」明玉珍はこの提案を是とし、群臣と議論した結果、(至正)二十二年の春に重慶路に於いて皇帝位を僭称し、国号を夏とし、天統と改元した。妻彭氏を皇后として冊立し、子の明昇を太子とした。周制に倣い、六卿を設け、劉楨を宗伯とした。蜀の地を八道に分け、府州県の官名を改めて設置した。一方で、蜀の兵は諸国に比べて弱体で、精兵は一万に満たなかった。明玉珍には元々遠謀は無かったものの、性格は質素であり、有能な人材を重用した。即位すると、国子監を設け、公卿の子弟に教育を施し、提挙司教授〔一〕を設け、社稷宗廟を建立し、雅楽を振興し、進士科を開設し、賦税を定め、収穫の十分の一を徴収した。蜀の人々はみな安堵した。これらは何れも劉楨の発案によるものであった。
 翌年、万勝は界首より、鄒興は建昌路より、また指揮李某は八番より派遣して、経路を分けて雲南に侵攻した。その内の二路は到達しなかったが、ただ万勝の兵だけは深く侵入し、元朝の梁王を金馬山に敗走させた。翌年、梁王は大理の兵を伴って万勝に反撃し、万勝は孤立して支援が続かず退却した。再び鄒興を派遣して巴州を奪取した。しばらくして、六卿を改めて中書省枢密院とし、冢宰載寿・司馬万勝をそれぞれ左・右丞相に改め、司寇向大亨・司空張文炳は枢密院事を拝領し、司徒鄒興は成都路を鎮守し、呉友仁は保寧府を鎮守し、司寇莫仁寿は夔関を鎮守し、みな平章政事を与った。
 この年、万勝を派遣して興元路を奪取し、参知政事江儼を送って太祖(朱元璋)に好を通じた。太祖は都事孫養浩を派遣して返礼し、明玉珍に書状を送って言った。「貴殿は西蜀にあり、我は江左にある。まるで後漢末期の孫権と劉備の様ではないか。この頃、王保保(拡廓帖木児、ココテムル)は鉄騎精兵を率いて中原に割拠し、その意志は曹操に劣らず、荀攸や荀彧の様な謀臣、張遼や張郃の様な猛将を抱えているので、我ら両名は安心して休む事などできよう筈が無い。我と貴殿は正に親密な間柄の国であるのだから、願わくは孫権劉備の相克を教訓となされる様に。」これ以降、信使の往来が絶える事は無かった。
 (至正)二十六年春、明玉珍の病が重篤になると、載寿らを召し出して諭して言った。「西蜀の地は堅固であるから、もし皆が協力して一つになり、後継を補佐してくれれば、自然と守り切る事ができよう。そうでなければ、後の事は知った事では無いぞ。」こうして病没した。凡そ即位より五年、三十六歳であった。
 
 子の明昇が跡を継ぎ、開熙と改元し、明玉珍を長江の北岸に埋葬し、これを永昌陵と呼び、太祖と廟号した。母彭氏を称えて皇太后とし、政務に参画させた。明昇は僅か十歳であり、諸大臣はみな粗暴であった為、他者の下風に立つ事を潔しとしなかった。更に万勝と張文炳は仲違いし、万勝は密かに人を送って彼を殺害した。張文炳は明玉珍の養子であった明昭の覚えが厚かった為、また彭氏の令旨を偽造して万勝を縊り殺した。万勝は明氏にとって最も功績が多く、その死に際して、蜀の人々の多くが彼を憐れんだ。呉友仁は保寧府から檄文を飛ばし、君側の粛清を名目とした。明昇は載寿に命じてこれを討伐させた。呉友仁は載寿に書状を送って言った。「明昭を誅殺しなければ、必ずや国家は不安定になり、必ずや民衆は服従しなくなるであろう。朝方に明昭を誅殺すれば、我は夕方には帰参するものである。」そこで載寿は明昭の誅殺を上奏し、呉友仁は入朝して謝罪した。こうして諸大臣が物事を決裁するに際しては、呉友仁が最も専権を振るい、国勢は凋落し、益々衰えていった。万勝の死後、劉楨が右丞相となり、三年後に没した。この年、明昇は太祖に遣使して告哀し、次いで再び遣使して聘問した。太祖もまた侍御史蔡哲を派遣して返礼した。
 洪武元年、太祖が元朝の首都を占領すると、明昇は書状を奉じて祝賀した。翌年、太祖は遣使して大木を求めた。明昇は方物を献上した。洪武帝は璽書を用いて返答した。この年の冬、平章政事楊璟を派遣して明昇に帰順を要求した。明昇は拒絶した。楊璟は再び明昇に書状を送って言った。
  古来の国家というものは、同じ力を持つ者は徳を共にし、同じ徳を持つ者は義を共にするものでございます。故に自身も家系も全うする事ができ、果てしなく名誉が広まるのでございますが、これに背く者はただ敗れ去るのみでございます。貴殿は幼少であらせられますが、先人の偉業を受け継がれ、巴・蜀の地を支配なされた事により、諮らずとも計略はできあがる上に、群臣の提案を採用なされば、瞿塘関・剣閣の要害を頼みに、一人が戈を構えれば、万人を以てしても手が出せるものではございません。これらの全てが変化の到来を妨げ、貴殿のお言葉を誤らせているのでございます。嘗て蜀の地に拠って最も栄えた者の中で、漢の昭烈帝(劉備)に勝る者は居りません。更に諸葛武侯(諸葛亮)がこれを補佐し、官吏を選抜して守らせ、兵卒を訓練し、不足する資財は、全て南詔より調達したものでございます。ところが情勢が逼迫すると、僅かながら自らを守る事が精一杯でございました。今や貴殿の版図は、南は播州を越えず、北は漢中を越えず、これでは先例に対して遙かに隔絶しておられますのに、一隅の地に割拠し、僅かに生き永らえようとしても、賢明とは申せますまい。
  我が主上は仁聖威武にして、帰順する者に恩義を与えなかった事は無く、地勢の堅固に拠る者には後に征討を加えました。貴殿の先人とは好を通じていた事もあって、軍を動かすには忍びず、しばしば使節を遣わして意を示しました。また貴殿は年若くあれせられ、未だに事変を経験なされず、狂言に恐惑され、遠謀大計を見失っておられますので、再び私、楊璟を遣わして直接禍福を申し上げているのでございます。深仁厚徳にして、明氏は浅慮ではあらせられませんので、果たして貴殿のお考えが深からぬものでございましょうか。
  更に先の陳友諒や張士誠の輩は、密かに呉・楚の地に拠り、軍船を建造して江河を塞ぎ、糧秣を積載して山岳を抜け、勇将精兵を擁して、自らを無敵と称しました。ところが鄱陽湖で一戦すると、陳友諒は討ち死に、軍を返して東征すると、張氏は面縛致しました。これは人の力に頼ったものでは無く、正に天命にございました。貴殿はこれを如何にお考えでございますか。
  陳友諒の子は密かに江夏へ逃げ帰ったので、王の軍は討伐を敢行し、その勢いは逼塞して璧玉を咥える事になりました。主上はその罪過を許され、爵位を授けられましたが、その恩寵の盛んなる事は、天下の知る所でございます。貴殿はかの様な罪過もございませんので、心構えを翻され、自ら多くの幸福を求められるのであれば、必ずや封爵を授かり、先人の祭祀を守り、代々絶えず受け継ぐ事になりましょう。これが賢明では無い筈がございません。もし一隅に割拠し、僅かに生き永らえようと望まれたとしても、それは煮え滾る鼎に泳ぐ魚、帷幕の上に巣を作る燕の様なものでございまして、正に災禍が降りかかろうとしても、平然として気付かれる事もございますまい。私、楊璟は天朝の兵の到来を危惧致しますが、凡そ今日の貴殿の計略は、後日に自身の為の計略として、富貴を得ようとされておられるのでございましょう。正にこの時、老母や幼子は、何処に行き着くと仰るのでございますか。禍福にせよ利害にせよ、それを白日の下に晒す事ができるのは、貴殿の下す決断以外にございません。
明昇は遂に従わなかった。
 その翌年、興元路の守将が城を挙げて降伏した。呉友仁はしばしばこの地に侵攻したが、勝利を収める事はできなかった。この年、太祖は街道を借用して雲南へ遠征する為に遣使したが、明昇は詔を奉じなかった。
 (洪武)四年正月、命により征西将軍湯和は副将軍廖永忠らを率いて水軍を用いて瞿塘関より重慶路へ向かわせ、前将軍傅友徳は副将軍顧時らを率いて歩騎兵を用いて秦・隴より成都路へ向かわせ、蜀を討伐させた。当初、載寿は明昇に告げた。「王保保や李思斉の様な強者であっても明朝に対抗する事はできなかったのです。ましてや我々蜀ではどうする事もできないでしょう。一度でも危険があれば、いっそのこと出奔されては如何でございますか。」呉友仁は言った。「それは違う、我が蜀の地は山に囲まれ長江に面することは中原の比では無く、外交によって好を通じる一方、内々に備えを整えておくに勝るものはございません。」明昇はその案を採用し、莫仁寿を派遣して瞿塘峡の入り口に鉄索を張り巡らせた。そして載寿・呉友仁・鄒興らを派遣して兵を増強して支援させた。北は羊角山を拠点とし、南は南城砦を拠点とし、両岸の断崖を削り、鉄索を渡して飛橋を作り、木板を置いて砲を並べ敵を防いだ。湯和の軍は到着しても前進できなかった。傅友徳は階州・文州の備えが手薄である事を察知すると、前進してこれを破り、また綿州を破った。載寿は鄒興らを留めて瞿塘関を守らせ、自らは呉友仁と共に帰還し、向大亨の軍と合流して漢州を救援した。数度交戦して全て大敗を喫し、載寿・向大亨は成都路に敗走し、呉友仁は保寧府に敗走した。この時に廖永忠は瞿塘関を破っていた。飛橋鉄索は全て焼き落とされ、鄒興は矢に当たって戦死し、夏兵は全て潰走した。遂に夔州路を陥落させると、軍は銅鑼峡に差し掛かった。明昇は大いに恐れ、右丞劉仁は成都路へ脱出するよう勧めた。明昇の母彭氏は涙ながらに訴えた。「成都路に逃れた所で、僅かながら命を長らえるだけ。大軍の向かう所、その勢いは破竹の如く、早々に降伏して市井の民として生きる事に及ぶものはありませんよ。」こうして遣使して表を届け、降伏を申し出たのであった。面縛して口に璧玉を咥え、棺を担ぎ、母彭氏と属官を伴って軍門に降った。湯和は璧玉を受け取り、廖永忠は束縛を解き、申し出を受け入れて慰撫し、諸将に下令して掠奪を禁じた。一方で載寿・向大亨もまた成都路を挙げて傅友徳に降伏した。明昇ら全員を京師へ送致すると、礼部の臣が上奏した。「皇帝陛下は奉天殿に御座なされ、明昇らは平伏して午門の外で罪を請い、官吏が赦免文を読み上げるのです。孟昶が宋朝に降伏した時の故事に倣いましょう。」洪武帝は言った。「明昇は幼く、臣下であって、孟昶とは異なるものである。地に伏して表を差し出し罪を請うの部分は削除せよ。」この日、明昇に帰義侯の爵位を授け、京師に邸宅を下賜した。
 冬十月、湯和らは川・蜀諸郡県の悉くを平定し、保寧府に於いて呉友仁を捕らえ、遂に軍を帰還させた。載寿・向大亨・莫仁寿は船に穴を穿って自ら溺死した。
 丁世貞〔二〕という人物は、文州の守将であり、傅友徳は文州を攻撃した際、要害に拠って奮戦し、汪興祖を戦死させたものである。文州が破られると、遁走した。すぐさま再び兵を率いて文州を破り、朱顕忠を殺害したが、傅友徳が反撃してこれを敗走させた。夏が滅亡すると、残兵を集めて秦州を五十日間包囲した。軍が敗北し、夜になって梓潼廟に宿営していた所、その部下に殺害された。呉友仁は京師に到着すると、洪武帝は彼が漢中に侵攻し、初めに戦端を開き、明氏の亡国を導いたとして、市中で処刑された。他の将校には徐州を守らせた。翌年、明昇を高麗へ移した。

【校勘記】
〔一〕提挙司教授、『明史稿』伝九、明玉珍伝・『太祖実録』巻十六、丙午二月「是月」条はいずれも「提挙司教授所」としている。
〔二〕丁世貞、本書巻百二十九、傅友徳伝・『国朝献徴録』巻六、潁国公傅友徳伝は「丁世珍」としている。
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by su_shan | 2016-12-18 20:12 | 『明史』列伝第十一

方国珍

『明史』巻一百二十三、列伝第十一

 方国珍、黄巌州の人。長身で顔が黒く、身体は白く瓢箪の様で、体力は馬を走って追い掛ける程であった。代々塩を売り海運を生業としていた。元朝の至正八年、蔡乱頭という人物が居て、海上で掠奪を働いたので、官憲は兵を発してこれを捕らえた。ある仇敵が方国珍は賊に通じていると密告した。方国珍は仇敵を殺害し、遂に兄の方国璋・弟の方国英・方国珉と共に海上へ逃れ、数千人の群衆を集め、荷船を襲撃して、海路を脅かした。行中書省参知政事朶児只班(トルチパン)がこれを討伐したが、敗北して捕らえられた結果、朝廷への官位要求を強要され、定海県尉を授けた。次いで再び叛くと、温州路を荒らした。元朝は孛羅帖木児(ボロトテムル)を行中書省左丞として、兵を率いて討伐させたが、またしても敗れ、捕らえられた。そこで大司農達識帖睦邇(タッシテムル)を派遣して説得し、これを投降させた。汝州・潁州で叛乱が起きると、元朝は水軍を集めて長江を守らせた。方国珍は恐れを抱き、再び叛いた。台州路達魯花赤(ダルガチ)泰不華(泰ブカ)を誘い出して殺害し、海上へ逃れた。手下を京師に潜入させ、権力者に贈賄した結果、投降を許され、徽州路治中を授かった。方国珍は朝命を聞かず、台州路を陥落させ、蘇州の太倉を焼き払った。元朝は海道漕運万戸の地位を提示して再びこれを招聘したので、受け入れた。次いで行中書省参知政事に進み、一軍を率いて張士誠攻撃に従事した。張士誠は部将を派遣してこれを崑山に防いだ。方国珍は七度戦い七度勝利した。張士誠もまた降伏したので、撤兵した。
 これより以前、天下は長らく平穏であった事から、方国珍兄弟が海上を荒らし始めても、官憲は出兵を嫌い、只々招聘に固執した。唯一、都事劉基は方国珍が逆賊の筆頭であり、降伏する度に叛く事から、決して許してはならないとした。朝議の結果、採用されなかった。方国珍は官位を授かった後、慶元路・温州路・台州路の地を領有した事で、更に強大な勢力となって制御出来なくなった。方国珍の挙兵当初は、元朝は実体の無い詔勅を数十本も乱発して人を集め、賊を討伐しようとした。沿海地方の壮士の多くが募集に応じて功績を挙げた。官憲は莫大な賄賂を求め、応じないと、一家数人を無実の罪で処刑された挙句に官位を得られない者まで現れた。一方で方国珍の輩は、一度でも招聘に応じれば、その度に高位に昇った。その為に民衆の人気を集めて盗賊になる者が続出し、方国珍に従う者は大きく増加した。元朝が江・淮の地の実権を喪失すると、方国珍の船団に基づいて海運の開通を目論み、更なる官爵を用いてこれを繫ぎ留めようとし、それが無ければ困難な状況にあった。張子善という人物が居て、策略を好み、方国珍に対して軍を用いて長江を遡上して江東を窺い、北は青州・徐州・遼海の攻略を力説した。方国珍は言った。「我が志はそれには及ばぬ。」これに謝礼して退去させた。
 太祖(朱元璋)が婺州路を奪取すると、主簿蔡元剛を使者として慶元路へ派遣した。方国珍は一計を案じて部下に言った。「江左の奴の号令は厳正公明で、恐らく抗し得ぬであろう。ましてや我が敵手は、西に呉(張士誠)があって、南に閩(陳友定)がある。もし一時的にでも恭順の意を示さねば、それに託けて茶々を入れられ、不味い事になるであろうよ。」一同はその通りだと思った。こうして遣使して書状を奉じ、黄金五十觔、白金百觔、文綺百匹を進呈した。太祖もまた鎮撫孫養浩を派遣してこれに報いた。方国珍は温州路・台州路・慶元路の三郡を献じ、更に次男方関を人質として送り込んだ。太祖はその人質を受け取らず、手厚く物品を下賜してこれを送り返し、また博士夏煜を向かわせ、方国珍に福建行中書省平章政事、弟の方国英に参知政事、方国珉に枢密分院僉事を授けた。方国珍の三郡献上は上辺だけで、実際には密かに二心を抱いていた。夏煜が到着しても、偽って病気と称して、自身は高齢で職務に耐えないので、ただ平章政事の印章だけを受け取りたいと言った。太祖はその事情を察し、書状を送って諭した。「我は初め、汝が時機を弁えた豪傑だと思ったからこそ、汝に一地方を委ねたのだ。汝の内心は量り難く、我が方の虚実を見極めようとして実子を遣わし、我が官爵を退けようとして老病と称した。そもそも智者とは敗北を転じて成功し、賢者とは災禍から幸福を生むものである、汝はよくよくこれを考えよ。」この当時、方国珍は毎年の様に海船を運行し、元朝の為に張士誠の粟十万石余りを京師へ輸送し、元朝は方国珍を江浙行中書省左丞相・衢国公に昇進させ、慶元路に中書分省を開設した。方国珍はこれを従来通りに受け取ったので、特に甘言を用いて太祖に阿り、元朝に従属する意志は全く無いと釈明した。先の書状が届いても、遂に省みる事は無かった。太祖はまた書状を用いて諭した。「福徳は至誠の心に基づき、災禍は反覆の意志から生まれるもの、隗囂・公孫術の前例を鑑みるが良い。一度でも大軍が動き出せば、虚言を弄した所で押し止める事など叶わぬぞ。」方国珍は困窮した振りをして、また明らかに恐懼して謝罪し、財宝や飾り鞍や馬を献上した。太祖は再びこれを退けた。
 そのうち苗軍の将帥蒋英らが叛くと、胡大海を殺害し、その首を持って方国珍の下へ逃げ込んで来たが、方国珍は受け取らなかったので、台州路から福建へ向かおうとした。方国璋は台州路を鎮守しており、これを迎撃したが、敗北して殺害されたので、太祖は使者を派遣して弔祭した。翌年、温州路出身の周宗道が平陽州を以て帰順した。方国珍の甥の方明善は温州路を鎮守していたので、兵が衝突した。参軍胡深がこれを迎え撃って破り、遂に瑞安州を陥落させ、兵を温州路に進めた。方国珍は恐れ、毎年白金三万両を軍に供給する事を申し出たが、杭州路の陥落まで待たされ、漸く領土を差し出して帰順した。太祖は詔を下して胡深を撤退させた。
 呉元年に杭州路に勝利した。方国珍は思いの侭に地方に割拠し、間諜を送り込んで貢献度合いを標榜して勝敗の行方を窺い、またしばしば拡廓帖木児(ココテムル)及び陳友定と好を通じ、掎角の関係を企図した。太祖はこれを聞いて激怒し、書状を送り付けてその十二の罪状を咎め、また軍糧として二十万石を課した。方国珍は一同を集めて討議した所、郎中張本仁〔一〕・左丞劉庸らはみな従うべきでは無いと言った。丘楠という人物が居て、ただ独り反論した。「彼らの言う事はどれも貴公の為になりませんぞ。そもそも、智略があれば物事を決する事ができ、信義があれば国家を守る事ができ、名分があれば兵を用いる事ができるというものです。公は浙東を経略すること十数年になりますが、長らく逡巡されていたので、もはや策を定めるには遅く、これでは智略があるとは申せません。既に許しを得て投降しておきながら、再び反覆しているので、これでは信義があるとは申せません。彼らは征討の軍を発するに際して、大義を用いておりますが、我々のそれは確実に彼らに劣っているので、これでは名分があるとは申せません。幸いにも平伏して助命を乞えば、願わくは銭俶の故事に倣う事ができるでしょう。」方国珍は聞き入れず、連日連夜珍宝を運搬し、船舶を掻き集め、出航する計画を立てた。
 九月〔二〕、太祖は平江路を破ると、参知政事朱亮祖に命じて台州路を攻撃させ、方国英は迎え撃ったが敗走を余儀なくされた。進撃して温州路に勝利した。征南将軍湯和〔三〕は大軍を率いて長駆して慶元路へ到達した。方国珍は所部を率いて海上へ逃れた。追撃してこれを盤嶼の戦いで破ると、その部将は相次いで投降した。湯和はしばしば人を送って順逆の道理を説得したので、方国珍は子の方関を派遣して表を奉じて降伏を申し出た。「臣の聞く所では、天の覆わない所は無く、地に載らない所は無いと申します。王者は天を礼賛して地に法令を布き、人々に受け入れさせない所は無いとも申します。臣は長らく主上の福徳を享受しておりましたので、自ら天地を断つ覚悟に欠けておりますが、畏れ多くも愚衷を申し上げます。臣は元より凡才の身でございまして、数々の事情の為に、海島より身を起こしましたが、父兄らの力添えがあった訳でも無く、また自らを帝位に上す意図があった訳でもございません。正に主上が雷光さながらに婺州路に到達なさいました時、臣は愚かにも子を遣わして入朝させましたので、元より既に主上の今日の有様を承知しておりましたが、日月の末光に縋り、雨露の余潤を望もうとしておりました。ところが主上は公正無私であらせられ、郷郡を守らせた事は、呉越の故事の様でございます。臣は条約を遵奉し、妄りに節目を生じる様な事は致しませんでした。ただ一族は気が緩み、密かに紛争の火種を撒いた事で、ご苦労にも問責の軍を起こされましたので、私の心中は戦々恐々として、守兵に出迎えさせたのであります。ところが、どうにも海に浮かんでおりますのは、何とした事でございましょうか。親に孝行する子供であっても、易しい罰であれば受け入れますが、厳しい罰であれば逃げるものでございまして、臣の事情は大体がこの様なものでございます。面縛して朝廷に罪を請いたいとは存じますが、さすがに斧鉞による誅殺は恐ろしゅうございます。天下後世に対して臣の得たる罪の深さを知らしめなければ、主上が臣を容れる事ができなかったとされますでしょうが、それではなんとも天地の大徳に繋がらぬ話ではありますまいか。」恐らくこの文章は幕下の士であった詹鼎の作であろう。
 太祖は一読するとこれを憐れみ、書状を与えて言った。「汝は我が告諭に背き、手を拱いて帰順せず、更に海上へ逃れたが、享受した恩徳は実に多かろう。今や困窮鬱屈し、悲哀の情が言葉に滲み出ておったので、我は汝の誠意は誠意としながらも、先の過ちは過ちとしないので、この上は猜疑しない様にせよ。」こうして方国珍の入朝を促したが、対面すると咎めて言った。「汝の到来は、遅過ぎるという事は無かったのう。」方国珍は頓首して謝罪した。広西行中書省左丞〔四〕を授かったが、食禄のみ支給されて任地に赴く事は無かった。数年後、京師で没した。
 子の方礼は広洋衛指揮僉事に累官し、方関は虎賁衛千戸所鎮撫となり、方関の弟の方行は、字を明敏と言い、詩文に巧みで、嘗て承旨の宋濂がこれを称賛したものである。
 
 劉仁本、字を徳元、方国珍と同県の人である。元朝末期に進士乙科に及第し、浙江行中書省郎中に歴任し、張本仁と共に方国珍の幕下に加わった。しばしば名士の趙俶・謝里・朱右らを伴って詩を作り、時に称賛を受けた。方国珍は海運によって元朝に物資を輸送していたが、実際の事務は劉仁本〔五〕が指揮していたものである。朱亮祖が温州路を陥落させると、劉仁本は捕縛された。太祖はその罪を責め、鞭打ったところ背中が潰爛して死んだ。その他の属官で方国珍に従って降伏した者はみな滁州に移住させられたが、ただ丘楠だけは許され、韶州知府となった。
 詹鼎という人物は、寧海県の人で、学識に優れていた。方国珍の府都事となり、上虞県の判官を担当し、その統治には声望があった。京師に到着したものの、登用されなかったので、封事に万言を書き記し、洪武帝の車列を待ち受けてこれを献上した。洪武帝は馬を止めて目を通すと、丞相に命じて官位を与えようとした。楊憲はその才能を妬み、これを妨害した。楊憲が粛清されると、留守司経歴に除せられ、刑部郎中に遷ったが、ある事案に連座して処刑された。

【校勘記】
〔一〕張本仁、元は「張仁本」としているが、後の「劉仁本」と混同して錯誤したのであろう。同巻下文及び『明史稿』伝九、方国珍伝・『太祖実録』巻八十八、洪武七年三月壬辰条に基づき改めた。
〔二〕九月、元は「九月」の上に「二十七年」の四文字があった。前文には既に「呉元年」とあり、至正二十七年とは呉元年である。従って削除した。
〔三〕征南将軍湯和、征南は元は「平南」としており、本書巻一、太祖紀・巻百二十六、湯和伝及び『太祖実録』巻二十一、呉元年十月癸丑条に基づき改めた。
〔四〕広西行中書省左丞、元は「西」の前に「州」の字があった。本書巻四十五、地理志・『太祖実録』巻八十八、洪武七年三月壬辰条はいずれも「州」の字が無く、従って削除した。
〔五〕劉仁本、本稿で二度現れる「仁本」は何れも元は誤って「本仁」としているが、前文の「張本仁」と混同して錯誤したのであろうから、今ここに改めた。
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by su_shan | 2016-12-13 18:44 | 『明史』列伝第十一

張士誠

『明史』巻一百二十三、列伝第十一

 張士誠、小字を九四、泰州白駒場亭の人。三人の弟があり、何れも船を動かして塩を運ぶ作業を生業としながら、私的に不当な利益も得ていた。特に蓄財を軽視して施しを好み、仲間内で歓心を得ていた。常々何人もの富豪を相手に塩を販売していたが、富豪の多くはこれを侮辱し、正当な対価を与えない事も有った。中でも弓手を務めていた丘義は張士誠を最も手酷く扱った。張士誠は怒り、弟や壮士李伯昇ら十八人を率いて丘義を殺害し、いくつかの富豪を襲撃し、火を放ってその邸宅を焼き払った。隣郡に入り、若者を集めて挙兵した。塩運業者は重労働に苦しんでいたので、遂に協力して主に推戴し、泰州を陥落させた。高郵府の守将李斉が説得してこれを鎮圧したが、再び叛いた。河南江北行中書省参知政事趙璉を殺害し、並びに興化県を陥落させ、徳勝湖に砦を築き、一万人余りの群衆を集めた。元朝は万戸の辞令書を提示してこれを招聘したが、受け入れなかった。欺いて李斉を殺害し、高郵府を襲撃して占拠し、自ら誠王を称し、独自に大周と号し、天祐と建元した。至正十三年の出来事である。
 翌年、元朝の右丞相脱脱(トクト)が大軍を率いて征討し、何度も張士誠を破り、高郵府を包囲し、その外城を破った。城が陥落する寸前、順帝が讒言を信じ、脱脱の兵権を取り上げ、官爵を剥奪し、他の将帥にこれを代行させた。張士誠は間隙を突いて奮戦し、元軍が潰走したことで、再び威勢を振るう様になった。翌年、淮東で飢饉が発生すると、張士誠は弟の張士徳を派遣して通州より長江を渡って常熟に侵入した。
 (至正)十六年二月に平江路を陥落させ、並びに湖州路・松江府及び常州路といった諸路を陥落させた。平江路を隆平府と改称し、張士誠は高郵府より移って当地を都と定めた。そして承天寺を府庁に指定し、大殿の中に座を設け、棟木に矢を三本射て証とした。この年、太祖(朱元璋)もまた集慶路を陥落させ、楊憲を派遣して張士誠と好を通じようとした。その書状には次の様に記してあった。「昔、隗囂は天水郡に拠って威勢を轟かせたが、今や貴殿もまた姑蘇に拠って王号を称され、事の趨勢は同じく、我は心から貴殿の為に喜んでいる。隣人として睦まじく境界を守る事は、古人の貴ぶ所であって、密かに非常に親しみを感じる物である。ただ今より信使を往来させ、讒言に惑わされて辺境に諍いを生じる事の無い様にしようではないか。」張士誠は書状を受け取ると、楊憲を留めて返答しなかった。直後、水軍を派遣して鎮江府を攻撃した。徐達はこれを竜潭の戦いで破った。太祖は徐達及び湯和を派遣して常州路を攻撃させた。張士誠の兵が来援したが、大敗し、張・湯二将軍を失ったので、書状を送って講和を求め、年間に粟二十万石、黄金五百両、白金三百觔を上納する事を申し出た。太祖は返答し、楊憲を拘留した咎を責め、年間五十万石の上納を求めた。張士誠はまたしても返答しなかった。
 当初、張士誠が平江路を獲得すると、兵を用いて嘉興県を攻撃した。元朝の守将苗軍元帥楊完者(楊オルジェイ)はしばしばその兵を破った。そこで張士徳を派遣して間道伝いに杭州路を破った。楊完者が救援に戻ると、再び敗退した。翌年、耿炳文が長興州を奪取すると、徐達は常州路を奪取し、呉良らは江陰州を奪取し、張士誠の兵は四方に出兵する訳には行かず、その勢力はやや衰えた。間も無くして、徐達の兵が宜興州を従えると、常熟州を攻撃した。張士徳が迎撃したが敗れ、先鋒趙徳勝に捕らえられてしまった。張士徳、小字を九六と言い、戦上手で策謀に長け、よく兵卒の心理を掌握し、浙西の地は全てその手によって攻略平定された物であった。捕縛された事が伝わると、張士誠は非常に落胆した。太祖は張士徳を留めて張士誠を招聘する口実にしようと考えた。張士徳は間道より張士誠に書状を送り、元朝への帰順を勧めた。こうして張士誠は投降の申し出を決意した。江浙行中書省右丞相達識帖睦邇(タッシテムル)は事の次第を朝廷に伝え、張士誠に太尉の地位を授け、その将帥や官吏に対してもそれぞれ官職を用意させた。張士徳は金陵に於いて遂に食を絶って死んだ。張士誠は偽号を廃止したものの、軍や領土は旧来のままであった。達識帖睦邇は杭州路に在って楊完者と折り合いが悪かったので、密かに張士誠の兵を引き入れた。張士誠は史文炳を派遣して楊完者を強襲し殺害、遂に杭州路を掌中に収めた。順帝は使者を派遣して食糧を徴発し、張士誠に竜衣や御酒を賜った。張士誠は海路より食糧十一万石を大都に運び入れ、これは毎年の恒例となった。張士誠はもはや以前にも増して驕慢になり、部下に下令して利益を分け、元朝に対して王爵を求めたが、認められなかった。
 (至正)二十三年九月、張士誠は再び自立して呉王となり、母の曹氏を尊んで王太妃とし、属官を置き、城内に別の府庁を設け、張士信を浙江行中書省左丞相として、達識帖睦邇を嘉興県に幽閉した。元朝は二度と食糧を徴発する事が出来なくなった。参軍の兪思斉という人物は、字を中孚と言って、泰州の人であったが、張士誠を諌めて言った。「反抗して賊となれば、貢納せずとも良いでしょうが、今や臣下となったにも関わらず、貢納しないとは何事にございますか!」張士誠は怒り、档案を地面に叩き付けたので、兪思斉は病気と称して去って行った。この当時、張士誠の支配する地域は、南は紹興路に至り、北は徐州を越え、済寧路の金溝に達し、西は汝州・潁州・濠州・泗州を隔て、東は海に迫り、全体で二千里余りに及び、軍勢は数十万を数えた。張士信及び婿の潘元紹は腹心となり、左丞徐義・李伯昇・呂珍は爪牙の臣となり、参軍黄敬夫・蔡彦文・葉徳新は謀議を主管し、元朝の学士であった陳基・右丞饒介は文章を管理した。また賓客を招き寄せる事を好み、贈答した物品は輿馬・居室・什器など事細かに及んだ。住居を持たない者や戸籍を持たない者は我先にと馳せ参じた。
 張士誠の為人は、外向きは慎重かつ寡黙で、器量が有る様に見える一方で、実際は遠謀など持ち合わせてはいなかった。呉の地に割拠すると、呉は長らく平穏を享受して、戸数からも分かる様に非常に繁栄していた事から、張士誠は奢侈に溺れ、政事を怠る様になった。張士信・潘元紹は最も蒐集を好み、金玉珍宝及び古法書名画の類で、集まらない物は無かった。日夜歌舞に興じて自ら楽しんだ。将帥もまた驕り高ぶって命令を下さず、出征の度に病気と称し、官爵や田宅を求めた後に動く有様であった。戦地に赴こうとする際には、同伴した下女や妾や楽器の列は踵が触れる程に絶え間無く続き、また遊説の士を大勢集め、樗蒲や蹴鞠を楽しみ、みな軍務を意に介さなかった。軍や領土を失って逃げ帰っても、張士誠は大して問題にしなかった。しばらくすると、再び将帥に任用したのである。上下の者が遊び楽しむ様は、滅亡するまで続いたのであった。
 太祖は張士誠と境界を接していた。張士誠はしばしば兵を用いて常州府・江陰州・建徳府・長興州・諸全州を攻撃したが、苦戦を強いられて撤退した。一方で太祖は邵栄に湖州路を攻撃させ、胡大海に紹興路を攻撃させ、常遇春に杭州路を攻撃させたものの、やはり陥落させる事が出来なかった。廖永安が捕らえられ、謝再興が叛いて張士誠に降伏した時、太祖は陳友諒と対峙しており、未だに余裕は無かった。陳友諒はまた使者を派遣して張士誠と太祖挟撃の密約を交わしたが、張士誠は境界を守って状況の変化を観察する事を考えており、使者は認めても、遂に動く事は無かった。太祖が武昌路を平定すると、軍を返し、徐達らに命じて淮東攻略を命じ、泰州・通州に勝利し、高郵府を包囲した。張士誠は水軍を用いて長江を遡上して来援すると、太祖自らこれを撃退した。徐達らが漸く高郵府を突破すると、淮安路を奪取し、淮北の地の悉くが平定された。こうして平江路に檄文を発し、張士誠に八つの罪状を突き付けた。徐達・常遇春は兵を率いて太湖より湖州路へ向かい、呉軍は毘山に迎え撃ち、また七里橋に戦ったが、何れも敗北し、遂に湖州路は包囲された。張士誠は朱暹・五太子らに六万の軍を与えて援軍として派遣し、旧館に駐屯させ、五ヶ所に砦を築いて防御を固めた。徐達・常遇春は十ヶ所に堡塁を築いて連携を断ち、その糧道を遮断した。張士誠は事態の深刻さを悟り、自ら兵を督戦して迎撃したが、皂林の戦いで敗北した。その部将徐志堅は東遷の戦いで敗れ、藩元紹は烏鎮の戦いで敗れ、昇山の水陸両寨は全て撃破され、旧館への援護は絶たれ、五太子・朱暹・呂珍は何れも降伏した。五太子は、張士誠の養子であり、背は短いが精悍で、地面から一丈余りも跳び上がる事が出来、また水泳を得意としており、呂珍・朱暹もまた宿将として戦上手であったが、ここに至って降伏したのであった。徐達らは湖州路に対して戦果を報せた。守将李伯昇らは城を以て降伏し、嘉興県・松江府も相次いで降伏した。潘原明もまた杭州路を以て李文忠に降伏した。
 (至正)二十六年十一月、大軍が平江路に進攻し、長大な包囲陣を築いてこれを困窮させた。張士誠は数ヶ月の間守り続けた。太祖は書状を送ってこれを招聘した。「古の豪傑とは、天意を畏れ民意に応える者が賢者であり、自身を全うし一族を保つ者が智者であり、漢の竇融・宋の銭俶がそれである。汝は熟慮されよ、自ら逆賊を討滅する道を進まねば、天下の笑い者となろうぞ。」張士誠は返答せず、しばしば包囲を突破する為に決戦を挑んだが、苦戦は免れなかった。李伯昇は張士誠が逼迫している事を知り、子飼いの論客に城壁を越えさせて張士誠を説得した。「当初、貴公の頼みとする地域は、湖州路・嘉興県・杭州路だけでございましたが、今や全てが失われました。この城を守るだけでは、いずれ内部より変事が起こり、貴公が死を望んだとしても、それすらも思い通りにならないでしょう。もし天命に従う事を潔しとしないのでありましたら、金陵に使者を派遣して、貴公の義を貴び民を救う意志を表し、城門を開いて、幅巾を身に着けて沙汰を待つのです、そうすれば万戸侯程度の地位は安堵される事でしょう。そもそも貴公の領土は、広大な様でいて、元々は他人の物を奪ったのでございますから、またこれを失ったとしても、貴公は何の損もしておられないのです。」張士誠はしばらく天を仰ぎ見てから言った。「我もこれを考えておった。」そして論客に謝礼したが、遂に降伏しなかった。張士誠の下の勇壮を以て鳴る精鋭で「十条竜」と呼ばれる者は、みな勇猛果敢で、常に銀の甲冑と錦の戦袍を身に着けて陣中に出入りしていたが、ここに至って悉く敗北し、万里橋の下で溺れ死んだ。最後に残った丞相張士信も砲弾の命中によって戦死すると、城内は動揺して抗戦の意志は挫かれた。(至正)二十七年九月、城壁が突破され、張士誠は残兵を集めて万寿寺東街に迎え撃ったが、軍は逃げ散った。慌てふためいて府庁に戻ると、扉を閉め切って首を吊った。元部将であった趙世雄がこれを解いた。大将軍徐達はしばしば李伯昇・潘元紹らを派遣して翻意を促したが、張士誠は目を瞑って答えなかった。担いで葑門を出て、船に乗せると、今度は食事を取ろうとしなかった。金陵に到着すると、遂に自ら縊死した。四十七歳であった。棺を用意する様に命じてこれを埋葬した。
 張士誠が包囲されつつあった時、その妻の劉氏に語った事がある。「我が敗北して死ねば、其方はどうするか?」劉氏は答えた。「ご心配無く、妾は決して貴方にご迷惑を掛けません。」斉雲楼の下に薪木を積み上げた。城壁が突破されると、妾たちを急き立てて楼に登らせ、養子の張辰保に命じて火を放ってこれを焼かせ、また自らは縊死した。幼い二子は民間に匿われたが、その最期を知る者は居ない。以前、黄敬夫ら三人を重用した事で、呉の人々は必ずや張士誠が敗北すると悟り、「黄菜葉」なる十七字の歌謡(※1)が流行ったが、その後は果たして歌の通りになったと言う。
 莫天祐という人物は、元朝末期に群衆を集めて無錫州を保全し、張士誠が招聘しても応じなかった。兵を用いてこれを攻撃しても、勝利出来なかった。張士誠が元朝の官位を授かると、莫天祐は降伏した。張士誠はしばしば上奏して枢密院同僉に推薦した。平江路が包囲されるに及んで、他の城は全て陥落したが、ただ莫天祐だけは堅守していた。張士誠が敗北すると、胡廷瑞がこれを強襲し、降伏した。太祖は自軍の兵の多くを負傷させた事から、これを誅殺した。
 李伯昇は張士誠に仕えて司徒に昇進し、降伏すると、旧官のままを命じられ、中書省平章政事・詹事府同知に昇進した。兵を率いて湖広慈利県の蛮族を討伐し、また征南右副将軍となって、呉良と共に靖州の蛮族を討伐した。後に胡惟庸の徒党に連座して処刑された。潘元明〔一〕は平章政事として杭州路を守ったが降伏し、浙江行中書省平章政事となり、李伯昇と共に食禄七百五十石とされたが、政務には関与しなかった。雲南が平定されると、潘元明は雲南布政使司の業務を担当し、在任中に没した。
 張士誠は挙兵してから滅亡するまで、凡そ十四年であった。

【注釈】
(※1)「黄菜葉」なる十七字の歌謡、『七修類稿』巻十三、国事類、黄蔡葉には、「丞相閣下はお仕事をなさるのに、黄蔡葉ばかり使っておられるけれど、ある日の晩に西の風が吹いて、干乾びてしまったよ(丞相做事業、専用黄蔡葉、一夜西風起、乾癟)。」とある。尚、この丞相は張士信を指しており、張士誠の事では無い。黄蔡葉とは前述した黄敬夫・蔡彦文・葉徳新の事であり、何れも張士信に重用されていた。西の風とは朱元璋の発した呉討伐の大軍である。

【校勘記】
〔一〕潘元明、本書巻百二十六、李文忠伝・巻百三十、耿炳文伝・巻百三十一、梅思祖伝・巻百三十四、郭雲伝も同様である。本巻上文・本書巻一、太祖本紀・『太祖実録』巻十六、丙午八月辛亥条及び『国榷』巻二、三百二十八頁から三百二十九頁は「潘原明」としている。
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by su_shan | 2016-09-20 19:52 | 『明史』列伝第十一

陳友諒

『明史』巻一百二十三、列伝第十一

 陳友諒、沔陽府の漁家の子である。本来の姓は謝氏であったが、祖父が陳氏に入婿した為に、その姓に従ったのである。幼くして読書に励み、凡その文意を理解する事が出来た。ある術者がその先代の墓地を観た所、「後に富貴を得るであろう。」と言ったので、陳友諒は内心喜んだ。以前に県の小吏になった事があったが、満足する物では無かった。徐寿輝が挙兵すると、陳友諒は馳せ参じてこれに従属し、その部将倪文俊に仕えて簿掾になった。
 徐寿輝は羅田県の人で、又の名を徐真一と言い、織物を売って生計を立てていた。元朝末期に盗賊が跋扈すると、袁州の僧侶彭瑩玉は妖術を用いて麻城県の鄒普勝と共に群衆を集めて叛乱を起こし、紅の頭巾を目印にし、徐寿輝の容貌が普通では無かった事から、遂に主君として仰いだのであった。至正十一年九月には蘄水県及び黄州路を陥落させ、元朝の威順王寛徹不花(コンチェクブカ)を破った。こうして蘄水県を都に定め、皇帝を称し、天完と国号し、治平と建元し、鄒普勝を太師とした。間も無くして、饒州路・信州路を陥落させた。翌年に四方へ出兵し、立て続けに湖広・江西の諸郡県を陥落させた。遂に昱嶺関を破り、杭州路を陥落させた。別軍を率いて鄒普勝らは太平路近辺の諸路を陥落させた。その勢力は非常に強大化した。しかしながら遠大な志は無く、獲得した地域を守る事が出来なかった。翌年に元軍に敗北すると、徐寿輝は逃げ去った。その後、勢力を盛り返し、漢陽府に遷都したものの、丞相倪文俊の専横を許す事になった。
 (至正)十七年九月、倪文俊は徐寿輝弑逆を画策したものの失敗し、黄州路へ逃げ延びた。当時陳友諒は倪文俊の麾下にあり、しばしば功績を挙げ、領兵元帥になっていた。隙を見て倪文俊を殺害し、その兵を吸収し、自ら宣慰使〔一〕を称し、次いで平章政事を称した。
 翌年に安慶路を陥落させ、また竜興路・瑞州路を破り、兵を分けて邵武路・吉安路を奪取し、自らも兵を率いて撫州路に侵入した。続いて建昌路・贛州路・汀州路・信州路・衢州路を破った。
 この当時、長江以南では陳友諒の兵が突出して最強であった。太祖(朱元璋)が太平路を奪取すると、共に境界を接する事になった。陳友諒が元朝の池州路を陥落させると、太祖は常遇春を派遣してこれを撃退奪取し、これより互いに何度も攻撃する様になった。趙普勝という人物は、勇敢な将帥であった事から、「双刀趙」と号した。最初は兪通海らと共に巣湖に駐屯していたが、共に太祖に帰順し、叛いて徐寿輝の下へ去った。この時点で陳友諒は安慶路を鎮守し、しばしば兵を率いて池州府・太平府を係争し、境界上を往来して掠奪した。太祖はこれを憂慮し、趙普勝の食客を買収し、陳友諒の軍中に潜入させて趙普勝を離間した。趙普勝はこれに気付かず、陳友諒の使者を引見するや自らの功績を訴え、恩着せがましく尊大に振る舞った。陳友諒はこれを含み、自身に対して二心を抱いていると疑い、軍を合流させる名目で、江州路より急行した。趙普勝は雁汊で羊を焼いて出迎えた。船に上ろうとした瞬間、陳友諒は趙普勝を殺害し、その軍を吸収した。そして軽装兵を率いて池州府を襲撃したが、徐達らに撃退され、軍は覆滅した。
 初め、陳友諒が竜興路を破った時、徐寿輝は当地に遷都しようと考えたが、陳友諒は反対した。間も無くして、徐寿輝は漢陽府を発ち、江州路に次いだ。江州路は陳友諒の治める所であったので、城郭外に伏兵を置き、徐寿輝を迎え入れると城門を閉じ、その所部を全滅させた。そして江州路を都とし、徐寿輝を推戴して居処とする一方、自らは漢王を称し、王府官属を設置した。こうして徐寿輝を奉って東進し、太平府を攻撃した。太平府の城壁は堅牢で容易に突破出来ず、巨船を持ち出して城の南西に接近した。兵卒は船尾から城堞によじ登って乗り越え、遂にこれに勝利した。更に意識は驕慢になった。采石磯に進駐し、部将を派遣して徐寿輝の面前で物事を述べさせ、護衛の精兵がその頭部を鉄器で粉砕した。徐寿輝が死亡すると、采石の五通廟を行殿とし、皇帝に即位し、漢と国号し、大義と改元し、太師鄒普勝以下の全てを旧来の官位に留めた。忽ち激しい風雨が巻き起こり、群臣は川岸に並んで祝賀したが、儀礼を成就させる事は出来なかった。
 陳友諒は猜疑心の強い性格で、権謀術数を好んで用いて配下の者を統制した。帝号を僭称するに及んで、江西・湖広の地の全てを領有し、その兵力の強大さを頼みに、東進して応天府を奪取しようとした。太祖は陳友諒と張士誠が呼応する事を恐れ、旧知の康茂才に書状を書かせてこれを誘引するという策を設け、侵攻を促進させた。果たして陳友諒は水軍を率いて東進し、江東橋に到達したが、康茂才を呼んでも応じる声は無く、初めて欺かれていた事を悟った。竜湾に戦い、大敗を喫した。水位の低下で船が座礁し、死者は数え切れず、喪失した軍船は数百隻に達し、軽舸に乗って逃走した。張徳勝が追撃してこれを慈湖に破り、その船を焼き払った。馮国勝は五翼の軍を用いてこれを圧迫し、陳友諒は皂旗軍を繰り出して迎え撃ったが、またしても大敗した。遂に太平府を放棄し、江州路へ敗走した。太祖は勝勢に乗じて安慶路を奪取し、その部将于光・欧普勝が降伏した。翌年、陳友諒は兵を派遣して再び安慶府を陥落させた。太祖は自らこれを討伐し、安慶府を奪還し、長駆して江州路に到達した。陳友諒は敗北し、夜陰に乗じて妻子を連れて武昌路へ遁走した。その部将呉宏は饒州路を以て降伏し、王溥は建昌路を以て降伏し、胡廷瑞は竜興路を以て降伏した。
 陳友諒は領土が日に日に縮小していく事に激怒し、大々的に楼船数百隻を建造したのであるが、その高さは数丈に達し、赤色の漆を用いて装飾し、どの船も三層の甲板を重ね、走馬柵を設け、上下の階に居る人の声が互いに聞こえない程であり、船楼は全て鉄板で裏打ちしていた。家属及び百官を乗せ、全ての精兵で南昌を攻撃すると、飛梯や衝車があらゆる街道を並進した。太祖の甥にあたる朱文正及び鄧愈が堅守した事で、三ヶ月経っても陥落させる事が出来ず、また太祖は自らこれを救援しようとした。陳友諒は太祖が現れたと聞くと、包囲を解き、東の鄱陽湖に進出し、康郎山で接敵した。陳友諒は巨艦を集め、連鎖して陣形を作ったので、太祖の兵は高所の敵と戦う事が出来ず、三日間の連戦で危機に陥った。続いて北東より風が起こり、火を放てば陳友諒の船に延焼し、その弟陳友仁らが焼死した。陳友仁は五王を号し、隻眼ではあったが、勇敢で智略に富んでおり、その死が伝わると、陳友諒は意気を阻喪した。この戦役では、太祖の船は小さかったものの、軽快で動かし易く、陳友諒軍は何れの艨艟も巨艦であり、進退に不便であった為に、敗北を喫したのである。
 太祖の乗る船の帆柱は白く塗られていたので、陳友諒は兵卒に対して翌日の戦いでは白い帆柱の船を総攻撃する様に示し合わせた。太祖はこれを悟ると、全ての船の帆柱を白く塗装した。翌日に再度戦闘が行われ、辰の刻より午の刻まで続いた結果、陳友諒軍は大敗した。陳友諒は後退して鞵山を保持しようとしたが、既に太祖は湖口を抑え、その帰路を遮っていた。膠着して数日が過ぎ、陳友諒は皆を集めて討議した。右金吾将軍は言った。「鄱陽湖を脱出するのは難しく、船を焼き払って上陸し、直接湖南へ向かって再起を図るのです。」左金吾将軍は言った。「それでは負けを認める様な物ではありませんか、奴らが歩騎を以て我らを追撃すれば、進退に窮し、取り返しの付かぬ事態を招きますぞ。」陳友諒は決断を躊躇ったが、漸く口を開いて言った。「右金吾の言を是とする。」左金吾将軍は自らの発言が採用されなかった事から、所部を挙げて投降した。右金吾将軍がそれを知ると、自身もまた投降した。陳友諒は更に困窮した。太祖は陳友諒に書状を送り付けたのであるが、その大略は次の様であった。「我は貴公と合従して、それぞれが一方を治め、天命を待とうと考えていた。それなのに貴公は大計を見失い、欲するままに敵意を剥き出しにした。我が寡兵を繰り出して、貴公の竜興路十一郡を掌中に収めるに、未だに自らを悔いる事無く、再び戦端を開いたのだ。まずは洪都府で苦杯を舐め、再び康郎山に破れ、骨肉の将兵たちに重ねて塗炭の苦しみを味わわせた。幸いにして貴公が生還を果たす事が出来れば、帝号を廃し、座して真の主の到来を待つが良い、そうでなければ一族郎党全てを失い、最期に悔恨を遺すであろう。」陳友諒が書状を開くと激怒して返答しなかった。しばらくして食糧が欠乏すると、包囲を破って湖口脱出を図った。太祖麾下の諸将は上流よりこれを迎え撃ち、涇江口で激戦が繰り広げられた。漢軍は戦う者も居れば逃げる者も居り、日没になっても未だに包囲を破れずにいた。陳友諒は船内から顔を出し、陣頭指揮を執っていたが、突然流れ矢が命中し、眼孔から頭蓋を貫かれて即死した。軍は壊滅し、太子陳善児が捕虜になった。太尉張定辺は夜陰に乗じて陳友諒の次子陳理を護衛しつつ、その遺骸を載せて武昌路へ遁走した。陳友諒は奢侈を好み、技巧を凝らして臥牀に金細工を散りばめ、宮中で使用する器物も同じ様にした。滅亡後、江西行中書省が臥牀を進呈した。太祖は呆れ返って言った。「これでは孟昶の七宝溺器(※1)と何も変わらぬではないか!」役人に命じてこれを処分させた。陳友諒が帝号を称してから四年後の事であった。
 子の陳理が武昌路へ帰還すると、帝位を継承し、徳寿と改元した。この年の冬、太祖は武昌路へ親征した。翌年二月に再び親征した。丞相張必先が岳州路より来援し、洪山に差し掛かった。常遇春が迎撃してこれを捕らえ、城下で見せしめにした。張必先は勇将の誉れ高く、軍中では「溌張」を号して、特に重用されていた。それが捕縛されるに及んで、城内の者は恐懼し、投降しようとする者が続出した。そこで太祖は旧臣羅復仁を城内に派遣して陳理を説得させた。こうして陳理は降伏したのであるが、軍門を訪れると地に伏して顔を上げようとしなかった。太祖は陳理が幼弱である事を見て取ると、これを抱え起こし、その手を握って言った。「我は汝に罪を着せたりはせぬぞ。」府庫の財物は全て陳理に任され、応天府凱旋に随行し、帰徳侯を授かった。
 陳友諒が徐寿輝の下へ走ろうとした時、父の陳普才がこれを制止したが、聞き入れなかった。富貴を得てから、父を迎えに行った所、陳普才は言った。「お前は儂の言い付けを守らなかった。もう何処で野垂れ死のうが知った事では無いわ。」陳普才には五人の男子があり、長男を陳友富、次男を陳友直、三男を陳友諒、四男を陳友仁、五男を陳友貴と言った。陳友仁・陳友貴は既に鄱陽湖で戦死していた。太祖が武昌路を平定すると、陳普才を承恩侯に封じ、陳友富を帰仁伯、陳友直を懐恩伯とし、陳友仁に康山王を贈り、所管部署に命じて廟堂を建立してこれを祀り、陳友貴はこれに合祀した。陳理は京師に在住したが、不機嫌そうに恨み言を口にする様になった。洪武帝(朱元璋)は言った。「こんな物は小童の些細な咎に過ぎぬが、ともすれば人心を惑わし、朕の恩義を忘れる事があるやも知れぬ、遠方へ移した方が良かろう。」洪武五年、陳理及び帰義侯明昇は共に高麗へ移され、元朝の降臣である枢密使延安答理(延安ダリ)に護送させた。高麗王に羅綺を下賜し、これをよく監視させた。また陳普才らは滁陽へ移された。

 熊天瑞という人物は、元は荊州の楽工であったが、徐寿輝が長江・湘江流域を掠め取った時期に従属した。後に陳友諒の命を受け、臨江路・吉安路を陥落させ、また贛州路を陥落させた。陳友諒は参知政事として贛州路を鎮守させ、同時に吉安路・南安路・南雄路・韶州路といった諸路を統括させた。しばらくして、東進を表明し、その旗幟に「無敵」と記して、自ら金紫光禄大夫・司徒・平章軍国重事を称した。陳友諒は制御出来なかった。密かに広東を奪取しようと企図し、南雄路で軍船を建造し、数万の軍を率いて広州路へ向かった。元朝の将帥何真は兵を率いて胥江で迎え撃った。たまたま激しい雷雨が巻き起こり、旗艦の帆柱をへし折った為に、熊天瑞は恐れて撤退した。太祖の兵が臨江路に勝利すると、常遇春らを派遣して贛州路を攻め、熊天瑞は五ヶ月以上も抗戦したが、(至正)二十五年正月、養子の熊元震を引き連れ肩脱ぎして軍門に降った。太祖はこれを赦し、指揮使の職位を授けた。翌年に浙西攻撃に従軍した際に、叛いて張士誠に投降し、張士誠に飛礟(投石機)の製法を伝え、包囲軍を砲撃した。城内の木や石が尽きるまで撃ち続け、包囲軍に大量の負傷者を出した。張士誠が滅亡すると、熊天瑞は誅殺された。
 周時中という人物は竜泉県の人で、徐寿輝の下で平章政事となった。後に所部を率いて投降し、熊天瑞は必ずや謀叛すると口添えした。果たして後にその通りになった。周時中は昇進を重ねて吏部尚書となり、鎮江知府に出向し、福建塩運副使を歴任した。
 熊元震の元の姓は田氏であり、戦上手の評判があった。常遇春が贛州路を包囲した際、熊元震は密かに城を抜け出して敵情偵察に向かい、常遇春もまた数騎を連れて出歩いていると、突然遭遇した。熊元震は相手を常遇春と気付かず、やり過ごした。常遇春が帰ると、初めて事態を悟り、単騎で進み出て常遇春を襲撃した。常遇春は従騎を向かわせて刀を抜いて迎え撃ち、熊元震は鉄器を振り回して戦いつつ走り去った。常遇春は「中々の壮男子ではないか。」と言って、これを捨て置いた。これよりその勇武の才幹を好ましく思った。熊天瑞が降伏すると、推薦して指揮使とした。熊天瑞が誅殺されると、再び元の姓に戻したと言う。

【注釈】
(※1)孟昶の七宝溺器、五代後蜀の後主孟昶の故事。その治世の後期は奢侈に溺れ、便器ですら珍宝で飾り立て、「七宝溺器」と称した。

【校勘記】
〔一〕宣慰使、元は「宣慰司」であった。宣慰司とは機構の名称であり、宣慰使は官名である。陳友諒が自称したのであれば、官名とするのが正しい。『明史稿』伝八、陳友諒伝・『太祖実録』巻十三、癸卯八月壬戌条は何れも「宣慰使」としており、これに基づいて改めた。
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by su_shan | 2016-09-19 16:08 | 『明史』列伝第十一